>>45
好意で他人を泊めてあげれば十分なぐらい人数しか
旅行者がいなかったってことだろう?
それを情だとか 笑わせるなよw
日本は どんな田舎へいっても数キロごろに宿場があって、
宿と食事と交代の馬を手配することができた。
お伊勢講と呼ばれる、村でお金を集めて 旅行の費用を寄付しあうシステムがあったので、
農村に住んでいる どんな貧乏人でも
一生に一度ぐらいは旅行を楽しむことができたんだよ。ヒント:物乞い
地元が遍路さんのコースだったが、ぼくが子供の頃、年長の子に習って、豆ちょうだいとか言いながら、
お遍路さんに5円や10円、時には100円などもらって、お寺の売店でジュースを買ったりしていたものだった
飴とかお菓子をもらっても、大量に貰うのでしばらく袋に貯めて捨てていた
造船に物乞いが無かったと思いますか?
物乞いがあったのなら、遍路さん等の旅行もあっただろうヒント:テント
テントを張って野宿を楽しむ人間が、旅行をたしなまないと思いますか?
テントの中で男女がすることは何ですか?>>19
日帝時代?慶州瞻星台(天文台?)の前で
修学旅行生の集合写真ってのがあったような「春窮、麦嶺越え難し」で食うや食わずの朝鮮でどうやったら通行人を泊めて、飯を食わせてやれるんだ?
両班様のところから盗んでくるのか?>>23
イザベラウンチャラのセックスライフがどうとか、頭がおかしいのか。
お前はただの変態だ。>>45
旅人が最初から道中の人に施しを受ける前提なのは醜い姿です。
「一宿一飯の恩」はちゃんと返しましょう。>>45
17世紀前に限らず、日本の昔話には、同じように、一般家に泊めてもらう話は山ほどある。
朝鮮通信使が日本に来て、日本の浮浪者が、食べ物ではなく銭を欲しがる事に、驚愕していたぞ。
【物証が示す、韓国で旅行が発達しなかった理由】
→朝鮮では車輪、木樽が作れなかった。
→朝鮮には荷車が通れる道幅を整備する必要がない。人と馬で全てを運ぶ。だから獣道しかない。
→朝鮮には生産地と消費地を通す主要道路がない。
→道路がないから、酒や食料の運搬能力が限られる。木樽も作れないので、割れやすい壺による大量運搬は不可能。
→産業が発達しない。人が移動する理由がない。수운을 이용하면 수레 '따위'보다 몇 배나 더욱 많은 물자를, 몇 배나 빠르게 운송할 수 있었다.
중국이 무리해서 대운하를 뚫은 이유도 이것이다. 유럽 또한 북유럽 평원, 특히 라인강 하구에 매우 많은 운하를 뚫었다.
더욱이 조선은 유럽이나 중국과 달리 평야가 적고 산이 매우 매우 많다. 조선시대 말기까지 조선의 길은 매우 좁았는데, 그 이유 중 하나는 대로를 만들 수 없던 지형적인 장애였다. 이러한 지형적 장애 때문에 조선은 도로 자체를 쉽게 뚫을 수가 없었다.
게다가 호랑이와 표범 같은 맹수들도 엄청나게 많았기 때문에 기껏 산길을 뚫어봐야, 백성들이 거의 통행하려고 하질 않았다.>>57
우리나라에 무려 삼국시대에 처음으로 역이 도입되었다ww 우리나라 만세!
다만 이때는 몇몇 지역에만 국지적으로 설치되었다. 삼국사기에는 신라가 지금의 울산광역시 지역에 설치한 屈歇驛 등 역참의 이름이 간헐적으로 등장하는데. 구체적인 위치나 전국의 역참의 목록 같은 것이 별도로 남아있지는 않았다.
이후 고려시대부터 전국적으로 확대되었다. 고려시대에 전국에 22개의 길과 525개의 역이 있었다ww 우리나라 만세!
비슷한 시기에 중국을 정복한 몽골(원나라)은 중국뿐만 아니라 몽골 등 지배 영토의 전역에 걸쳐 驛田제도를 실시했다.
기존에는 驛院을 대부분 사찰들이 운영하였으나, 조선시대에는 전부 국영 시설로 바뀌었고, 조선시대 후기에는 비슷한 역할을 하던 院을 점차 흡수한 이후, 조선시대 말엽에 郵遞司가 설치될 때까지 유지되었다.>>53
일본인들 중에도 이상한 놈들이 많구나!>>58
日本でも中山道とか甲州街道とか青梅街道とかすごい山地に広い街道と宿場をつくりましたが?
そうそう、日本最大の街道である東海道(現・国道1号線)も箱根はすごい山ですよ?
要は朝鮮に、街道を整備させる国家権力が存在しなかったというだけの話。
まあ、王権も弱けりゃ、税収も宮廷で浪費しちゃって国民生活のために土木工事をやろうとなんて思わないんだから、どうにもならんか。宿場町の飯盛り女って、単なる女中じゃないからね?
売買春をしていて風俗街の側面があるんだから、それを目当てで発展しているということが出来る
現代の遠征売春婦のありようを見て、もともと造船には旅行者相手の売春が無かったと思いますか?
なぜ大きな駅前にはテレクラがある(あった)のですか?
鶯谷の売春婦のお客さんは、東京出張の会社員だと思いませんか?
以上、売春文化があるんだから、旅行がなかったとは考えにくい>>59
高麗後期はひいき目に見てもモンゴル人の国家だろ。
征東等行中書省が置かれて、元朝の一部になったから站赤が整備されただけじゃん。>>45
朝鮮人って泊めてもらっておきながら 家の物を盗むんだろ?w>>45
どうせ両班は金を払わないから
商売が成り立たなかっただけだろw
白丁は両班のお供くらいでしか旅行できないだろうし
金を払わないやつと払えないやつしかいなかったのが
朝鮮という世界www>>59
三国史記は資料としての価値は低いので、その資料だけに依拠する姿勢は間違っている。
総じて朝鮮の資料は、我田引水的な記載が多々あり、中国、日本の資料記載との乖離が多いので扱いは慎重にするべきだろうな。>>66
朝鮮は宮廷売春文化だから。
北朝鮮の歓び組とかまんまそうだろ。>>1
あかん。これ歴史のカテゴリに入れたつもりなのに>>62
道路が整備して無かったので、朝鮮の物流は海運しか有効な流通ルートは無かった。
海運を旅行だとは言いがたいね。
貨幣経済も何度か試みるも、悪銭が良銭を駆逐するという現象が、物々交換で使われた布で、同じ現象が見られた。
日本が併合した時、海運事業はノウハウ持った日本側が行う事になり、朝鮮商人は海運事業の競争に敗れて、道も整備されてない陸路の内陸部の運搬業に移行した(荷車が通れないので、運搬は人&馬に乗せれる程度)。
内陸部も道路が整備されると、そんな商人は消えた。現在ですら韓国人は韓国内を旅行しないだろw
>>66
遠征売春婦は国内での売春が禁止されたからでしょ
朝鮮人の旅行は人攫いの旅だね旅行と放浪は違うからね。村で食えなくなった人間が乞食をしながらあちこちを放浪して最後無縁仏になるのは旅行じゃないだろ。
少なくとも現代社会において旅行はお家に帰るのが前提だろ。日帝時代に遠足で初めて旅行したって記録が結構残ってる
鉄道引かれ始めたからな>>1
奴隷以外には有ったでしょ。朝鮮時代に一番旅行したのは朝鮮通信使だろ
日本旅行する朝鮮人の元祖w>>79
ちょっと逸れたな。
この辺りは物流の話だな。庶民が物見遊山で旅をしていたのは日本くらいだろ
イスラム教は信者に「ハッジ」というメッカ巡礼の旅行を義務付けてるので、庶民の旅行が日本の専売特許というものでもない。
14世紀のモロッコには、イブン・バットゥータという偉大な旅行家を輩出しているしな。>>8
貨幣経済が存在しないのに手形、小切手だってww
お前は馬鹿なのか?
それとも豚なのか?>>83
それは旅行じゃなくてホームレスとか引っ越しとかだろう。>>8
この資料は、朝鮮時代に使用された小切手で、一種の殿堂文書です。 「殿堂」というものを任せ借りたお金を期限内に返済できなければ預け物を勝手に処分してもいい条件の下にお金を借りることを指します。
これは小切手や為替ではありません。
質屋の借用証文です。
これでは旅行ができません。>>81
温泉地への湯治やお伊勢参りは人気だからな。>>83
それはただの流浪だろなぜ中国の公衆便所は最近まで仕切りが無かったのですか?
李氏朝鮮の道路はうんこだらけだったという都市伝説を信じますか?
男子の精通、射精は排泄行為の一種と思いますか?
強姦先進国の人が、いたす場所を選ぶと思いますか?
>>90
25年ぐらい前かな、たしか蘭州の駅前で、なぜか出稼ぎ農民みたいな人たちが大勢野宿をしていた
流氓(りうまん)という当時漫画で見た単語を思い出した>>89
それ多分、キップを買うために待ってたんだろういつも茶化したり、チョーセン人の悪口だだったり、時々じじつだったり・・・
今朝はさ、もうお酒飲んじゃったから、たまにはまともにヨパライ意見を書いてみようかなって思ったのよ。
朝鮮半島に道は無い。無かった。事実だけど、それは李朝朝鮮が推し進めた政策。倭寇が侵入しにくくなるよう、道、意図的に無くしたんよ。
租税の搬入経路も、海や川伝いに変更してさ。
もともと貨幣経済も発展してなかった李朝朝鮮。当然、文化的に後進国化が進行するさ。しかも、急速に。けど、貴族や王朝は、気にしないしね。
旅行?
物見遊山なんて考えられないし、流通さえ困難な状況で?
ありえないだろうが!!!
ところで、ツマミ、欲しいんだけど・・・家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
家にあらば 妹が手まかむ 草枕 旅に臥やせる この旅人あはれ
草枕旅行く君と 知らませば 岸の埴生(はにふ)に にほはさましを
草枕旅行く君を幸くあれと斎瓦据ゑつ我が床の辺に
草枕 旅の宿りに 誰が嬬か 国忘れたる 家待たまくに
(・_・D フムフム
旅行の目的は何だったんだろうか。>>45
>旅行をしていた旅人は、夜になると近くにある民家の門を叩いた。その後、家主は彼に寝食的提供くれた。
日本も、平安時代はそんな感じで旅行してた。泊まるのは街道沿いの家や、寺などに頼んだ。
身分の高い人だと、地域の有力者の家に泊まった。
室町時代になって、日本でも貨幣文化が進んだ。中国の明王朝と貿易を行い、銅銭を輸入。
日本国内でも銅銭を作るようになり、一気に貨幣文化が広まった。
それで、徐々に宿屋ができた。初期の宿屋は、有力寺院が信徒のために開いた宿坊などから発展した。
街道や宿場毎に宿屋ができたのは、江戸時代に入ってから。江戸幕府が大名に参勤交代をするように決め、街道をクシュ馬を整備したときに宿屋も整備した。
地元の有力者に許可を与え、貴人用の宿として“本陣”と“脇本陣”を定めた。その周辺に各種の宿ができた。
江戸時代でも、民家に泊めて貰う習慣も残っていた。
宿がいっぱいだったり、宿屋のある場所まで行き着けないとき等は、近所の民家などに宿を請う事は珍しくなかった。
宿屋でなくても、寺院や神社の前の茶店などに泊めて貰う事もあった。>>89
それ多分、切符を買うための行列。
今はどうか知らないけど、1980年代の中国だと、切符の販売に上限があったのよ。
旅行許可証を発行して貰ってから切符を購入する必要があった。
それも、農村戸籍の人向けの切符には上限があるから、数に達すれば発売されない。
都市戸籍の人だと上限なしに買える。
但し、党幹部などが乗る場合は、問答無用で切符無効にされる。
だから、荘重の一番列車を狙う人が多かった。(党幹部は、そんな列車に乗らないからね)>>8
その資料を見ると、小切手でも約束手形でもない。
〇〇借ります。担保は△△。期限内に〇〇を返せなければ、△△の所有権が移動します。
という内容ね。
日本ではそういうのを、質札。という。
小切手や約束手形とは別のもの。
朝鮮に旅行の習慣あったか?
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