日本人のお墓の墓石を基礎にして
その上にお家を建てたり
その墓石で壁を作ったりした村があります
この時点で理解できないのですが
そこを観光地にしてゆるキャラまでいる始末
韓国ではここは知られていますか?今ですら朝鮮も火葬だが、
もともとは土葬だった。
土民のような生活をしていた朝鮮人に墓なぞなかったから墓の重要性を理解してないのだろう。
加えてチョッパリ〜だからな。墓石の漢字が読めないのだろう。
例えば日本でヒエログリフの刻まれた立派な石があったとするだろ。
するとそれはエキゾチックな模様の石として建築資材として使うだろ。
え?使わない?
だよねー。朝鮮人にだって分からないはずがない
人間の尊厳を踏みにじってる
人間としてやってはいけない事だ
朝鮮人は本当に最低にゲスな民族だな- 8
去年まではチベスナ(8月30日は「ヤミ金融ゼロの日」記念日だけ決めてもさ、大きくキャンペーンとか貼らなきゃ効果も無いかと・・・)2019/08/30(Fri) 19:02:41ID:U1MzA0OTA(1/1)NG報告
釜山の貧民街で、家の建築資材として使ったと言う話は聞いたことがある。
めちゃくちゃ貧しくて、墓石の他に持ってこれる材料がなかったので、背に腹は代えられない。
とかいう説明を聞いたような・・・曖昧な記憶でごめんなさい。
碑石文化村かぁ。
テーマパークみたいになっちゃうのかな?
日本兵の幽霊とかいっぱい出て、地域住民を呪いまくって欲しいな。 >>3
> 峨嵋洞には生きた人に住む場所を譲ってくれた日本人死者たちの魂を慰めるところもある。半月峠の下にあるテソン寺だ。峨嵋洞から出た碑石の一部を集めて塔のように積み上げ、毎年中元(旧暦7月15日)に慰霊祭を開いている。
多少なりとも慰霊をしてくれてるから良いのだが、そのような気持ちも無いやつがキャッキャッし続けたら呪われるな。
納骨堂には日本人だけではなく現地の朝鮮人の方々のものも祀られてたみたいだから。
どうも韓国には敵味方関係無く慰霊や鎮魂をすると言う概念が無いように感じる。
ところ変わればなんとやらなんだろうけど、李氏朝鮮時代は王宮で凄まじい数の人が理不尽に殺されていたり、身分の低い人達もしかり、内紛なんかでもなくなられてる人が多いでしょ?
なんかやった方が良いと思うんだよね。チープなお祭り騒ぎじゃなく。
「怨念」が渦巻いてそう。例えばの話だが、もし2000万人難民が流入すると、日本の墓地は彼らの占領されて、
墓石は建材に使われ、墓場のバケツやヤカンは食器になるということだなだから、宜保さん行かなかったんだね。
地域と事情により様々ですが韓国に限らず
加工済の資材を転用するのは割とよくあることですねぼくの地元では、夏になるとキャンプの大学生が来て、浜辺でテントを張っていた
彼らは水が入り用な時は近所のお墓の水道を使っていたが、
地元の人なら墓の水を飲むとかありえないな元記事に日本の年号、嘉永4年、ペリーの来航の2年前の墓石もあるね。
ちゃんと研究すれば、韓国ホルホル史も発掘できるかもなのに、何しろ韓国人というのは、大昔から、そういう本当の歴史に全然興味を示さないよな。今現在のお金になるか、道徳的に格上の気分になるか、その要素がないと、全く歴史に興味を示さない。
多少ホルホルさせると、この頃は、西洋医学の外科手術なども日本では行われていたが、日本でもまだまだ東洋医学が正統医学として主流だった。李朝医学を参考にすることも多く、釜山の日本人居住区には大体500~600人ほどの日本人武士や商人が滞在していたが、その中には漢方や鍼灸の留学生もいた。万能薬とされていた朝鮮人参の人工栽培は、李朝が最初に成功したし。・・・などと分かると、いきなり興味を持つのだろうかな。>>14
ねぇ。
あれだけ供養に仕方とか言ってた人だから、あんなの見たらそれこそ地獄が見えたんじゃないだろうか。死者を弔う概念がないのか?
動物かよwwww>>21
太平洋戦争後、日本人のお墓が荒らされて
日本人の墓石が、どう扱われたか知る写真。日本の城の石垣だと墓石や石棺、お地蔵さんなどが再利用されてるね
>>3
エベンキとか、シベリヤの遊牧民族は墓を作らないのかね?
よくわからんが、穴を掘って土饅頭を盛るだけとかさ
さらに極北のエスキモーとかは人を葬るときどうやってるんだろう・・・?
ぼくが子供の時は、犬猫のペットが死ぬと、浜辺に持って行って(なぜか山には埋めない)
穴を掘って埋めて、適当な大きめの石を置き石しているだけだった
その墓石を、キャンプに来た人が勝手に動かしてキャンプファイヤーしたりしてさ>>18
それが一番いいですよね。
ありがとうございます(^^)>>21
いえいえ。
ありがとうございます。(^^)
確かに日本は台風の影響が強いところなどを除くとそうですよね。
神社仏閣、城、河川などの基礎等を除くと。
中々興味深いです。日本には「〇〇塚」と言う地名が多いですよね。
調べてみると戦に出向いた兵が盗賊に襲われて死に、それを鎮魂するために塚を作ったとかでひっそりこじんまりしたお社がいまでも片隅にあったりしますよね。
あとは結界的なものも数多く。
有名どころでは平将門の塚ですかね。
まあ、流民の方々が着の身着のままで来られてと言うのはわかりますが、何らかの形で鎮魂なりして、墓石も供養とかして頂きたいですね。
少なくとも私はあえてその地域に足を踏み入れたいとは思いませんが、連れて行かれて目にしたら手を合わせますし、良い気は当然しませんね。多分、言った瞬間に「何かが違う」と言う空気を感じるかもです。(霊感なんてないけど)ほんと酷い話だ。おぞましい、人として。。。
>>1
おかしなことに、死者を踏みつけるのは、韓国人の風習なのに、日本人の蛮行、日本が悪いと、脳内変換するからね。
土饅頭で墓石すらなかったくせに、朝鮮総督府の大理石は朝鮮人の墓石を使った というわけわからない言いがかり付けるし、韓国人の残虐性を日本人に投影するのは、やめてください。>>13
お盆は、水場に近寄っちゃだめって、お婆ちゃんが言ってた。>>19
「草梁倭館」
1678年、現在の釜山広域市中区南浦洞の龍頭山公園一帯に新築された日本人居留区で、10万坪もの面積があった。同時代の長崎の出島は約4000坪であったから、その25倍に相当する。・・・また1727年に雨森芳洲が対馬府中に朝鮮語学校を設置すると、その優秀者が倭館留学を認められた。住民は常時400人から500人滞在していたと推定されている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E9%A4%A8#%E8%8D%89%E6%A2%81%E5%80%AD%E9%A4%A8
「オタネニンジン」
薬用または食用に用いられ、チョウセンニンジン(朝鮮人蔘)、コウライニンジン(高麗人蔘)、また単に人蔘とも呼ばれる。・・・
日本でも江戸時代から栽培されている。古くから薬効が知られ珍重されていたが、栽培は困難で、18世紀はじめの李氏朝鮮で初めて成功した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3
だそうです。死者に鞭打つという中国の文化ですね
日本の城も古墳の石棺とか利用してるけど20世紀になっても日本の16世紀レベルってことね
>>33
有難うございます。비석 재료도 좋은것인데 버리면 아깝다.
비석은 부식도 없고 강도가 단단해서 건축자재로 쓰면 좋다.>>34
嘘つき죽은 사람의 물건이라고 그냥 버리는것은 비효율적인 사고방식이다.
거짓말이 아니라 진심으로 처음듣는 얘기..
ね?
やはり今の韓国には慰霊や鎮魂と言う概念が稀有なんだな。>>47
日本人にとってはにわかには信じがたい感覚だが、西区創造都市課のパク・プヨン主務官はこう説明する。
「この村は、朝鮮戦争の時に避難してきた人々が辿り着き、貧しさから住み始めた場所です。日本人には、そんな歴史的な経緯を理解して欲しいと思います。住民の中には、日本人に申し訳ないという気持ちから供養を続けている人も多い。この地区は、文化的な遺物として再整備していく予定です」
●韓国人は、朝鮮戦争時代の事は、何も知らないの?知ってた(嫌韓本で)。外壁、道の階段等、また漢字を消して自分達の墓など使ってたらしいですね
早く半島ごと土人を火葬してしまおう
もう存在自体が目障り
在日とパヨクも含めて>>51
仲間にしようが敵にしようが
かの国とは関わったら負け。
アメリカが作ったハリボテ国家、ほっとけば勝手に燃えますよ。>>27
墓石の再利用は概ね
彫刻された文字を削って小さな墓石にする
土木、建築資材の砂利やバラスにする
どこだったか忘れたが、未加工のまま護岸のため
波消しブロック代わりに使われているのをTVで放送
していた。避難民たちは墓の上でも生き抜いた【朝鮮日報コラム】
釜山市峨嵋洞に行ってきた。「碑石村」と呼ばれる場所だ。釜山駅の向かい側から87番のバスに乗って南西へ20分走り、「カチセギル入り口」の停留場で降りた。傾斜が45度以上もありそうな急坂だ。スレートぶきの小さな家が連なっていた。ここを訪れたのは、ソウルの北ソウル美術館で開かれている展示の作品を見たからだった。アーティストのホンイ・ヒョンスクが演出した13分42秒の動画作品「峨嵋洞碑石村」。同じくアーティストのヨム・ジヘとの2人展で開催している「石と夜」の展示作品の一つだ。今月30日まで開かれている。
峨嵋洞碑石村は、植民地時代の日本人共同墓地があった場所だ。日帝敗戦後、日本人遺族らは墓をそのままにして急いで釜山を離れなければならなかった。5年後に6・25戦争が起きると、戦乱を逃れた避難民が戦時首都の釜山に押し寄せた。なんとしてでも生きていかねばならなかった。墓を壊し、その上にバラックを建てた。墓石や石仏は土台になり、路地の階段になり、塀になり、踏み石になり、洗濯板になった。
今も各所に痕跡が残っている。地区の入り口に当たる教会から集落に入った。二人肩を並べて歩くのも難しいほど狭い路地が、斜面上に迷路のように続いている。家は消えて土台だけが残っている場所に、漢字の刻まれた墓石があった。「明治四十二年五月廿七日没」。1909年5月27日に没した人物の墓石だ。名前は土台内側の方に刻まれていて確認できない。大正2(1913)年8月12日のものもある。死没した日は塀の内側の方に刻まれ、墓の主人の名前が外に見えている墓石もある。「國分治之墓」という字が鮮明だ。もしや名の知れた人物だろうか? 日本のポータルサイトに名前を入力すると、検索結果として出たのは、1964年の映画『東京五輪音頭』の脚本家だという同姓同名の「国分治」氏だけだった。
韓国の観光地 碑石文化村
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