>>92
自分が書いてるのはあくまで「魏志からはこうも読める」という話であって、それ以上じゃない。
どれだけ他の史料と連結して(あるいはいくつかを恣意的に無視して)解釈するかは人それぞれ。もちろん記・紀重視で九州地方の史料はひとまず置くスタンスもありでしょう。
個人的に邪馬台国の位置は「畿内の可能性が高いけど、タイミング的に魏・晋が3世紀中盤に存在していた九州内の国家連合体としか通交を持てなかった可能性もある」と思ってます。
どっちにしても、邪馬台国のグループが対馬海峡を抑えていたのは確実なので、東にもっと大きな国家があったとしても魏の「使訳通ずる所」としては浮上してこなかったんじゃないですかね。
というか、赤壁の位置ですら異論のある歴史書の話です。
ぶっちゃけどっちにあったかはどうでも良くて、何があったかの方が興味あるというのが偽らざる心境です。>>95
その場合、女王国までの「里程」のうち日程で表されてる部分はどうします?
ここで一気に色々苦しくなるのが、実は「北九州説」最大の問題だと思いますけど。>>75
機内中心論というのは戦後史観と密接に関係がある。
東京中心の政策を行ったのが戦前の国家主義だから。
尊中史観と日本の畿内起源説と韓流ブームは全て同じもの。
日本の中でもっとも中韓な部分が近畿といえるだろう。もし邪馬台国畿内説が正しければ、畿内の弥生遺跡から、三國志に書かれているような青銅武器や漢鏡、舶来品の類が沢山発見されていることになる。これからは従来から九州でみつかっているものだが畿内からはほとんどみつかっていない。それに、三國志に吉備や出雲、瀬戸内海の描写が無いのはおかしいことになる。大和三山もしかり、少なからず日本書紀には記述がある。壹と臺について。後漢書の注釈を書いた唐の李賢(章懐太子)は訛りだろうという見解を残している。臺が正しかった場合、後世の三國志の写本が修正されていることになる。後漢書の書かれた時代には臺が使われているから、早い段階で修正があったはずであり、三國志の写本が壹で通されていることが解らなくなる。
魏志に書かれている人口数七万戸が真偽微妙だったことが問題だったんですよ。
だって朝鮮半島全て合わせても五万戸にしかならない。
それが邪馬台国七万戸、投馬五万戸なわけだから。
近年発掘が進められ機内に七万に匹敵する都が見つかったことから一気に機内になりました、邪馬壹(臺)国が7万戸だから、巻向が7万戸?いや、巻向は純粋な政治宗教都市の性格が強くて、集落跡が見つからないというものだったはず。しかもきゅうに衰退して使われなくなったことが判明している。よく外来土器が沢山見つかるというが、北九州由来の土器は1%未満だという。しかも外来土器の大半は中京・東海地域由来だよ。一大率のあったとされる伊都国と無関係である訳ないだろうからこれはおかしな出土状況だよ。倭国経済が純粋な農林水産経済で潤ったのではなく大陸側や国内、その他の倭人の勢力との交易もあったはず。魏志に載ってるよ。
>>104
馬韓が十万余戸、辰韓が4~5万戸、北部は楽浪郡で高句麗は半島外私は最近、日本書紀や古事記の通りが真実なのでは?と考えている。
邪馬台国は魏志倭人伝にしか書かれていない。魏志倭人伝は、3世紀末の280年から297年の間に書かれた。それ以降の邪馬台国の情報は日本と中国の歴史書には無いとされている。
ところで、その時期の日本の情勢はどうだったのか?
大和王権の最大の特徴である前方後円墳の中で、最古級の前方後円墳とされる奈良の箸墓古墳は3世紀中頃の築造された。これが正確ならば、魏志倭人伝とほぼ同時期だ。
ところで日本神話では、ご存じのとおり神武天皇は九州の日向から畿内に東征したことになっている。
形は違うけど、邪馬台国と大和王権もこの形と実は同じなのではないか? つまり、元は九州にあった邪馬台国が畿内に移った。
しかも、個人的には大和と邪馬台国が並立していた時期が何十年かあって、京都から東京に明治時代に天皇が移ったように、邪馬台国から大和へ邪馬台国の王が移った。
実は、古事記にはその事も書かれている。元々、大和にはナガスネヒコという王が住んでいて、天孫の饒速日命に滅ぼされた。
ちなにみ、ナガスネヒコを殺した饒速日命は、のちの物部氏の始祖とされている。
考古学と日本神話は、奇妙なほど一致している。
よって、邪馬台国は最初、九州に存在していて、中国の使者が来た時には、まだ九州にあった。しかし、その直後くらいに畿内へ移動した。おそらく10年から30年くらいの期間の間に。もしくは、京都と東京のように、並立した。>>106
まぁ外国勢力を考えると九州から移動したのは自然な考えかもね>>107
いやソースは普通に魏志だろう。
上でも書いたが、馬韓10万余戸と弁韓4~5万戸。外国勢力といえば、倭人は太伯や呉王の夫差と関わりがあることを証言している。更に新撰姓事録には、松野連姫氏の家系が熊襲族であり、倭王家とも関わりがあるという記録がある。無関係とは思えないんだよね。倭人が考古学には中国南東部由来だっていうのは結構指摘されてる。畿内の古墳には阿蘇凝懈岩由来の石棺が多数有るみたいだし。無関係ってことはあり得ないんじゃない?でも東征は有っても東遷はあり得ないと思うよ。
>>106
邪馬台国と大和朝廷の連続性は否定的に考えている。
倭の五王の上奏にしろ日本書紀にしろ、邪馬台国や卑弥呼との関連性を示していない。当時の国際感覚ならこれほど強い政権の正統性の根拠はないにも関わらず。
卑弥呼は大和王権の系譜からは外れた政権だろう。俺は邪馬台国の場所が特定されることはないと思ってる
親魏倭王の金印が見つかるしかないのでは?神功紀に引用されてる倭女王の事跡は間違いなく卑弥呼と壹与のもの。二人の女王を一人の皇后の事跡にするのは強引な手法だと思う。しかも干支二周り120年誤魔化しでしょ?無茶だ。二人の女王の間には男王が在位していたから益々おかしいよ。
>>24
何だか、サラリと嘘が出てるね。
武力で制圧だよ。
天皇は服属しない相手には容赦なかった。>>1
源流は韓国人由来だと一致しているようで安心した。五胡十六国時代の河北の混乱と民族移動の影響で、朝鮮半島から南下し九州北部に渡来(天孫降臨)した政治軍事集団がいた。彼らは人種的には南ツングース系で、扶余、高句麗系の言語を話し、その文化は騎馬民族的であり、強力な軍事力を持っていた。彼らは九州北部から瀬戸内沿いに東進(神武東征)し、畿内に拠点を置いた。畿内の先住土着勢力(長脛彦)をはじめ、出雲(国津神)、吉備(温羅の鬼)、九州南部(熊襲、隼人)、奄美(阿麻弥)、関東・東北(毛人、蝦夷)などの諸勢力を制圧した。つまり、初めて日本列島の広域を制圧する権力機構となった。彼らこそいわゆる天孫族であり、ヤマト王権であり、大君であり、近畿の巨大な前方後円墳の被葬者であり、天皇家の先祖である。そう考えると綺麗につじつまが合う。
>>116
まったく辻褄は合わない。日本の古代から皇族・貴族の文化を考慮して、騎馬民族が日本に来たことはあり得ない。騎馬民族は遊牧民族で、羊やヤギ等の家畜を殺し、血を全く恐れない。他方、日本の文化では血を穢れと嫌い、騎馬民族的な文化は全く存在しない。 一方で農耕的文化は皇室に色濃く残っている。祭祀は大嘗祭をはじめ、農耕文化中心だ。 私は待ったく逆で、中国の北部の漢民族が中原で戦争を拡大して、中国の南部の稲作地方にいた漢民族以外の少数民族が中国南部に戦禍を逃れて移動した。さらに、漢民族が中国南部まで占領したので、押し出された中国少数民族が海に逃れた。海流にのり、九州南部にたどり着いた。 神武天皇は九州の日向から東征したことになっている。稲作文化は南方文化で、朝鮮半島は非常に寒い。稲は戦後に日本が農林2号という寒さに強い品種を作るまで、冷害に弱く、気候が寒い朝鮮半島北部では現在でも稲は育たない。弥生人は稲作を伝えたとされる。騎馬民族ではあり得ないし、騎馬民族征服説は現在では否定されている。
そもそも、日本の牧場の遺跡は東日本地域にはあるけど、西日本では出土例が確か無いはずだ。五胡十六国時代に、そもそも朝鮮半島にそのような強大な国家はない。その事大は、むしろ倭国が朝鮮半島に軍事介入を頻繁にしていた時代だ。現在の中国東北部の広開土王碑文がある場所まで、倭国が朝鮮半島を通って北上して高句麗と戦争している。
九州からの勢力が畿内まで勢力を拡張したのか
畿内の勢力が九州まで勢力を拡張したのか
俺は畿内の勢力が九州に勢力を拡張したんだと思ってる
みなさんはどうですか?日本では弥生時代から上長下短の長弓が使用されており、遊牧系民族特有の短弓は最後まで使われていない。
古墳時代に主に使われた短甲も基本的には歩兵向けの鎧で、弥生時代から同様の形態をした木甲が出土しており日本列島内に起源をもつものである。
短甲は一部で桂甲が使われ出した後も継続して使用されている。
短甲は全羅道や慶尚道の半島南部でも出土する。
なお、古墳からは馬具が副葬品として出土するものの、加羅などで出土する馬甲は出土しない。
日本国内ではそもそも重装騎兵が役に立たなかったのであろう。このての「起源」とか「ルーツ」が絡む歴史の議論では「われわれの物語」の確認と、それを脅かす言説への排撃に陥りがちだ。恣意的な資料解釈と選択によって、自国の歴史の固有性と独自性を「証明」してみせる営為。そのような民族原初論は歴史学を学問としての客観的論理性から遠ざけ、政治の侍女に押し留める19世紀的発想でしかない。民族的自尊心が精神の安寧となっている人間にとっては、ヤマト王権や天皇が朝鮮半島由来となっては、実存の危機となるらしい。私はヤマト王権や天皇がどこの由来でも何も困らないけどな。ただ、思考実験として「どういう物語が史実に近似しているのか?」考古学、形質人類学、歴史資料を総合的に俯瞰していくと、騎馬民族征服説的な全体像がみえてくるわけ。騎馬民族征服説的なストーリーは紀記神話の天孫降臨、神武東征ともぴったりと合致する。
新嘗祭や大嘗祭は農耕民族由来の神事だよ。今の天皇家が騎馬民族由来の神事をやってるなんて聞いたこと無いな。流鏑馬や鷹狩、競馬でもやってれば再考の余地はあるだろうけど。天皇家が大陸由来だったらなんなのよ、人類はアフリカ由来だから何にも問題ないじゃん。中国人も朝鮮人アフリカ由来だよ。
俺も騎馬民族うんぬんについては違うと思うな
天孫降臨、それはつまり山頂降臨の神話だがそれを事実の反映とするのもズレていると思う
ありふれた山頂降臨の神話を外国の勢力が来たとの根拠にするのならば
山頂降臨の伝承は北方アジアに多いってのを根拠にするべきではないか?
まぁ日本神話において山頂降臨以外は北方系少ないと思うがね。>>123
そもそも倭に歴史を記述する習慣がなかったのだから数百年前のことを明確には出来ないだろう
金印にしても返還、あるいは埋葬している可能性その他諸々すぎてなんとも言えない
志賀の金印は状況が特異過ぎて一般論に当て嵌められん>>123
朝貢した記録や記憶をなくしたんじゃなくて、「中国に朝貢してた」とは書けないだけ。
魏志に記事があるのは神功紀で触れられてるだろ。>>127
書が無いという話ではなく史書として「編纂」する習慣が無かったという話なんだが
漢字は当然理解されていたのだから書そのものはあったろう
あんたの理屈なら史記ですら記述に誤りが多いから偽書って事になる、考証学が出来るのは清代だぞ>>127
偽書と言うのは明らかに言い過ぎ。天武帝の政治的立場によるバイアスがかかっていることは否定しがたいけど、それをもって偽書呼ばわりするならば、史記以下のすべての中国の史書、朝鮮の三国史記などもすべて偽書ということになる。ウエツフミやホツマツタエ、なんだったら竹内文書や東日流外三郡史が偽書というのであれば賛成するけれど。偽書ってのは古田武彦がソースにした和田家文書みたいな、そもそも出自自体が怪しい代物の事だしな
>>100
討論板だからだろ日本書紀を偽書と言ってしまったら、世界中の通史や正史は、まさにすべて偽書だろうw そもそも、中国の正史はフォーマットとして、易姓革命を中心に置いているから、前の王朝の皇帝は徳がなかったから、天に見放された。だから、より徳ののある私が天に選ばれて新たな皇帝になって清王朝を建てた!ってのが定型だからね。 殷の紂王に代表されるような。
『明史日本伝』の秀吉について書かれた箇所。
「日本は古来より王がおり、臣下では関白という者が最も尊いとされ
山城州の頭目、信長がこれになっていた。」
「ある日信長が猟に出ると木の下で眠る者がおり、跳ね起きて衝突しそうになった。
何者かと問い詰めると、名を平秀吉と言い
薩摩州の奴隷で、雄健ですばしっこく口が上手かった。
信長はこれを悦び、馬の管理をさせ、木下人と名づけた。」
「後に重用され、信長のために策を尽くし、二十余州を切り取り、摂津州鎮守大将となった。
参謀に阿奇支(アキチ)なる者がおり、罪を得て、信長は秀吉にこれを討たせた。
にわかに信長は部下明智に殺される所となり
秀吉は阿奇支をまさに滅した時に変を聞き
部将行長らと共に勝ちに乗じて兵を還し、明智を誅したので威名は益々振るった。」
明智が二人もいるよね(笑)地理も滅茶苦茶。
中国史家の日本に対する関心なんてこの程度なんだから、その記述を史実に当てはめる努力は徒労なんじゃないの。>>133
朝貢してる時と断絶期では当たり前だが情報の精度が変わってくるに決まってるだろう
まあ執筆した清代でも日本に対する認識は至極薄いのでそういう精度になるのだろうが
第一つの情報で歴史全てを判断するわけでもないあくまで資料の一つにすぎない魏志倭人伝はわざわざ倭国まで出向いてるわけで
なんとか見たまま記述しようとは思っただろうが
真実ではない部分があるから訳わかんないことになってるんだろうな
邪馬台国の場所を特定したかったら親魏倭王の金印を見つけるしかないべ
それにしても奴国の漢委奴国王の金印はよく見つかったな>>135
出向いたと言っても、本人ではないですし。東夷伝全体に公文書に残った記録の取りまとめですからね。
せめて裴注みたいに出典を明示していてくれると助かるんですが、それもないですから。
行程がやたら詳しいのは、今で言う復命書みたいなのが残っていたのかもしれないけれど、逆に朝貢してきた使者等からの不正確な聞き取りをそのまま残した書があってそれを引き写したのかもしれない。>>11
少なくとも天皇陵を初めとする宮内庁管理古墳は、調査を認められたい。北九州から南朝鮮にあたる地域に大きな勢力が
あったこととは否定できないが、その勢力の中心は
魏志倭人伝に書かれた伊都国=委都国=倭都国
だろう。
しかし魏志倭人伝には、そこには邪馬台国から施政官が置かれ、王は形式的で謁見さえしていない。
つまりすでに征服された後の様子しか記述されていない。- 139
名無し2022/07/04(Mon) 00:10:36(1/1)
このレスは削除されています
邪馬台→ヤマトと読むんだよ
邪馬台国の王都は「飛鳥」場所は不明邪馬台国と機内のヤマト王権は別物だ。
そもそも時代が百年ほど違っている。
邪馬台国の女王・卑弥呼が初めて魏に朝貢したのは西暦238年だ。
機内の有力豪族としてヤマト王権が台頭し始めたのは4世紀初頭だ。
古事記が完成したのは西暦712年、日本書紀が完成したのは720年であり、記述した日本の役人たちは三国志の魏志倭人伝の邪馬台国の記述を知っていた。
しかしヤマト王権には卑弥呼に関する伝承がなかった。
日本書紀の神功皇后の記述のところに、「魏志倭人伝の卑弥呼は神功皇后のことであろうか」という記述がある。
しかし卑弥呼は生涯独身の女王であるのに対し、神功皇后は仲哀天皇の皇后であり且つ応神天皇の母親である。
卑弥呼と神功皇后は別人だ。
邪馬台国は九州に存在した地方豪族の連合国だったのだろう。
そして邪馬台国の時代から百年後ほどの時代に、機内の奈良盆地の一豪族が勢力を拡大し始めたのがヤマト王権だろう。
古事記、日本書紀では初代天皇の神武天皇が即位したのは紀元前660年とされているが、実際はヤマト王権が機内で勢力を持ち始めたのは4世紀初頭くらいのことだっただろう。というか、魏志倭人伝の位置って、多分歪曲されてると思うぞ。
恐らく邪馬台国は畿内で正しくて、あの位置関係にしているのって「呉」の後背に「魏」の友好国があるっていうことにしたかったからで、それをそのまま元々「蜀」の人物だった陳寿が事実を把握できずに記載した結果だと思う。邪馬台国はアイヌの国、大和政権によって討伐された
>>1
明確に定まっていない為、捏造ではない。韓国人じゃあるまいし。
だが日本国内に存在していたことは確かである。>>1
通説はともかく、文献史料からの考察は、そもそも司馬氏の王朝であった晋の時代に書かれた魏志では、東方大都督だった司馬懿の実績がライバルだった曹氏の西方大都督曹真の西域宣撫に対抗して誇張されているのであてにならない。
考古学で解明するしかないと思う。
山のように少数説が成立しうる歴史ロマンだとは思うけどw
邪馬台国畿内説は日本の歴史の捏造だと思う
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