wikipediaより抜粋して掲載
東郷 茂徳(生名:朴茂德、1882年(明治15年)12月10日 - 1950年(昭和25年)7月23日)は、日本の外交官、政治家。太平洋戦争開戦時および終戦時の日本の外務大臣。欧亜局長や駐ドイツ大使および駐ソ連大使を歴任、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣。
萩原延壽『東郷茂徳 伝記と解説』によれば、茂徳は1882年12月10日に「朴茂徳」として鹿児島県日置郡苗代川村で生まれた。苗代川は、豊臣秀吉の文禄・慶長の役の際に捕虜になり島津義弘の帰国に同行させられた朝鮮人陶工の一部が、薩摩藩によって集められて形成された集落であった。薩摩藩は苗代川の住民に対して、朝鮮の風俗を保持すること、日本名の使用禁止、他所との通婚の規制を命じる一方、他所の人間からの「乱暴狼藉」に対しては厳罰を課すなど、保護・統制が一体化した政策を取った。
以上
3歳の時に、東郷姓を買うまで朴姓でした。日本在住ではあったけれど、純粋な朝鮮人。
当然朝鮮語も話せたのでしょう。
「沈壽官」と同郷なのだけれど、こちらは韓国ではあまり有名ではないようですね。
日本の歴史には、重要な人物ですが。흥미로운 인물상이라고 생각합니다.
유럽의 경우 혈통에 관계없이 자신이 태어난 국가에서 활약하는 경우를 많이 봤습니다.>>1
「当然朝鮮語も話せたのでしょう。」
そりゃどうかなあ? 来日してから4世紀も経ってるし。
金剛組の従業員が古代百済語を話せるか?って事。>>4
苗代川村時代は、戸数200~300戸 人口1000人弱
とあるので、近親婚とまでは言えないでしょう。
本貫も維持していたようですから。
もっとも、苗代川村は現在統合合併で名前が残っていません。
住民も、江戸時代を通して、朝鮮名、文化、習俗を維持してきたものの明治維新以後朝鮮名の墓も、姓も、故郷も多くが捨ててしまい。残っているのは「沈壽官」などごくわずかな人々だけのようです。ところで、なんでそこまで血統を維持して保護しようとしたんだろうね・・
西欧、日本でもハイテク輸出産業と同じでしょう、保護育成し投資し改良競争も激しい。
交易に対応するなら中国語、スペイン、オランダ、英語以外に朝鮮語の通訳確保やスパイ養成も必要でしょう。
明の軍に従軍する技能集団が陶工集落で働いる場合もあり。医療技術や軍事や技能人材として明人も日本で保護されていたのだね、
唐入りで出兵し、捕虜の唐人集落や唐人(海外)人材を確保することは地域発展に繋がったのだね。韓国では朝鮮人捕虜とされていても、
実際は大陸出身の技術者だったということもある。技術があるのだから最初から武家だったり、エリートの家系となっていることも。
大日本帝国外務大臣 朴茂徳(東郷茂徳)について語り合いましょう。
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