“慰安婦映画”を観たソウル市長が日本に謝罪を要求「まずは加害者が」
2018年7月4日、韓国・ソウル経済によると、韓国の朴元淳(パク・ウォンスン)ソウル市長が、慰安婦問題を扱った韓国の映画「Her story」を鑑賞し、その感想を語った。
同映画は、1990年代、韓国の元慰安婦らが日本政府を相手取り起こした訴訟で、一部勝訴判決を引き出すまで闘い続けた姿を実話を基に描いたもの。
朴市長は映画鑑賞後、ミン・ギュドン監督や元慰安婦役を演じた女優キム・ヘスクと共に、観客との対談会に参加した。朴市長は「『終わるまで終わらない』という台詞が印象的だった」とし、「まだ謝罪していないにもかかわらず、日本は慰安婦問題を終わらせようとしている。映画は慰安婦被害者たちの目標がお金ではなく名誉、プライドであることを教えてくれた」と話したという。また「国と国の関係は多面的で複雑であるため、慰安婦被害者に対する謝罪が受けられなくても関係は続いていく。永遠に敵対し、憎み合わないために不幸な歴史を乗り越えるべきだ」と主張し、「過去をきれいに清算しなければ平和の共同体を築いていくことができない。まずは加害者が謝罪をするべきだ」と強調したという。
この報道に、韓国のネットユーザーからは「人気のある政治家が慰安婦問題に関心を寄せる姿は、見ていて気持ちがいい」「朴槿恵(パク・クネ前大統領)が間違った合意を結んだために、今も多くの人が苦しんでいる。もっと多くの政治家が、朴市長のように慰安婦問題の真相究明と賠償要求に取り組んでほしい」と好意的な反応が寄せられている。
(全文はリンク先から)
https://www.recordchina.co.jp/b587481-s0-c10-d0035.html
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慰安婦授業を強化を命じたソウル市長。次期大統領候補にも挙がってるらしいですね。ある日病院に行って帰ってくると主人がいなくなっていました。そして翌日病院に行くと日本人の医者は、私たちは日本に帰るから後は国に帰って治療しなさいと言いました。慰安所に戻るとチョウさんが日本が負けて戦争が終わったと私に教えてくれました。そして軍人たちも私以外の女性たちもいつの間にかいなくなり、私だけが残されてしまいました。そのうち、中国人が建物を壊したり放火しているのを見て、私も日本軍の関係者として危害を加えられるのではないかと怖くなりました。
チョウさんの奥さんが家で3日間ほどかくまってくれた後、上海の埠頭に連れていってくれました。私は埠頭で3日間乞食のように野宿して帰国船を待ちました。ようやく帰国船に乗り5日目にプサンに帰り着き、船の船長にたのんで麗水まで連れていってもらい、列車に乗って故郷に帰りました。故郷では母は生きていましたが、父は亡くなっていました。父は解放の頃に「火病」で死んだとのことでした。
怒りや悲しみのために死んでしまうことを韓国では「火病」というのです。
私はやっと故郷に帰ってきましたが、当時は左翼と右翼の対立が厳しい時代で、外国帰りが苛められることが多く、
私は故郷を出て一人で光州に行き、もと働いていた家を訪ねました。しかし、すでにそこの主人はいませんでした。そこで、母の実家のある全羅南道のチャンフンにいって農業をして暮らしました。
しかし1950年に朝鮮戦争が始まると、そこにもいられなくなって、プサンに来ていろいろな家で1年や数ヶ月づつ家政婦をして暮らすようになりました。
10年前に妹の息子の金鐘浩が自分の家に来るように行って、部屋を空けてくれました。私は家政婦をして働いていた時は、甥にいくらかのお金を入れて来ましたが、歳をとって、家政婦の仕事も出来なくなりました。私は国に帰ってきてから従軍慰安婦をさせられていたことを誰にも言ったことがありません。
母には上海に行って軍人の家で炊事などをしていたと言いました。甥が従軍慰安婦に関するテレビのニュースを見て、私が従軍慰安婦をさせられていたのではないかと気付きプサンの挺身隊対策協議会に申告したのがきっかけで、この裁判を起こすことになったのです。
家政婦をやめてから、私は韓国政府から生活保護として1ヶ月米5升と麦5合、燃料費二万ウォンの支給を受けて暮らしてきました。昨年から挺身隊ハルモニ生活補助金として月一五万ウォンが韓国政府から支給されるようになりましたが、今も三畳一間の部屋で家賃が八万ウォンで苦しい生活です。雨が降ると頭が痛くなり、時々、頭が空白になります。
日本政府は、私たちのことに日本政府は責任はないとか、私たちは公娼だとか言っているそうですが、私はこれを聞いて腹が煮えくり返る思いです。反日をすれば支持率UP
これだから反日洗脳は止められないw
朝鮮人wwwこの裁判を起こした朴頭理(パク・トゥリ)さんの証言
私の名前は朴頭理(パク・トゥリ)といいます。生年月日ば新暦と陰暦がありますが、陰暦1924年9月2日生まれです。
ソウルにある仏教団体のナヌメチップ(わかちあいの家)で細々と生活をしております。ナヌメチップの中で家事や掃除の手伝いなどをしており、ときどき日本大使館へのデモにも行っています。文字が読めないので住所が何番地かというのは分かりませんが、住所を書いたメモは私がいつも持ち歩いているカバンにいれています。ナヌメチップヘ行く道は知っています。
私の家族は父と母、そして兄弟が7人で、兄弟は私も含めて女は4人、男は3人でした。
父親の仕事は若い頃は何をしていたのか知りませんが、私の知っている限りでは大工をやっていました。家は貧しくて、一家そろって藁葺き屋根の家に住んでいました。貧しかったので学校に行くこともできず、今でも字を読むことも書くこともできません。
私が17歳のときに、私の村に「日本の工場で働けば金儲けができる」という話が村の娘たちにもちかけられ、男たちが村の娘たちを集めにやって来ました。日本語と韓国語を話す見知らぬ男でしたが、韓国語が上手だったのでたぶん朝鮮人だと思います。
私もお金を稼ぐために日本の工場に行って働こうと思いました。その時にしていた仕事は、洗濯をしたり山に薪を取りに行ったりといった仕事をしていました。あまりよく覚えでませんが、私が故郷を後にしたのは暑くもなく寒くもなかったので、たぶん春か秋だったと思います。
初めは父も母も日本の工場に働きに行くことには反対していましたが、嫁に行くにはお金も必要だし、嫁に行く前に日本の工場に働きに行ってお金を稼ぎたいと私が思っていたので、仕方なく承諾しました。日本へ行くことになった日、父は仕事で家を留守にしており、家には母がいました。
娘たちは一ヵ所に集められてから釜山に行き、釜山から船に乗せられました。
何人かの娘たちと一緒で、船に乗るまではどんな人たちと一緒だったのか覚えていたのですが、船に乗った途端に船酔いがひどくて、今はよく覚えていません。
船に乗っているあいだもずっど船酔いがひどく、船がどこへ行ったのかどこに着いたのかも分かりませんでした。
舶から降りたとき、そこが台湾だということも分かりませんでした。降りたときも船酔いの状態がひどかったので、船を降りてからまず病院に連れていかれました。
病院から家に連れていかれて、その後何日かたってから周りの人に「ここは台湾だ」ということを教えてもらって、そこで初めて含湾に運れて来られたということが分かりました。
病院から工場に連れていかれるのかと思っていましたが、連れていかれたのは軍人相手に体を売る「慰安所」でした。その時だまされて連れてこられたことが分かりました。
話が違うと思っても、言葉も通じず、カもなかったので、いくら抵抗してもどうしようもありませんでした。
「慰安所」の住所は当時は覚えていましたが、今は覚えていません。でも周囲に山があったり田や畑があり景色は今でも覚えているので、私をその場所へ連れていってもらえば分かると思います。
「慰安所」はコの字型をした建物で、両方の棟に娘たち(「慰安婦」)たちがいました。
コの字型の突きあたりは廊下になっていて、庭には薪を置いたり水を置いたりしていました。入り口のほうには食堂があり、そのすぐそばに主人の住んでいる家がありました。窓には鉄格子はなかったのですが、塀のまわりは鉄格子で囲まれていました。その「慰安所」の主人には奥さんがいました。主人とは別に管理人がいて、言うことを聞かないと暴力をふるうのは管理人でした。私はその「慰安所」で日本名で「ヒジコ」と呼ばれていました。私は「慰安所」に連れて来られて、客をとらされました。初めて男の人と接したのは「慰安所」でした。客として来る日本の軍人からもお金はもらっておらず、「慰安所」の主人からも一銭ももらっていません。
「慰安所」では日本語しか喋らせてもらえず、もし朝鮮の言葉で話をしたりすれば、相手は日本の軍人なので、それこそ叩き殺されるぐらいひどい目にあわされました。
具合が悪くなったときなどは、病院に連れていってもらえることもありました。
週に一回は注射を打たれました。
位の低い軍人からは何ももらえなかったのですが、位の高い軍人のときは、いくらかの小遣いをもらったり、きれいにするためのクリームなどをもらったりしました。
私の客は多かったので、病気にもなりました。
食事は朝はなく昼と夜の二食だけで、いつもひもじい思いをしていました。
台湾にいた6年問のあいだに、主人はどんどん替わっていきましたが、新しい主人になってもお金はまったくもらえませんでした。休みは月に一度で、もし外出するにしても必ず「何時何分までに戻ります」という許可を取ってからでないと外に出ることはできず、それを守らないとひどい目にあわされました。休みの日は、ほとんど一日中寝ていたり、洗濯をしたりして過ごしました。ある日外出したときに、たまたまバナナ畑があり、あまりにお腹が空いていたのでバナナを取って食べたら、畑の主人に見つかってしまい、畑の主人から半殺しの目にあわされ、管理人からも半殺しの目にあわされたことがありました。
私が人に頼んで台湾から故郷に手紙を出していたので、住所を知っていた弟からある日手紙が居きました。手紙の中に「ノートや鉛筆を買ってほしい」ど書いてありました。弟は私が工場で働いてお金を儲けていると思っていたのでしょう。でも私には買えるお金もなかったので、そのことを嘆き悲しんでいると、ほかの「慰安婦」たちがそれを見かねて、一人いくらかずつお金を集めてくれて、そのお金で弟にノートと鉛筆を買って送りました。弟は事情を知らないので、「またノートと鉛筆を送ってくれ」と手紙がきました。
最初に連れていかれた「慰安所」から2、3回場所を変わりましたが、ただ言われる通りについていっただけなので、どこからどこに行ったのかは分かりません。軍隊が移動するたびに移動していました。
私が一番嫌だったことは客をとることで、「客をとるのが嫌だ」と言おうものなら半殺しの目にあわされました。ある日、「慰安所」から連れ出されて船に乗せられたので、その船の中で「どこへ行くのか?」と尋ねると、「朝鮮が解放されたから朝鮮に帰るんだよ」と言われました。その時に朝鮮が解放されたことを知りました。
同じ船に乗っていたソウル出身のおじいさんが教えてくれて、彼にはいろいろと親切にしてもらいました。今から思えば彼の住所でも聞いておけばよかったと思います。
ようやく故郷に帰ることができ、故郷では父も母も健在で、父と母には「日本の工場で働いていたけれど、お金は一銭ももらえなかった」と嘘をつきました。そのことに対して父も母も別に何も言いませんでした。
故郷には帰ることはできましたが、6年の「慰安婦」生活のおかげで私の体は満足な体ではありませんでした。
その後、結婚しましたが、夫には「慰安婦」をしていたことは言えず「日本の工場で働いでいた」と言って隠していました。結婚して6年問は子供ができませんでしたが、そのあと女の子が3人と男の子1人を産みました。
夫も姑も亡くなった後ば、行商などをやって生活していました。娘2人と息子を亡くし、戸籍上は私1人だけです。
私の人生ばこれっぽっちもいいことはありませんでした。今は体の調子が悪いので病院通いが多いです。今の状態はまるで生き地獄です。生きていく事は一番辛いです。若いころにひどい目に遺ったぱかりに、今、後遺症がでて耳のほうからも血がでたり、ウミがでたりしますけども、年を取って手術は不可能だと言うし、足もどうか手術で直しでくれと言っても、年だから無理だと言います。もう、本当に生きながらえていること、恥ずかしいと言っていいのか、全く地獄そのものです。私はだまされて連れていかれ「慰安婦」を強制されたのです。
今の日本人は立派な紳士だけれど、昔の日本人は卑怯者で、悪者でした。それから、これだけ6年間も人の体をむしばんでおいて、国家賠償は一切なし。話があれば、民間から募金してうんぬんとかいう話をやっている。我々は申請してから3年問、日本政府は我々が死ぬのを待っているのではないかと、誠意も何もないんじやないかと。
私は若いころに苦労し、その後も苦労したことは、日本全国をくれてもいやだ、自分を戻してくれというのが本当だ、それが私の気持ちです。私は何億の金をくれとか、何千万の金をくれとかは申しません。私が後何年生きておれるでしょう。いくらかでも誠意を見せて補償をしていただければ、たまにはおいしいものを食って、たまにはいい生活をしたり、たまには友達と食事をしたり、そういう生活を何年問か続けて死ねぱ何十年間かの苦労もわずかでもほぐれるんではなかろうかと思います。
3年間引っ張って引っ張って、我々が亡くなるのを待っているような、そういう不誠意なやり方、私はもし死んでも、鬼となって日本政府に補償を願いたいと思います。
裁判官は私がこれだけ話しているのに、黙って聞いているだけで、どう思っているのか、何か言うことはないのか。
(裁判官質問)「今回このような裁判を起こしたのは、どのような気持ちからですか」
我々をひどい目にあわしたのだから、補償をしてくれということでやっています。
高齢者ですから、補償してくださるなら、生きているうちにしてください、ということでやりました。>>56
日本政府は嫌韓政策なんてしてませんよ
「約束は守れ」これだけしかしてませんそうだな。世界中で捏造で貶められてる被害者の日本と日本人に対し加害者の韓国と韓国人は謝罪と賠償をすべきだな。
この裁判を起こした李順徳(イ・スントク)さんの証言
私は1918年陰暦10月20日、全羅北道裡里郡の慕縣(モヒョン)どいう村の農家で生まれました。
父母と私と三歳下の弟の4人家族で、家は小作地も無く、他の農家の賃仕事で生計をたて、大変貧しい暮らしでした。部屋が一つしかない藁葺きの家に一家で住み、私も弟も一度も学校に行ったことがなく、私は家事をまかされていました。
私が上海に連れて行かれたのば、1937年の春、数えで19歳(満18歳)のときのことです。叔母の話では私が生まれた年は1919年だとのことですので、それが本当なら満17歳の時に連れて行かれたことになります。
その日私は夕食の準備のため、村の畑の畦道で蓬を描んでいました。当時の朝鮮の田舎では食べるものがない貧しい農民はよく蓬を描んで麦飯を少し混ぜて食べたのです。そこに3、40歳位の見知らぬ朝鮮人の男が来て、「そんな事をしているよりも、自分についてくれば、履物もやるし着物もやる。腹一杯食べれるところに連れて行ってやる」と誘いました。
私はそのとき履物もなく草鞋をはいていましたし、空腹を癒すことに精一杯だったので、ついその男の言葉に乗せられ、何も考えずについて行くことにしました。私は父と母に挨拶してから行きたいと言いましたが、男は時間がないと言って私の手をとって引っ張りました。当時男から手を取られるというのは大変なことなので、私は驚き、恐ろしくて、恥ずかしくて、そのまま泣きながら連れて行かれてしまいました。私は、裡里邑の旅館まで一時問位早足で歩いて連れて行かれました。旅館には私と同じように連れて来られた人が14、5人いて、一緒に夕食を食べました。皆、私と同じような農家の娘で、誰もどこに何のために連れて行かれるのか分からず、泣いていました。その夜はみんなで一部屋で寝ました。私ば一晩中泣いて一睡もできませんでしたが、部屋の外から鍵がかけられていて逃げることも出来ませんでした。
翌日になると私を連れてきた朝鮮人の男の姿は見えず、代わりに日本人の男が3人いました。
男たちはカーキ色の服を着てゲートルを巻き、腹にサーベルをぷらさげていました。
私たちは朝食後その日本人達に連れられて旅館を出て30分ほど歩いて裡里駅に着き、どこに行くかも告げられないまま汽車に乗せられました。汽車の中で2回寝て、上海の駅に着きました。上海に着いて食事をした後、幌のないトラックの荷台に乗せられました。日本人の1人は運転手の横に座り、残りの2人は私たちと一緒に荷台に乗りました。運転手も日本人で他の3人と同じ服装をしていました。
約3時間位トラックに乗って日本陸軍の駐屯地に連れて行かれました。そこには大きな軍用テントがあり兵隊たちが住んでいました。軍用テントの近くに、むしろの壁に萩を編んで作った屋根の小さな小屋が点々とたっていて、私たちはひとりずつばらばらにそこに入れられました。小屋は畳2~3枚位の広さで、床は枯れ葉の上に竹で編んだ敷物を敷いて、その上に国防色の毛布が掛けてあり、雨が降ると雨水が沢山漏れてきました。
私は軍服と同じ色の上着とモンペを支給され、最初の3日間は何もなく、その小屋で休んでいました。その間に血液検査と「六○六号」と言われる注射をされました。注射されたと朝鮮人の軍人が一緒に入ってきたので、何の注射かと間いたら、妊娠をしないための注射だと言われましたが、その時の私にはそれが何を意味するかも理解出来ませんでした。まず、慰安婦白書の公開から始めよっか?
帝国の慰安婦で訴訟起こされた内容を政府が公式資料として公開するだけだよ。ケンチャナヨ4日目にミヤザキという名の年配の将校が入ってきて、私を「カネ子」と呼び、一緒に寝ようと言いました。嫌だというと「大丈夫、何でもないから怖がるな」と言って抱きついてきました。その将校は私を無理やり押し倒して犯し、それから3日間毎晩やってきました。彼の軍服には星が三個ついていて、そこにいた軍人の内で一番位の高い人だったと思います。ミヤザキは土曜日には自分がくるので他の兵隊の相手はするなと言いました。
最初の三日はミヤザキの相手だけをさせられましたが、その次の日にはたくさんの兵隊が私の小屋の前に行列をつくり、次から次へと私を犯しました。抵抗しようとしましたが、起き上がると殴られ、蹴られるので、横になって男たちにされるままになっていました。それから毎日たくさんの兵隊の相手をさせられるようになりました。朝の9時ころから、平日には8~9人、日曜日には15、6人の兵隊の相手をしました。
私は連れて来られたときにはまだ生理がなく、約一年後に始まりましたが、生理のときにも部屋の中においたバケツの水で洗いながら男の相手をさせられました。
軍人のなかにはサックを使う人も使わない人もいました。生理の時だけサックをする人もいました。私は最初サックというものがよくわからなかったので、兵隊が置いて帰ったものを風船だと思って膨らましたことがあります。
「六○六号」の注射は二週間に一回打たれました。いつも星二つの軍服の同じ人が注射しました。
一緒に朝鮮人の軍人が来ましたが、その人の襟章は星ではなく丸が三個ついていました。「六○六号」の注射以外に検診などはありませんでした。このような生活の中で、お金や軍票をもらったことは一度もありません。チップのようなものも、もらったことがありません。>>56
政府が嫌韓してたら、今頃韓国経済が崩壊してるわw風呂はなく、部屋の中でバケツに扱んだ水で体を洗いました。食事は小屋の前に軍人がもってきて鐘を鳴らすので、自分で小屋の中に持ち込んで食べました。食事時に男の相手をさせられて、食事ができないこともよくありました。最初は日本語が分からないといって兵隊たちによく殴られましたが、一年後には話せるようになりました。監督が厳しくて、他の女性と話をすることもありませんでした。
小屋の前に兵隊がいつも見張っているので逃げることもできませんでした。
こんな生活のなかで、ミヤザキは私に暴カを振るうこともなく、親切にしてくれました。
彼は私がチマ(スカート)で顔をふいているのをみて、石鹸とタオルー枚を持ってきてくれました。
一度だけミヤザキが飛行機に乗せてくれたことがあります。小さなトンボ飛行機で操縦士の外は私とミヤザキの二人だけが乗りました。私は恐ろしくてミヤザキにしがみついていました。私のたった一つの楽しい思い出です。私が上海に来てから一年程してミヤザキが日本に帰ることになり、日本について来て自分の妾にならないかと言いました。しかし、私は故郷に帰りたいので嫌だと言って断りました。
解放の1~2ケ月前、ある将校が自分と約束しているのに何故他の男と寝たかと私を責め立て、軍靴で私の腹を力任せに蹴り上げ、刀で背中を斬りつけました。私は卒倒し、気づいてみると見張りの軍人が人を呼びにいって、小屋のなかで治療してくれましたが、一週間は起きることもできませんでした。
故郷に帰ってからも傷の治療をしましたが、腹と背中の傷は今もはっきりと残っていて、雨の日には背中は今でも痛み、動きが不自由です。結局私は、1945年の解放の日まで慰安婦をさせられました。いつもの小屋にいると、小屋の裏の道に沢山の朝鮮人が来て、歓声を上げ「解放だ。掃ろう。」と叫んでいるのが聞こえました。日本の兵隊たちはいつの問にかいなくなっていました。
私は最初は解放とは何の意味かわかりませんでしたが、説明を聞いてわかりました。そこで、その朝鮮人達について帰ることにしました。屋根のない貨車に乗り雨に濡れながら、何日もかかって帰ってきました。
家に帰ると、両親はすでに亡くなっていて、弟だけが家にいました。両親は私のことを心配し、一生懸捜し回り、絶望して死んでしまったそうです。弟は私にどこにいたかと聞きましたが、私は本当のことは恥ずかしくて言えず、金持の家で飯炊きをしていたと話しました。
その後、農作業の雑用などの賃仕事をして暮らしましたが、一年後に金堤(キムジェ)に住んでいる17歳年上の男を紹介され、その男の後妻になりました。そこで8年暮らしましたが、夫は死亡し、夫の子供や嫁に出ていくように言われたので、金堤を出ました。
その後今の夫を紹介され、再婚して光州に来ました。私が慰安婦をさせられていたことは前の夫にも今の夫にも話しませんでした。私が裁判を起こしたので、今の夫は人からその話を聞くこともあると思いますが、教育も受けていないし、もう年をとっているのでよく理解できないようです。長い間慰安婦をさせられていたためか、私には子供がとうとう出来ませんでした。再婚後婦人科の診療を受けたとき、医者から何か無理をしたことがないかと尋ねられたことがあります。今は生活保護を受け、政府から月に15万ウォン(2万円弱)と米の現物支給を受けて夫とふたりで暮らしています。支給される米は一月分が二週間位でなくなってしまい、苦しい生活です。日本政府からは何の補償も受けたことがありませんが、昨年の夏韓国の民間募金から500万ウォン(約62万円)を受けとり、やっと一息つきました。いつも頭が痛く、目も良く見えず、足がふらつきます。
私は、日本が補償するなら、私が死ぬ前にしてほしいと恩います。私が生きているうちなら受け取った金で着物も買えるし、病院にも行けるし、薬を買うこともできます。私が死んでから補償していったい誰が金を使うのですか。日本政府は補償の代わりに女性自立センターというのをつくると言っているそうですが、とんでもないことです。個人補償をしないのなら、このまま総理大臣のところに行ってその前で自殺してやろうとも思っています。>>69
工場に就職させてあげると騙された?
http://www.awf.or.jp/pdf/0051_1.pdf
p98渡航には本人自ら警察署の赴き身分証明書を得ること
p99 身分証明書発行の際に同一戸籍内の親族の承諾を得ること
p100 略取を防止する為に雇用契約書が必要
P.75(内務省)
前線陸軍慰安所営業者に対する注意事項
前線陸軍慰安所に於いて稼業する酌婦募集に赴き同伴同渡セスとする時は予め左記必要書類を整え
着渡と同時に当館に願出許可を受くへし
若し必要書類具備せさる場合は許可せさると共に直ちに帰渡せしることあるべし
記
一 本人の写真二枚を添付せる臨時酌婦営業許可願各人別に壱通(様式第壱号)
一 承諾書(様式第二号)
P.79
承諾書(様式第二号)
戸主又は親権者と稼業者(本人)の署名捺印が必要>>1
何回やっても口から出るのは謝罪と賠償
まるでご飯はまだかと怒る認知症の老人のようだねw>>68
>歓声を上げ「解放だ。掃ろう。」と叫んでいるのが聞こえました。
志願して上海の駐屯地にいた奴が解放w
上海で解放されたと叫ぶコリアンは中国側についてた朝鮮族だろw
日本軍の部分をぜんぶ上海臨時政府に置き換えだな。この裁判を起こした慰安婦の加害者は、慰安婦を騙した朝鮮人だ。
まさか韓国で未だに捜査していないのか?>>39
おい!
朝鮮ゴキブリよ!
いい加減に被害者コスプレは止めろ!
お前たちに反論は許されない。
分かったか?
これは命令だ!>>1
まず試し腹文化について謝罪するべきニダ!^^>>56
試し腹の繰り返しの末生まれてきた君たちはDNAが損傷してます。
わかる?
お前らだってなんの脈絡もなく「韓国嫌い」って言われたらいやだろ?
そのうえ国旗を燃やされたり、小学生の描く絵が半韓まっしぐらだったりしてみ?
それやられたら嫌いになるだろ?
それすらわからないからDNAが損傷してるんだよ?
試し腹の繰り返しで生まれてきたお前ら南鮮人は穢れた民族。
浄化すべき対象だよ^^
お前ら全員欠陥しかないから^^L.A.で毎月逮捕される売春婦の9割が韓国人と韓国紙報じる
2012.11.22 16:00
「売春大国」の汚名を返上すべく、韓国では売春の摘発が強化されたが、なくなるどころか地下に潜り、さらには“輸出”までされて、ますます世界から白い目で見られている。
規制強化を受けて商売のしにくくなった韓国を出て、海外で売春するケースも増えている。
米国では、最近5年間にニューヨークなど東部地域だけで200人以上の韓国人が売春容疑で摘発された。2011年には看護師資格で入国した韓国人女性が「ポドバン」(売春を斡旋する出張マッサージ店)を営業して、FBIに逮捕された。
ロサンゼルスでは、「毎月逮捕される70~80人の売春婦の9割が韓国人」との警察関係者の証言を韓国中央日報(2006年6月21日)が報道している。
オーストラリアでも2011年、ワーキングホリデー・ビザで滞在していた韓国人3万5000人のうち、1000人超の女性が売春しているとオーストラリア政府が韓国に抗議して大問題になった。
このような売春の“輸出”は韓国側も問題視しており、今年7月22日、朝鮮日報は「米国とオーストラリアの両政府によると、米国で売春目的で働く外国人女性の4人に1人(23.5%)、オーストラリアでは5人に1人(17%)が韓国人」と報じている。
日本でも今年9月、東京・鶯谷で派遣型の売春クラブを経営していた韓国人グループが売春防止法違反で逮捕された。容疑者は韓国人女性に就労ビザなしで入国させ、売春させていた。「韓国人が日本に来て短期滞在で稼ぐには売春しかない」と供述したという。
2010年10月、韓国のパク・ソンヨン議員は海外で売春する韓国人が10万人に達すると公言し、そのうちの5万人が日本で売春していると指摘した。>>77
韓国人。君らの主張が正しいなら70年前から民族性が退化してるんじゃないかい?(笑)人身売買や違法な売春を禁止したのは日本だ。敢えて「禁止」しなければならないっていう事はそれほど迄に朝鮮人のモラルが腐ってたってことだ。今の韓国人が主張する併合下で虐げられた清く正しい韓国人は残っている記録にも、現在の韓国人の姿にも一致しないんだよ。裕福になったはずの韓国人が世界中に遠征してまで売春をしているのに当時の今より貧しかった筈の韓国人朝鮮人はやらなかったなんて有るわけないだろ。(笑)現実の話としてバッカスおばさん達は慰安婦達と変わらない世代にも関わらず今尚売春しているわけだしな。
>>79
韓国人が思う純粋善良な韓国人は存在しないし、韓国人が思う極悪非道日本人も存在しない。現れるデータ、昔の資料、全てに於いて一致しないんだよ。(笑)>>81
試し腹くんこんばんは~~~~
お答えします。
朝鮮民族はDNAが損傷しています。
なぜかというと
兄が妹を犯し、妊娠させてから、「妊娠できる子です」といって嫁に出したから^^
お前ら朝鮮民族はこの世で最も穢れた民族なんです。
日本軍がどうこう言う前にその穢れたDNAを浄化してから書き込みしたら?個人の人が自分の父親に慰安婦の話を聞いた動画。ちょっと爺ちゃんの反応が鈍くて日本人でも聞き取りにくいが…。韓国人の挺対協だかに囲われてる慰安婦の話よりリアルだろう。YouTubehttps://youtu.be/ZvoHgwQqDIY
>>84
長いので要約すると
①満州の慰安所にこの爺ちゃんは行った。
②さぼって昼から慰安所に行ったら憲兵が回ってきて慰安婦に隠してもらった。
③慰安婦は金を持っていて買い物にも自由に出ていたし、個人的にごちそうしてもらった。
④慰安所には昼間も見張りは居ない。というより、慰安婦しか居ない。
⑤普通に何人かで慰安所を出て川岸まで遊びに行った。
※因みに憲兵は慰安所に居るわけでなく、市内を巡回しているイメージ。>>82
お前は、韓国政府は加害者の朝鮮人手配師と娘を売った親を罰したと言っていたな。
その事実を聞いているが、まだ答えていない。
何時まで逃げ回っているのか>>39
被害者は当時貧しかった女たちだが、加害者は売春斡旋業者だ。しかも、当時は売春斡旋業は合法、悪徳業者が加害者。すべて、朝鮮人。
そきをちゃんと認識しないと、間違う。戦場や歓楽街はいわば売春行為の場所。軍人かどうかは客筋のこと。軍人による強制連行はなかった。
なぜ、戦後も売春婦がなくならなかったのだと思うのか? 日本軍が去ったあとも悪徳業者がいたから。商売先と商売相手を変えただけなのだ。
しかも、売春婦は売春の場から逃げてもひと扱いされない韓国社会だから、逃げ場はない。これが本当なのだ。慰安所を利用した韓国人男性はなんて言ってるの?
>>26
それを言ったら、
殺されるニダ。韓国人は論破してもファビョッて「日本は謝罪と賠償を」しか言わないもんな。
病人だぜ、明らかに。慰安婦、徴用工、竹島って反日を掲げれはいい商売になるんだなぁ~。
俺も韓国行って反日を全面的に掲げれば、いい商売ができそうだな。
反日グッズ作ればガンガン売れそう。
反日長者になれるね。日本人の8割近くが謝罪は必要ないと考えています
(当時の日本軍にとっては鹵獲したジープは少数だったのに)ジープで輸送されたと証言している
(当時の日本軍の軍服にはジッパーなんてついて無かったのに)日本軍人のジッパーを下げたと証言している
現実ですらこんな状態なんだから、映画なんて『元慰安婦の証言を元にした』という建前の元にどんなトンデモ環境を作っても韓国的には問題無いんだろこいつがいる限り大使館前の慰安婦像は撤去されない
つまり韓国は日本にすり寄ってこれないわけだぜひ韓国の次期大統領でお願いします。
詐欺事件の加害者は被害者だと大声で騒ぎ立ててる方なんだよ
戦中、戦後、現在まで
朝鮮人を騙して管理しているのは朝鮮人であり
それは何一つ変わってない
朝鮮人が日本人から金を取る構図は変わっていない
今も未来も朝鮮人は
売春婦を使って金を取るビジネスを辞めない
朴元淳ソウル市長 “慰安婦映画鑑賞”「まずは加害者が謝罪をするべきニダ」
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