19世紀末に大韓帝国の高官が鬱陵島(ウルルンド、韓国)を日本の呼称「松島(まつしま)」と呼び、日本領と認識していた記録を九州大韓国研究センター(福岡市)の永島広紀教授(56)=日韓関係史=が発見した。韓国側は竹島(島根県隠岐の島町、韓国名・独島(トクト))について、1900年の勅令を領有の根拠の一つとしているが、実際はその直前まで竹島どころか、鬱陵島の認識すらなかったのを裏付ける資料となる。
この記録は1896年、ロシア皇帝ニコライ2世の戴冠式に大韓帝国の特命全権公使として派遣された閔泳煥(ミン・ヨンファン、1861~1905年)の随行員で、二等書記官の金得錬(キム・トゥンニョン、1852~1930年)が記録した「環璆(かんきゅう)日記」(1896年)と「赴俄記程」(1905年以降に作成)。いずれも使節団の公的訪露記録で、訪露を終えて海路で釜山に南下する際、東側に「大きな山」を確認し、この山を「名マツシマ(原文はハングル)此日本島」と明記していた。
「環璆日記」はソウル大が所蔵し、傘下の研究院がポータルサイトで全文を公開している。永島教授によると、方角や景色の記述から「日本島」は、鬱陵島を指しているという。日記の中で現在の竹島に関する言及はなかった。
記述は閔泳煥の遺作とされる文集「海天秋帆」にも修正されることなく転載されており、閔も同様の認識だった可能性があるとしている。
江戸時代に松島は現在の竹島の呼称だったが、明治期に入ると、鬱陵島が「松島」と呼ばれることが一般的だった。
このほか、過去に島根県竹島問題研究会委員が、1898年4月の海難事故で大韓帝国がロシアとやりとりした外交文書でも鬱陵島を「日本の松島」と記述していたことを突き止めている。
永島教授は、韓国側は鬱陵島に関する地理情報の把握(緯度や経度、面積など)について関心が薄かったとし「竹島は鬱陵島の属島で、古来より韓国領であったといったこれまでの韓国側の主張が根底から覆る可能性がある。大韓帝国は竹島を認知していたとは考えられない」と話した。
鬱陵島は政策的に長らく行政区が置かれなかった。韓国側は1900年の大韓帝国勅令第41号で、鬱島郡の行政区域を鬱陵島と竹島(鬱陵島のすぐそばにある島)、石島に定めた。この石島を独島とみなし、領有権主張の根拠の一つにしている。
大韓帝国の高官、鬱陵島を日本領「松島」と認識 九州大教授が記述を発見 韓国、竹島領有の根拠揺らぐ
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