偏見とかでなくて事実として、根拠となるソースはwiki以上で
私見では、『戦前の日本の軍国主義』と戦ったのは、暗殺された犬養毅や高橋是清で日本共産党ではない
wiki 治安維持法
1921年(大正10年)4月、近藤栄蔵がコミンテルンから受け取った運動資金6500円(現在の価値で約1300万円)で芸者と豪遊し、怪しまれて捕まった事件があった。資金受領は合法であり、近藤は釈放されたが、政府は国際的な資金受領が行われていることを脅威とみて、これを取り締まろうとした。
wiki コミンテルン
当初は世界革命の実現を目指す組織とされ、ソ連政府は資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶがコミンテルンは各国の革命運動を支援する、という使い分けがなされた。しかしウラジーミル・レーニン死後にスターリンが一国社会主義論を打ち出したことで役割が変わり、各国の共産党がソ連の外交政策を擁護するのが中心になっていった。1920年代中頃の中国では、ブルジョア政党の政権が共産党を弾圧しても黙認する、といった例も生じた。
つまり、日本共産党は結党当時から日本国民の政党ではなく、売国政党wiki 大粛清
大粛清(だいしゅくせい、露: Большой террор, 英: Great Purge)とは、ソビエト連邦(ソ連)の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代にソ連邦および衛星国のモンゴル人民共和国等でおこなった大規模な政治弾圧を指す。
日本人からは、山本懸蔵(日本共産党員。1937年11月逮捕、1939年3月銃殺)、伊藤政之助(日本共産党員。1936年11月逮捕、1937年銃殺)、国崎定洞(ドイツ共産党所属でソ連に移住した元東京帝大医学部助教授。1937年8月逮捕、同年12月銃殺)、杉本良吉(演出家、日本共産党員、女優岡田嘉子の愛人。1938年1月逮捕、1939年銃殺)などソ連亡命中の共産主義者を中心に10-20名前後が粛清されたと見られる。
wiki 山本懸蔵
ソ連崩壊の1992年、ソ連共産党の保管文書からソ連共産党・コミンテルン関係の機密文書の公開に伴い、山本の逮捕が、野坂参三による密告に基づいて行なわれた事を記した文章が発見された。発見された資料をもとに、『週刊文春』誌上に小林峻一・加藤昭らによる連載「野坂参三疑惑レポート「同志を売った密告の手紙」」が掲載される(翌年単行本化)。1992年(平成4)12月、日本共産党は野坂を除名処分とした。
なお加藤哲郎の調査によれば、山本自身も、同時期にソ連に亡命していた数名の日本人、勝野金政、根本辰(ねもと とき)、国崎定洞、伊藤政之助らをスパイと疑い、ソ連秘密警察やコミンテルン国際統制委員会へ密告ないし告発するなどしていたという(外部リンク・加藤哲郎参照)。また和田春樹の調査により、野坂による山本密告とほぼ同時期に、山本自身も野坂を密告する準備を進めていた事が判明している。
つまり、戦前の日本共産党は、国を売るばかりか、仲間同士も売る。
それで、『軍国主義と戦いました』など、全くのデタラメ
取り締まれて、当然の組織wiki 日本共産党スパイ査問事件
1933年、当時日本共産党中央常任委員であった宮本顕治、袴田里見らが、当時の党中央委員大泉兼蔵と小畑達夫にスパイ容疑があるとして査問処分を行うことを決定し、12月23日、二人を渋谷区内のアジトに誘い出した。 宮本らは針金等で手足を縛り、目隠しと猿轡をした上に押し入れ内に監禁した。秋笹正之輔、逸見重雄らが二人に対して暴行を行ったため、小畑は24日、外傷性ショックにより死亡した。小畑の死体は床下に埋められた。
宮本顕治、袴田里見を含む5名は、治安維持法違反、監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反、残り1人が治安維持法違反、殺人、同未遂、幇助、不法監禁、銃砲火薬類取締法施行規則違反[7]といった複数の罪状で裁判にかけられ、以下の判決が下った。宮本は上告したが、1945年5月[8]、訴えは棄却された。殺人罪の適用はされなかった[注釈 3]。
宮本顕治 党中央委員 無期懲役[8]
袴田里見 党中央委員 懲役13年[8]
秋笹正之輔 党中央委員 懲役7年[8]
逸見重雄 党中央委員 懲役5年[8]
木島隆明 党中央組織委員 懲役2年[8]
加藤亮 懲役3年
木俣鈴子 執行猶予判決[2]
ここで、注目すべきは、宮本顕治以外上告していないと言うこと
つまり、共犯者は犯罪行為を認めている。
日本共産党は、障害監禁致死で床下に死体を埋めておいて、『無罪』を主張しているらしいがどんな詭弁だ。>>3
その通り
野党共闘など考えられない。
日本共産党は、一度解党すべき>>4
宮本顕治の息子、宮本太郎
wiki 宮本太郎
東京都出身。日本共産党書記長の宮本顕治と大森寿恵子(宮本顕治の前妻百合子の元秘書)との間に長男として生まれた[3]。志位和夫は、東京大学工学部在学中に家庭教師を務めたことがある。[要出典]2007年には、宮本顕治の密葬で喪主を務めた[4]。中央大学法学部の学生時代は、日本共産党の学生支部に所属していた[要出典]が、現在は距離を置いている[5]。社会民主党の学習会でも講演し、同党の機関紙「社会新報」にも掲載されたことがある。
麻生内閣時代の安心社会実現会議に委員として参加したのは[3]、当時財務大臣だった与謝野馨の推薦によるものである。与謝野が宮本を知ったのは、宮本の著書『福祉政治―日本の生活保障とデモクラシー』を政務秘書官に薦められて読んだのがきっかけだという。連合は、雇用や社会保障問題のブレーンとして宮本を起用していたため、同じく安心社会実現会議委員を務めた連合会長の高木剛は、「なぜ与謝野さんは宮本氏を知っていたのか」と不思議がっていたという。宮本は、共産党の宮本顕治の息子であるため、「そんな人を首相直属の有識者会議に入れていいのか」と主張する与党(当時は自民党と公明党)幹部もいたが、与謝野は「誰であろうが、優れた意見を言う研究者なら何が問題があるのか」と突っぱねたという[6]。
息子さんは共産党から離れて、ご立派に更生されました。
自民党の会議の委員に選ばれるほどです。>>7
「共産主義者」では、質問の範囲が広すぎるのでは?
「共産主義」と「左翼共産主義」があるし、韓国ではそれに加えて「北朝鮮式共産主義」もある。目的はどうだったか知らないけど、太平洋戦争に共産党が反対していたのは事実だし、独裁体制で権力者が変わってないから、日本共産党の功罪は現執行部の責任というのも間違いないね。
でも、左翼はリンチ好きだね。サドなんだろうね。マゾの朝鮮人とは相性良さそうだから、朝鮮半島に移動すればいいかもね。>>9
ごめんなさい
近くの図書館に置いてありませんでした。
ブックオフの通販でも108円で置いてありませんでした。
今時、共産党を批判するのに金がかかるとは・・・
以前、別掲示板で共産党員(たぶん)と議論したときは、
逆に、共産党系の本を読めと言われた。
それも、メンドクサイ
結局、『日本共産党スパイ査問事件』で宮本顕治以外の共犯者は上告していないよね。
罪を認めているよね。
共産党は、障害監禁致死犯を政党の党首にしているよね。
ソ連から活動資金もらっていたよね。
と言って十分勝てた。
よってwikiで十分、共通の資料となりますし
なぜ、こんな売国政党が、未だに3%の支持率があるのか?
ホント、不思議wiki 在日韓国・朝鮮人
朝鮮北部では1946年8月以降北朝鮮労働党政権がつくられ、朝鮮南部では1946年11月に南朝鮮労働党が結成、朝鮮及び日本の共産党員は日本海を不法往来するようになり、日本共産党員は自らが使用する船を「人民艦隊」と呼び、朝鮮・中国と密貿易・密出入国を繰り返し、日本に上陸した南北朝鮮の共産党員は工作員として活動したが、済州島四・三事件及び麗水・順天事件を政府は鎮圧することができたが、共産主義者の反政府活動及び保守派の主導権争いのために政情不安定となり、経済的困難も深刻化した結果「たくさんの朝鮮人が海をわたり、日本にひそかに入国」したが、その正確な数を把握することは出来ないが、1946年~1949年にかけて、検挙・強制送還された密入国者数は5万人近く(森田芳夫「戦後における在日朝鮮人の人口現象」『朝鮮学報』第47号)に達し、未検挙者をその3倍~4倍と計算すると密入国者総数は20万人~25万人規模となり、済州島からは4・3事件直後に2万人が「日本に脱出した」とされ[124]、在日韓国・朝鮮人はしばしば、「潜水艦に乗ってきた」と言うが、これは密入国を意味すると述べている[125]。
つまり戦後、在日が増えた原因は日本共産党幾ら言っても、『お金持ちは悪だ』『会社に俺は搾取されている』と言う考え方が消えない限り共産主義は不滅だよ。
『金持ちすげー』『俺は会社に仕える忠実な犬だ!』と人間は素直に思えないからね。
共産主義の正義を信じる人から見ると殺人も正当化されるのだよ。
織田信長が比叡山を焼き討ちしたように…宮本委員長が犯罪者であることは、衆議院予算委員会で浜田幸一委員長が共産党代議士の質問に対する
『殺人者である宮本顕治君を国政の中に参加せしめる状況を作り出した時から日本共産党に対しては最大の懸念を持ち、最大の闘争理念を持ってまいりました』という答弁で、かなり国民に広まったのではないかな。当時、NHKでこのやり取りを見て爆笑した記憶がある。昭和の時代の終わり頃だよ。共産党の代議士が選挙で握手を求めても、鋭い目つきで手を出さないままにしておくと、どうも公安関係者と勘違いされるようだ。日本共産党は現在でも監視対象というのは余り知られていないようだね。
>>13
なんで戦国時代もちだして、どっちもどっちにしたがってるの?
共産党は、昔から在日コリアンと共謀してテロや犯罪行為をしてきたし、これからもする恐れのある
監視対象の組織団体なんだよ。
せっせと寄付してる人達も一部の赤貴族の豪遊資金になってることわからないのかな?日本共産党による犯罪行為
●昭和7年10.6(木)大森・赤色ギャング事件
午後四時ごろ、バーバリのコート、眼鏡をそろって着用した日本共産党
家屋資金局の3人組の男が川崎第百銀行大森支店へ押し入り、現金三万一千七百円を強奪。
●昭和9年1月15日(月)赤色リンチ事件
宮本顕治による共産党内部でのスパイ疑惑から殺害に至った事件の発覚。民家の床下より遺体発見。
●昭和20年12月26日 富坂署襲撃事件
十二月二十六日とニ十九日の両日、同じ場所の小石川区、現文京区内駕籠町の路上で、けん銃強盗事件が連続して発生。警視庁捜査一課と富坂署が合同捜査をし、都下三鷹町の朝鮮人三名を容疑者として逮捕、富坂署に留置した。明けて、翌年一月三日、トラック三台に分乗した朝辞人約80名が同署に乗りつけ「朝群人を留置するとはけしからん、即時釈放しろ」と要求、署内に乱入し、電話室を占拠して外部との通信連絡を断ったうえ、いす、こん棒などをふるって署員に襲いかかり、ついに留置中の朝鮮人を奪取して逃走した。
警視庁は直ちに犯人捜査に当たったが、第三国人に対する捜査権の不明確さから不徹底なものになり、捜査員を歯軋りさせただけで終わった。講和条約発効までの限られた期間ではあったが、これら第三国人に対しては、日本の裁判権行使もあいまいだったところから、彼らのー部には、治外法権があるかのような優越感を抱かせ、社会の混乱に乗じて徒党を組み、統制物資のヤミ売買、強・窃盗、土地建物の不法占拠などの不法行為をほしいままにし、戦後の混乱を拡大した。
この事件富坂署襲撃事件は、第三国人にさらに不当な自信を持たせる結果となり、「警察何するものぞ」とする不正行為を続発させることになったのである。●昭和21年12月20日首相官邸乱入事件
昭和21年になると、在日朝洋人らが「生活権擁護委員会」を結成し、生活物資の”優先”配給を要求して、全国各地で関係機関に対する波状的集団筋争をはじめた。そして12月20日には、全国からー万人を東京に集め、皇居前広場で全国大会を開催した。名目は在日朝鮮人の生活権擁護だが、「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカ-ドでも明らかなように、倒閣運動にも鉾先を向けて気勢をあげた。
大会は午後一時ごろ閉会したが、一行のうち約二千人は朝鮮民主青年同盟荒川支部を先頭に、デモ行進に移り、首相官邸付近で突然、警戒線を突破し、邸内に乱入した。彼らはプラカードをふるって警戒員に襲いかかり、投石し、手のつけられない状態となった。米軍憲兵隊の協力でようやく邸外に押し出したが、この騒ぎで警官二十三人が負傷、けん銃二丁が奪われた。
この事件で警視庁は十名を逮捕し、米軍東京憲兵司令部に身柄を引き渡した。同米軍憲兵司令部は「右の十名は約一万人の群集とともに暴動を起こし、暴力と武器を持って、非合法または暴動的行動をした。そして狂暴かつ激烈な方法によって混乱を起こし、日本政府の財産たる首相官邸に侵入して警視庁警察官を襲撃して、麹町区民を恐怖と混乱の中に陥れたことは占領目的の違反行為である」として起訴し、第8軍の軍事裁判に付し、同年12月26日、朝鮮人生活権擁護委員会李委員長ら全員に、重労働五年などの刑を言い渡した。
●昭和24年6月30日(水)福島県平警察署占拠事件。
米飯不正受配で温情処置を取った熊谷巡査を「不正を行った」と日共が逆宣伝し、自殺に追い込む。父親の自殺後にも、残された小学2年生の子供がいる自宅に日共党員が押し掛けた。
●昭和26年10月16日(火)第五回全国協議会で新綱領採択。
革命を達するには暴力しかない、とする武闘闘争の正当化。原文はスターリンが執筆といわれた。27年2月に蒲田にて火炎瓶が投げられたのがこの綱領を受けての最初の火炎瓶武力闘争の模様。●昭和26年12月26日(水)練馬署旭町駐在所勤務伊(印)藤巡査(当時32歳)殺害事件。
O製紙労組員を暴行傷害事件で逮捕後、ビラ貼り、駐在所押し掛けなどの嫌がらせが続いていた。ビラには「伊藤今に引導を渡すぞ O労組」など書かれていた。26日深夜「O製紙先の路上に人が倒れている」との通報で出かけたまま行方不明。翌朝撲殺死体で発見さる。拳銃も奪われる。あとには夫人と3歳と1歳の幼児が残された。
●昭和26年12月末~昭和27年1月27日(火)小河内山村工作隊事件
日共が中共にならい「農村解放区」を設定しようとしたものが「山村工作隊」である。都内では小河内山村工作隊が最も活発であった。約30人が通称「金城飯場」等に無断で侵入し、此処を拠点とし機関紙活動等で村民の不平不満をあおり日共の浸透工作を行うと共に村長、警官等にたいして執拗な嫌がらせを繰り返しながら立木の盗伐、不法占拠、つるし上げの不法行為の限りを尽くした。
●昭和27年1月21日(月)白鳥事件
札幌市南6条の通りで、日共党員が、中央署の白鳥警備課長を射殺。それまでに、自宅に数百通の脅迫状が来ていた。日共札幌委員名の「みよ、ついに天ちゅう下さる。(ママ)」のビラが市内に撒かれた。
●昭和27年2月3日(日)長野県南佐久郡田口村で、無灯火自転車に乗った日共の一団が5人の警官に暴行を加えピストルを強奪。
逃げ遅れた日共地区委員をその場で逮捕。
●昭和27年2月20日(水)東大ポポロ事件
劇団ポポロ主催の「多喜二祭」のさなか、学生が本富士署の3巡査を暴行、警察手帳を強奪。これを契機に、大学自治とその限界について大論争。●昭和27年2月21日(木)蒲田署警官襲撃事件
日共が「反植民地闘争デー」を期して軍事方針に基づき行動した集団暴行事件。午後5時すぎ、大田区糀谷の電業社付近に約70人が集まり、不穏な状況に対し蒲田署K巡査が職質したところ、「この野郎、人民の敵だ、殺してしまえ」と襲いかかり暴行、手錠をかけ拳銃を強奪した。その後250人位に増えた暴徒は、2隊に分かれ無届けデモを行った。目つぶし、投石、派出所を襲撃破壊した。
●昭和27年2月23日(土)京都税務署を日本共産党員が襲撃。
●昭和27年2月28日(土)荒川署を日本共産党員が襲撃。
●昭和27年3月16日(月)鶴見、川崎税務署火炎瓶襲撃事件。
●昭和27年3月20日(木)京都の派出所を日本共産党員が襲撃。
●昭和27年3月28日(金)一連の日本共産党が引き起こした暴力革命闘争に対応するため「破壊活動防止法」案の綱領を発表。
同年、7月21日公布、即日施行 彼らがオームに対しての破防法適用に反対する理由は未だに、自分達自身の暴力闘争ポテンシャルを否定していないところに存する。
●昭和27年5月13日(火)広島地裁で傍聴席の朝鮮人150人が被告を奪取し逃亡させる。
●昭和27年5月17日(土)栃木県那須郡金田村村役場事件
日共党員らにより三月以来、人糞の投げ込み、集団脅迫、傷害が続いていたが村役場での会議中20名あまりの日共党員が乱入、「山林解放を妨害しているのはキサマか!」「この野郎ふてえ野郎だ、ぶん殴れ!」「ひきずりだせ」など罵声、鎌や鉈をもって迫った。駐在所の警察官にはさらに執拗に、妻や子にまでも行われた。妻の「私が家を離れ(実家に帰っては)共産党に負けたことになるから、死んでも家からは出ていきません」との一言がこの駐在警察官を支えたそうである。●昭和27年6月2日(月)大分県菅生で交番が爆破される。4日襲撃首謀者逮捕。
●昭和27年6月9日(月)長野地裁松本支部公廷で朝鮮人被告らが暴れ、検事に椅子を投げる。
●昭和27年6月10日(火)京都で朝鮮人50人が警官隊と衝突、パトロール車に火炎瓶投入、警官ら火傷。
●昭和27年6月25日(水)朝鮮動乱2周年記念集会、前夜祭のデモ隊”人民電車”を動かし吹田で警官隊と大乱闘 <吹田事件>
阪神国道で乗用車の米軍将官火負傷。新宿歌舞伎町国際平和記念大会後、デモ隊2500新宿前で警官隊4000と乱闘衝突。東口広場は”火炎瓶広場”と化した。<新宿事件>竹槍、石、火炎瓶が飛び交うデモ対策として大阪警視庁は東京での木製盾から一歩進んだジュラルミン盾を作成。
●昭和27年6月28日(土)東芝府中工場火炎瓶事件
●昭和27年7月7日(月)名古屋大須球場で訪ソ・中視察報告大会後デモ隊火炎瓶で警官隊と衝突、路上車放火 121人検挙。<大須事件>
●昭和27年7月12日(土)警視庁が日共の不穏行動に備え、夜から一斉に非常警戒態勢に入る。●昭和27年7月16日(水)都下恩方村山村事件
前村長宅に数名の”山村工作隊”の男が表門のくぐり戸をぶちこわして侵入、風呂場のガラス戸15枚、玄関脇十畳間の雨戸五枚を破壊しこぶし大の石を投石。付近の電柱塀には「山はおれたちのものだ。○○から山林を取り上げてみんなのものにしよう」と書いたビラ二十枚ぐらいが貼られていた。(○○は前村長の本名)
●昭和27年7月30日(水)山梨県曙村山村地主襲撃事件。就寝中の小中学生3人を含む家族を竹槍で突き刺す。
3人は血の海の中に息も絶え絶えになって横たわっているところを駆けつけた警官に救われた。
●昭和27年8月6日(水)都下町田町の朝鮮人集落とマーケットより、時限爆弾製造法等が書かれた日共秘密文書「料理献立表」など押収、金森駐在所投石事件などの有力証拠を得た。日共党員の容疑者8人(7/31、8/4合計)を逮捕
●昭和27年8月7日(木)横川元商工大臣が埼玉県河村で襲撃され重傷。日共党員の容疑者3人を逮捕
●昭和27年10月19日(金)東京地裁のメーデー事件公判で傍聴者らが騒乱し開廷不能。
●昭和28年2月16日(月)小岩派出所侵入事件
●昭和28年2月16日(月)ソ連機2機北海道領空侵犯。米軍機により撃墜。
●昭和28年2月19日(木)バス車掌自殺
日共党員I子は恋仲の運転手を党活動に引き込んだが後悔、党活動にも情熱を失い批判を受けたことなどから睡眠薬自殺。●昭和28年3月3日(火)警察爆破の陰謀発覚 日共党員3人を検挙。岡谷市署川岸村の旧防空壕に隠してあったダイナマイト50本、導火線10mなどを押収した。
●昭和28年5月17日 舞鶴引き揚げ援護局不法監禁事件
第三次中共帰還の際、舞鶴で援護局女子職員をスパイだとして吊し上げ、軟禁した。後に日共党員国民救援会事務局長小松勝子と都立大教授在華同胞帰国協力会総務局長阿部行蔵を検挙。
●昭和28年7月6日 前年7月火炎瓶を持って通行中の男子学生が爆発物取締罰則違反現行犯で逮捕されたが東京地裁にて火炎瓶は爆発物ではないとして無罪。
広島、名古屋に続いて。広島の事件は前年4月29日安佐郡古市町巡査派出所に火炎瓶4本を投げ込んだ4人の朝鮮人が爆発物取締罰則に問われていたもの。
(以上、日本共産党の正体様より引用)きれいごとを並べて平和や人権を訴えていても、怖い犯罪組織であることは、覚えておいてください。
日本共産軍からの団体だからな。
>>7 국가보안법에 의해서 체포될수도 있습니다.
또한 한국에서 공산당의 설립 및 활동은 금지되어있습니다.>>27
>共産党は少しは大人になったね。小選挙区に勝ち目のない候補者を立てて、他の野党の足を引っ張る自民の協力政党から民共合作ができるようになったんだからね。
ネット時代に有料の機関誌『赤旗』が売れなくて、以前のように小選挙区で候補者を立てられなくなったからでないかと思っています。
wikiで調べる戦前の日本共産党売国史
28
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