古代の朝鮮半島に存在し、日本との交流もあった王国群「加耶」。謎が多く、古代日本の国際関係にも大きく関わる加耶の考古遺物を展示する日本と韓国の国際企画展示が、2022年10月4日より千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館で始まりました。開幕を前に報道内覧会が行われたので、一足早く見学してきました。
これまで朝鮮半島の古代史では、この時代は高句麗、百済、新羅による「三国時代」という認識がされていました。しかしこの30年、加耶の遺跡や墳墓から出土した遺物の研究が進むにつれ、小さいながらも独自の文化、交流関係を有する国々であったことが明らかになってきたといいます。
他の朝鮮半島の国々をはじめ、倭(古代日本)や古代中国とも交流を深めていた加耶。加耶で作られた土器は西日本を中心に出土しています。しかし東の新羅、西の百済という強国に挟まれて徐々に国力が衰退し、562年には滅亡してしまったとのこと。
https://share.smartnews.com/VzKm7韓国人は任那日本府の「日本府が学術用語として正しくない」というのを「日本府がなかった」と曲解しているだけ。
>>87
新説で上書きするのはいらないです。
伽耶における日本の支配が疑わしいとする根拠や理屈が韓国側であるのなら是非知りたいです。
正直、どれだけ客観的にみても韓国側の論理はあまりに無理があるようにしか見えないので。韓国の学者は妄想や想像で歴史を推測し断言するが
日本など他の国の学者は一次史料の文献や出土品などの証拠から歴史を探る
歴史解明の方法が全く違い、韓国式の方法は世界的に評価すらされていない
韓国国内で蔓延っている歴史は捏造された偽物だと世界は知っている
それを知らないのは韓国人だけ過去スレから記事を拝借してきました...
伽耶の墓と発表したのに遺物はなぜ新羅のものなのか
https://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/10/30/2020103080108.html
https://kaikai.ch/board/113599/
韓国の行う、歴史上書きの前例かと。>>110
加羅の文書って、何? 具体的に。가야는 임나 아니야?
>>112
貴方の仰る通り、伽耶(加羅)に任那がありました。
正確に書けば、大伽耶(大加羅・金官国)を中心とする、伽耶諸国内に任那がありました。
因みに...
新羅の英雄である「金庚信」は父方の系譜が大伽耶(大加羅・金官国)の王族です。
御存じかと思いますが、「金庚信」が英雄とされる理由は、白村江の戦いで勝利を収めた新羅の将軍だったからです。>>110
現代国家の地理を前提に1500年前を発想すると、ロシアのプーチン君みたいに不毛な妄想で自滅することになりかねないよ。文献では現在の福岡と思える場所の東(西ではない)に漢語を話す地域があり、現在の埼玉県に新羅語を話す地域があったりする。反対側の朝鮮半島南部でも倭語と漢語と現地語は、地域によってそれぞれ使われていた
現代のパプアニューギニアは、場所ごとに世界で最も多様な言語が話されている地域だが、ほんのこの前まで現代の意味で国家は存在しない。現代の国概念で発想しても意味がない
1500年以前の日本と朝鮮も似たようなもので、領土という概念自体がなく、トップ(酋長、王)が誰かという以外の違いはない。どっちが主だった、従だったなどという方向で発想しても意味がない。日本側の九州・山陰と半島側の南部は、当時の人としても、その両者を大して区別していた訳ではないだろう。現代の地理と国家概念を持ち出すと、現実の歴史的な実像が大分変な方向に行くことになる벼농사/쌀농사를 망치게 하는 가장 큰 병충해는 무엇인 줄 아니?
너희들은 모를 것이므로 알려 주겠다.
메뚜기이다.
다음은? 가뭄(drought)이다. 중국 북쪽 지역은 항상 가뭄에 노출된 곳이다.
가야국들이 자리 잡은 곳들은 한반도에서 비교적 물이 풍부한 곳이다. 경작 면적은 적지만...
(쌀은 밥을 지으면 끝이지만, 밀가루로 빵을 만들려면 얼마나 힘든 줄 아니? 일단 맷돌로 갈아야 했다)>>118 한국어를 배워라
ヒエとキビ
これがずっと朝鮮人の主食。>>117
>>氐族たちが中国北方に特に東北側に稲作を伝播しただろう。
もとが亜熱帯植物である稲が、中国北方に伝播する訳無いだろうが。
中国では、伝統的に長江流域以南が稲食文化で、黄河流域以北は麦を中心とした粉食文化。
中国でも現在の東北地方は、日本による満州建国後も、寒冷地に適応した高粱や黍が主食で、稲は育てられなかった。
感想に弱い稲は、栽培に、陸稲でさえ黍や麦よりも多くの水を必要とするので、温度が低く降雨量の少ない中国東北地方では育たない。
そもそも、中華黄河流域でもほぼ西方出身で、チベット系民族である氐族が、恐らくモンゴル系の突厥とは全く別の民族だし、紀元前から7世紀あたりにかけて、氐族が稲作をしていたという資料も存在しない、というか彼らの居住領域では、当時の技術レベルでは稲作は不可能だよ。>>124 추가
중국 長江하류에서 해적질 하던 氐族들이 북쪽으로 볍씨를 가져가 농경을 시작했다는 것이 상식적이다.>>116
>>紀元前北方民族の主食穀物が無かったのだろうか?
満州からモンゴルにかけてのユーラシアステップは、当時は遊牧民族の居住領域で一部のオアシスを除いては農業そのものが行われていなかった。
中華の歴史は、黄河流域で農業により人口の増加が可能になった中華民族が、北方への植民を図って侵略・拡大し、遊牧諸民族の反撃を受ける歴史だ。
逆に言えば、中華の北方民族で農業を始めたとしても、遊牧民族の襲撃を受けて奪われるだけだった。
当時の遊牧諸民族の主食穀物は、中華系民族から交易又は略奪で手に入れた穀物=麦又は黍類で、揚子江流域でしか取れなかった米稲ではなかった。
>>米・稲栽培を中国北部に伝播した人々は誰だったのだろうか。
中国東北部で米・稲栽培を可能にしたのは、満州建国後、開拓民として入植した日本人が、東北地方で栽培されていた寒地適応するように品種改良された稲を持ち込み、さらに品種改良を重ねて栽培を可能にしたから。
そもそも、清帝国時代の中国東北部は、女真族の聖地として18世紀中旬以降は入植者が排除され、遊牧騎馬民族とロシアがしのぎを削る無法地帯だったから、ごく限定的な(=清の圧政を逃れて隠れ住む逃亡民)以外は定住していなかったし、わずかな定住者も稲作は行っていなかった。
大韓民国人は、1世紀前の歴史も知らないのか?>>126
과거 Hun 족이 호밀을 주곡으로 했다는 학설이 많다. 추운 곳에서도 자라고 생장 기간이 짧다.
본인은 Tianjin에서 3.5년 이상 살았다. 자주 가던 KTV의 waiter가 조선족 출신이었는데 Tianjin에 오기 전에 Dalian에 3년간 waiter 생활을 했다고 말했다.
본인이 물어 보았다. 거기 여기 보다 훨씬 안 추우냐?
대답 : 안 추워요. 봄에는 비가 부슬 부슬 오고.... 여름에는 시원해요. 播種을 일찍하면 충분히 벼농사가 가능했을 것임. 물론 1-200년 걸렸겠지만.
바다와 인접해 해양성 기후였고 닫힌 灣이었기 때문에 기온이 높았을 것이다.그리고 1년 내내 태평양에서 시작된 Kuroshio Current의 支流가 와 닿는 곳이다. Tianjin에 얼마나 안개 (fog/haze) 이 많은 줄 아니? 특히 봄에
>>131
賢いフリをしたがる気持ちは分かるが、痛々しいからやめてくれw내 생각에는 가야는 일본에 건너가지 않은 잔존 일본인(도래인)들이 살고 있었다. 언어도 일본어랑 유사하다.
>>124
当然、長江流域で始まった稲作が日本まで到達する過程で、海路と陸路の2つの経路があり、陸路でいけば、黄河を超えて遼河流域を経て韓/朝鮮半島に至るだろうし、その過程過程で、試作的に水田が作られ、稲作が試されることはあっただろう。
湿地帯があれば、北上してきた稲作民族が水田化が可能かどうか試すのは当然あり得る話。
問題なのは、その稲作が、試作を超えて定着し、継続的に行われていたかどうかであって、遼河流域でも韓/朝鮮半島でもほとんど定着しなかった。
気候は様々な要因で変化するが、特に大規模な噴火などによる日照量と気温の低下は、米稲には致命的な結果をもたらす。
また、太陽の活動の変化で数十年で平均気温が10度程度変化することもあることが判明しており、遼河流域流域の稲作は、温暖期には成功したもののその後の低温化で壊滅状態となり、稲作をしていた民族は、他の穀物(より低温に強い粟や黍、高粱)に転作するか、稲作が可能な土地を求めて移住したかした訳だ。
で、その行き着いた先が日本であり、その過程で韓/朝鮮半島を経由したであろうが、韓/朝鮮半島でも稲作が定着したのは海流の影響で気候の変動が緩やかだった南部沿海域(百済~伽耶)だけで、半島全域には定着しなかった。
日本では、揚子江流域~台湾~沖縄諸島経由で海流に乗って伝播してきた稲作技術と、揚子江流域~黄河河口域~遼東半島→韓/朝鮮半島ルートで伝播した稲作技術がちょうどバッティングした。
まあ、どっちが早く到達したかなんていうのは、先史時代の話なので証明のしようがないが、いずれにしても日本に稲作が入ったのは、現在確認されている資料でも、紀元前11世紀ころで、韓/朝鮮半島での稲作の開始と差はない。
百済の誕生は4世紀前半、伝説上でも紀元前1世紀なので、日本への稲作の伝来はそれよりも1000年ほど前にさかのぼる。
「百済が日本に稲作を伝えた」というのは完全にフィクション。
あと、黄河流域西部の乾燥地帯に住んでいた民族である氐族が、なんで長江で海賊やってるんだよ。
あいつらは、三国志で出でも馬騰やら馬超やらとくんで漢に反乱起こしていた遊牧騎馬民族だよ。>>136
前方後円墳は2世紀には日本で原型(瀬田遺跡)となるものが生まれ、3世紀中期から7世紀にかけて築造された。
伽耶で前方後円墳が築造されたのは5世紀後半から6世紀にかけてなので、現在の考古学的資料から見れば、日本から韓/朝鮮半島に伝播したと考えるのが妥当。
「伽耶は日本に渡っていない残存日本人(到来人)たちが住んでいた。」なんていう意見は、古代史において、「先進地域であった韓/朝鮮半島から、未開だった日本に向かって文化・文明が流入した」という大韓民国人の妄想に過ぎない。
実際には、日本列島には海路で中華と直接交易するルートも存在しており、新羅による統一以前の、小規模村落国家が乱立していた韓半島南部は、陸路では高句麗や、匈奴・烏丸等の遊牧騎馬民族支配地域を抜ける必要もあり、必ずしも中華から連続的な文明流入を受けられる環境には無かった。
日本自体も、5世紀までは小規模な村落国家から大和朝廷が誕生し、現在の近畿地方から九州にかけての勢力を拡大しながら統一王朝を構築していた時期なので、必ずしも日本から韓/朝鮮半島へ文化が流入したとか日本のほうが進んでいたなどという訳ではない。
統一王朝が誕生するまでの東アジア諸民族は、韓/朝鮮人なんていう意識も、日本人なんて言う認識もなく、中心は村落規模で祖先を共有する、氏族としての意識しか無かったはずで、合従連衡を繰り返しながら、交易や人的交流、戦争を繰り返して、双方向で影響を与え合っていた。
日本では遅くとも紀元前6000年前後には、大規模集落を築き、農業(非稲作)を営み、独自の文化を築いていた遺跡が残っており、遼河文明との交易の痕跡もあるので、日本と韓/朝鮮半島、というか中華文明の間の交流は、大韓民国人が考えている以上に古く、頻繁、というか気軽に行われていた。>>121
日本帝国時代に満州経営で苦労し、中華において毛沢東が5000万人殺した原因って何か知らないのか?
https://www.syngenta.co.jp/cp/articles/20120401_01
ウンカだぞ
水稲耕作をほとんど行っていなかった朝鮮半島には無縁だったので半島には記録すら無いけどな、これは中国南部から風に乗って日本に来る事例もあり現在でも日本列島・越南・長江流域では恐怖の源なんだ
蝗の場合は黄河流域の小麦地域が主なので朝鮮半島から対馬を経由して飛来する事はあるけど頻度は少ない
朝鮮半島や黄河流域は蝗
日本列島や長江江裕域はウンカ
これが過去から続く主な虫害の原因なんだ
自国の書物と日本の書物くらい読めよ
これらの事は書いてあるから順序はともかく山東や朝鮮半島南部に倭人がいたのは確かなんだよな
朝鮮人がキムチを求めて朝鮮半島を懐かしむように
日本人が米と醤油を求めて日本列島から出ないように
中華人が小麦を北方地域に首都を置くように
食いなれた食物が取れない地域には人は居着かないんだ
食物に依る文明の住み分けなんてのは古代史の常識だからなw
なので朝鮮半島や遼東山東に逃げ込んだ呉越の民は通り過ぎるのみで米が取れる朝鮮半島南部や日本列島に早いうちに移動したのは確率高い
そう考えると高句麗・新羅の民と百済の民を別扱いしている中華の古書とも整合性取れるだろ>>140
長江流域から対馬海流に乗って東を目指す移民にとって、左岸(朝鮮半島)に上陸するか、南岸(日本列島)に上陸するかは大した問題じゃない。- 142
名無し2022/10/16(Sun) 16:06:10(1/1)
>>142
百済から見たら日本は扶桑だな
「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」
隋相手にこのような国書を送っても問題にならない
方角を示す言葉だからな
漢字漢文読めるならその様な曲解はしない隋の東が朝鮮半島
朝鮮半島の東が日本
日本の東には何も無いので単純明快に東の最果て、日本と名乗っただけ
太陽信仰(天照大神)の国なので太陽中心に考えられた良い選択だろ
貢物の無い国って呼ばれて喜ぶ奴隷とは違うんでな朝鮮人は歴史(古代史も含む)を政治の一種と考えているから、歴史を自分達に有利なように歪曲し捏造し、相手に対してマウントを取ろうとしてしまう。
朝鮮人は真実の歴史などに興味はなく、相手に対してマウントが取れればいいと考えているのだ。
確かに朝鮮人にとって朝鮮民族の真実の歴史は、あまりにも辛くみじめで悔しくて耐えられないものであることは理解できる。中国の伝説で黄河文明と長江文明の衝突は
黄帝とシユウの戦いとして描かれている
シユウも恐るべき敵だったが最終的には黄帝が勝利した
農耕技術と金属加工技術を持った長江文明のある者たちは
北方に逃れ燕の一部に属することになった
これが倭人のルーツである
倭人は征服民族ではなくまた国家を成すこともなかった
倭人たちは海岸を北上し半島を下り
耕作に適切な土地を求めて海を渡り肥沃な筑紫平野に至った
一方で一部は半島南部に居残り鉄器生産を生業とした
食料の少ない半島と農耕に必要な鉄器の交易で
倭人が互いに分業を行っていたのである
倭人はそれぞれの地で現地の民族と自然に混血していき
しだいにそれぞれ固有の文化を形成しっていった
半島系倭人の言語は新羅語の元となり
北方系の音韻と語彙を吸収していった
日本では南方系の語彙が主流を占め倭人固有の語彙はほとんど消滅した
伽耶・任那の消滅によって倭人としてのアイデンティティは消滅し
半島、日本にそれぞれ吸収されていった
日本がしばらく倭という国名を用いていたのは
倭人が中国との交易のパイプを持っていたからである>>147
シベリアの子孫なのに不細工だなwww>>142
墓碑の「日本」が国号だという説、日本側の軍だという説、方角だという説などいろんな説のうちの一つではあるが、東野先生の説は、この墓碑の「日本」という言葉は国号とまでは言えなくて「方角」という程度の意味合いじゃないかという事だと思う。
日の昇る方向だから、今回の文脈から言うと百済(や日本)かなと。
「日本」が百済を特定する言葉として常用されたという事ではないと思う。>>114
僭越ながら少し補足を...
百済祢軍墓誌における記述は678年に書かれたものです。
この時期、正確に書けば648年で倭から唐への朝貢が途切れ、再度開始されるのは日本として行った703年。
つまり、日本(倭)と唐は断交状態なのです。
ここまで書けば気付かれると思いますが、断交状態なのですから日本としての国号の改称を唐に伝えていない史実が明確になりました。
墓誌に書かれる660年の百済滅亡時の事象は、祢軍からの伝聞が記されたと解釈するのが自然です。
まあ、648~703年の間に、倭と大和(大和≒扶桑、又は大和と扶桑は縁戚との見解も然り)政権にあった何らかの問題が解消され、国号を日本と決めたと見るべきでしょう。
つまり、書記に記される645年の「明神御宇日本天皇詔旨」が、史実として証明されたのですよ。
※ある意味、旧唐書の「日本国は倭国の別種なり」も同様に証明されたと言えます。
そもそも古代中華の目線で書けば、朝貢国の国号は中華が認め、又は名付けるものであり、「倭」の国号も列島の「各」王朝が自ら名付けた訳ではありません。
中華と日本が異なる道を歩み始めたのが、この時期なのかと。>>134
기원전부터 Liaohe River 유역에서는 移秧法이 일반화 되었을 가능성이 크다.
그 지역은 습지(wet land)였다. 당태종이 고구려 원정에 실패한 이유는 安市城戰鬪를 제대로 치를 수 없었기 때문이다. 군수품/보급이 제시간에 도달할 수 없었다.. 즉 200km이상 우회 하여 전진할 수밖에 없었다.>>152 고구려는 다민족 연합 국가였다.
호태왕의 wife는 아마 鮮卑족 출신
長壽王의 wife는 靺鞨족 출신. 好太王의 비석을 세운 인물. 자신의 정통성을 정당화 하려는 의도.
아마 長壽王이 好太王을 살해했을 것임. 外戚 들의 싸움 이었을 것임. wife가 10명 이상이었을 수도.
고구려는 부족 연맹체
長壽王은 악랄하게 北魏(鮮卑의 국가)에 아부하면서 한반도 남쪽을 정벌했음.
백제 가야 신라....고구려 인구의 70%는 靺鞨인 이였음.
거의 700년 이상 지속된 야만 국가라서 그때 그때 변동이 많았을 것임.
단일 왕조가 아님
日本との交流もあった謎多き王国群「加耶」 国立歴史民俗博物館で企画展
154
レス投稿
画像をタップで並べ替え / 『×』で選択解除