사이고 다카모리가 실제로는 정한론을 주장하지 않았다는 설이 있던데.

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    • 1TenguAres132017/10/22(Sun) 11:54:53ID:U5NDI4OTQ(1/1)NG報告

      사이고 다카모리가 실제로는 정한론을 주장하지 않았다는 설이 있던데.

      이거 일본 학계에서 어떻게 여겨지는 설이야?

      주류설은 정한론 주장했다인가?

    • 2名無し2017/10/22(Sun) 15:46:02ID:c1MTYxMDA(1/1)NG報告

      確かに西郷は「朝鮮を攻める」とは言っていない。
      明治最初期に日本と朝鮮の間が険悪になった。
      新政府内には朝鮮へ出兵の論もあったが、西郷はあくまで『使者』として渡航しようとした。
      これが新政府内の権力争い(使節組と留守組。薩摩出身とその他)と重なり、西郷は征韓論の首魁とされてしまった。

      これは説とかでは無く、一般的に知られた事実。

    • 3名無し2017/10/22(Sun) 16:25:25ID:U1MjQxMDA(1/1)NG報告

      저 사진은 암만 봐도 미화를 위해 눈썹등을 리터칭한 것 같다. 얼굴옆면과 안와상이 너무 어색

    • 4右翼の食欲、左翼の性欲2017/10/22(Sun) 16:30:47ID:EyMjg1MTY(1/1)NG報告

      >>1
      西郷隆盛の写真は残ってないはず
      この写真は何人かの親戚を合成して作ったんじゃなかったかな?

    • 5名無し2017/10/22(Sun) 16:41:44ID:Y4MTY5NjY(1/1)NG報告

      朝鮮は江戸幕府を倒した不忠な明治政府などと関わりたくないと
      非常に無礼で生意気で強硬な態度で頑なに明治政府との接触を拒否していた
      日本では自由民権の板垣退助たちの
      無礼で生意気な朝鮮など征伐してしまえという主張が高まっていた

      西郷は自分が朝鮮に行って朝鮮と話し合って来ると言ったが
      そんな事をすれば朝鮮は西郷を殺害するだろうと反対した
      西郷は朝鮮が私を殺したら朝鮮征伐をすればいいと言って朝鮮に行く事を望んだが
      朝鮮に行く事は許されなかった

    • 6おまえが言うな2017/10/22(Sun) 16:56:45ID:kyNzQ4MjY(1/1)NG報告

      例え西郷が征韓論者だとしても決断したのは桂内閣だろ。
      結果的に韓国併合が失敗だったからといって当時敗戦国側だった西郷に責任をなすりつけるのはナンセンスだ。

    • 7名無し猫2017/10/22(Sun) 17:49:43ID:k2ODM3Mjg(1/1)NG報告

      西郷が征韓論者でないのは事実である。
      西郷は自ら大使として、朝鮮に赴く案を出して、正院閣議で可決された。
      しかし、岩倉具視らの反対にあって西郷案は無期延期となり実現せず、西郷は1873年に明治政府に辞表を出し、下野することとなる。

      1875年日本は軍艦雲揚を朝鮮半島に派遣し、9月に江華島事件が起こり、これが日朝修好条規(丙子修交条約)に繋がった。
      江華島事件の直接的なきっかけが、朝鮮側の砲台からの発砲であるが、この衝突が偶発的なものなのか、日本側の挑発による計画的なものなのか(日本では)意見が分かれる。
      計画的な説では、米国が日本に軍事的圧力をかけて結んだ日米修好通商条約を参考にしたとの見解が根強い。

      西郷は軍事的圧力を伴った江華島事件までの一連の明治政府の外交手法には批判的であった。
      恐らく西郷案が実現して、彼が朝鮮に派遣されて交渉していれば歴史は変わっていた可能性がある。
      西郷は相手の立場を理解することに長けていて、江戸城無血開城も実現させているので、江華島事件は起こらず、日韓併合もなかったかも知れない。

    • 8名無し2017/10/22(Sun) 18:28:10ID:k5NzYyOTI(1/1)NG報告

      >>3
      これは、イタリアのエドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画ですが、当時は西郷は既に亡くなっていたので、西郷隆盛の弟である「西郷従道」と「大山巌」をモデルにしたという。
      また、この肖像画を元に上野の西郷隆盛像を作ったが、完成した西郷の銅像を見た西郷の妻糸子は「うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ」と発言した。

      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B%E5%83%8F

    • 9Bダッシュ2017/10/22(Sun) 18:37:33ID:QwODUyMjA(1/1)NG報告

      >>2
      その通りです。
      しかし、付け加えると西郷が朝鮮に行ったときは西郷は死ぬつもりでした。(西郷はそういうところがあります。)そして西郷は朝鮮で自分が殺されれば確実に戦争になることを理解していたと言われています。

      そういう意味では征韓論者なのかも知れませんが
      果たしてこれを征韓論と言い切って良いものかどうか

    • 10金玉2017/10/22(Sun) 19:23:40ID:MzMjY4MDA(1/1)NG報告

      >>3
      >>8
      弟の西郷従道

    • 11名無し2017/10/23(Mon) 07:18:40ID:E0NTc4NzA(1/1)NG報告

      >>1

      そもそも、征韓論というのは江戸時代から存在したのですが、明治初年の征韓論というのは、明治維新後の日本が、朝鮮に対して、徳川幕府から引き続いての友好を求めたところ、日本の文書内にあった「天皇」という字を見て、「皇」の字を使って良いのは大清国皇帝だけで、そんな事も分からない野蛮な国とは付き合えないと国交断絶を通告し、釜山にあった日本公館に危害を加えるなどした事で、日本国内で無礼な朝鮮を征伐しようという世論が沸き起こったことを言います。

      日本は明治維新以来6年間、朝鮮政府に国交を求め続けましたが、その度に、朝鮮政府は日本の使者に対して侮辱や嫌がらせで答えて来たので、明治維新最大の功労者で新政府の最高位の軍人であり、政治家としても公卿出身以外では最高位の参議の役職だった西郷隆盛が、全権大使として朝鮮政府と直接交渉をして国交を持とうと主張したのが、明治六年(1873年)の征韓論争です。

      征韓派とされている西郷隆盛や江藤新平、副島種臣たちは、ペリー提督の黒船来航前後から、日本と清国、朝鮮が協力して欧米列強の侵略に備えるべきだと主張し続けていました。特に、西郷隆盛は、日本と清国、朝鮮の三国が同盟を組む事が、主君であり師匠の島津斉彬の遺言だったので、その手始めとして是非とも朝鮮と交渉をしたかったのです。

    • 12 2017/10/23(Mon) 08:04:40ID:cxMDQ1NTg(1/2)NG報告

      なんか前も西郷を気にしてたスレあったけど、新しい反日材料でも探してんのか?

      ロシアが満州へ侵出して東アジアを脅かすというのは、ガンダム当時の日本人でも漠然として認識してた事だからな。
      その辺りの朝鮮人の世相はどうだったんだ?

      ただ“日本憎し”だけで世界史を見ようとすると、
      さらに滑稽な朝鮮人像が浮き彫りにしか成らないだろう。

    • 13 2017/10/23(Mon) 10:50:31ID:cxMDQ1NTg(2/2)NG報告

      >>12
      すまん、急速充電器を挿したまま打ち込むと誤差動起こして、意図しない文字に変換されてる時がある。
      “ガンダム”は関係ない。

    • 14普通のサラリーマン2017/10/23(Mon) 11:06:29ID:UyMzYzNDg(1/1)NG報告

      >>1
      あなたは、韓国人だから征韓論のような言葉に敏感なのだろうが、当時日本の回りは欧米ロシアの侵出で丸裸状態だ。日本防衛のため近隣を味方にする必要があった。
      その中の方法の1つの考え方であるだけ

    • 15名無し2017/10/23(Mon) 11:25:40ID:M0MTkyNTM(1/1)NG報告

      >>13
      あんたがガンダム好きなのはわかった

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