顛末を読んでみると、疑問が生じる。この日、政府会議は開かれたのだろうか。強圧的な雰囲気だったが、とにかく政府会議を通じて条約案の可否が決定されたのか。しかし政府会議が開かれたという証拠はない。
ここで『奏本』に収録された「中枢院官制改正件」は乙巳勒約を理解する重要な資料だ。中枢院は甲午改革期に設置された国政諮問機構だった。途中、中枢院を議会に改編しようとする独立協会の動きもあったが、概して有名無実だった。ところが勅令第46号「中枢院官制改正件」(1905.10.24)により中枢院は「君国重要事項と法律勅令の制定と改廃」を審査して議定(議会活動)できる権限を得た。なら、乙巳勒約の案件は議政府の会議を経た後にも、皇帝の裁可を受ける前にまた中枢院に諮問すべきことだった。
◆開かれもしない御前会議、日本も自認
一つ確認しておく問題がある。17日夜の勒約の現場にいた韓国の大臣のうち李完用(イ・ワンヨン)、朴斉純(パク・ジェスン)、李址鎔(イ・ジヨン)、権重顕(クォン・ジュンヒョン)、李根澤(イ・グンテク)が3日後に連名の上訴をした。韓国の大臣は17日、日本公使館で林と条約案について争論したが、権重顕は議政府会議と中枢院への諮問がない状態で決議できないという点を明確にした。林は皇帝の決裁一つで終わる問題だとし、これを無視して強制的に拝見し、韓国の大臣は高宗に会って状況を報告し、対策を議論した後に伊藤と会った。
ここからが重要だ。伊藤が参政大臣に会議を始めさせ、参政大臣が各大臣に意見を述べさせると、伊藤が割り込んで御前会議の状況だけを話せばよいと干渉した。伊藤は韓国君臣の御前会議が条約案についてすでに結論を出し、韓国の大臣は伊藤と交渉しに来た人ではなく御前会議の決定を履行しに来た人だと言い張った。韓国の大臣の可否意見も伊藤が判定した。実際、御前会議は日本側が条約案の強制妥結のために吹っ掛ける概念だった。会議は伊藤が来る前にすでに終わり、伊藤は会議の結論を確認すればよいということだが、これは17日夜の伊藤と韓国大臣の協議が会議として意味がないということを彼らも自認するというものだった。しかしそのような意味の御前会議は開かれることもなく、開かれる必要もなかった。乙巳勒約は無効だ。
https://japanese.joins.com/JArticle/272219
115年前の日本の大韓帝国外交権剥奪が無効である理由
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