1876年(明治9年)日本は朝鮮国との間に日朝修好条規を締結し朝鮮国の開国を求めました。
日本がこの条約を結んだとのと時を同じくしてドイツ、イギリスも条約を結びました。
清国の属国である朝鮮国と条約を結んだ日本やイギリス、ドイツは朝鮮国を独立国と認めそれまで鎖国攘夷政策を取っていた朝鮮国は開国派が影響力を持つ様になり、日本もその支援を行っていたのです。1982年(明治15年)朝鮮政府の政策を清国寄りにしようとした大院君が起したクーデター(壬午政変)が勃発、この政変に清国が軍事介入を行い首謀者の大院君を有ろう事か逮捕してしまったのです。この結果、朝鮮国は再び清国の属国となりました。1884年(明治17年)日本の支援を受けた開国派が起したクーデター甲申政変が勃発、しかし、清国が軍事介入、鎮圧しました。
この時、日本大使館は清国側によって焼かれ、被害者は壬午政変を上回るものになりました。この結果、明治政府はロシア等の白人列強諸国から日本を守る為にどうしても必要な朝鮮国の独立は、清国と戦い勝つ以外にないと考える様になったのです。(日本の安全保障上の朝鮮半島の位置づけがどれ程重要なのかは、朝鮮戦争の回顧録としてマッカーサー総司令官が記しています。)日清、日露の両大戦に勝利した日本は1904年(明治37年)の日韓新条約、続く日露戦争後の協約により韓国は日本の保護国となりました。(1641年以来モナコはフランスの保護国で、このような例はヨーロッパではよく存在しました)当時、韓国統監となった伊藤博文は韓国の独立を唱え、近代化志向の新政権を確立させその後主権を回復させる考えだったにも拘らず、現在では韓国の英雄⁉”安重根”に暗殺されました。
この大事件により当時韓国最大政党である「一進会」も熱烈に併合を求めたのであり、日本が無理矢理併合化したのではありません。
日韓併合は清国、ロシア、イギリス、フランス、ドイツと言った主要国のなかで反対した国は一つもありませんでした。
アメリカのルーズベルト大統領は「朝鮮半島は日本の物である」と公言、イギリスは「韓国併合こそ我々が以前から望んでいた事である」と大歓迎の姿勢を示しました。
日韓併合は国際社会で認められたのです。日本は韓国を併合化(日本と同等に扱う事)したのであって、植民地化(奴隷として扱う)したのでは有りません。
日韓併合について 考えてみよう
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