高麗王家は モンゴル人 でした

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    • 1名無し2019/02/11(Mon) 15:45:17ID:k2MDY0MDQ(1/6)NG報告

      岡田英弘(著)『モンゴル帝国から大清帝国へ』

      モンゴル帝国に降伏した高麗王家は、モンゴルの宮廷貴族の待遇を得ます。最高ランクの金印獣紐を授けられるなど、かなり厚遇されたようです。
      高麗貴族の間でも、モンゴル文化が流行します。モンゴル人は仏教徒で、高麗の宗教は、仏教と道教でしたので、文化的な摩擦は少なかったのかもしれません。
      さて、血統の純化の経緯をたどりましょう。
      高麗の忠烈王は、1274年に、モンゴル帝国の世祖フビライ・ハーンのむすめのクトルグケルミシュ公主に婿入りします。
      入り婿した忠烈王の息子が、イジルブハ(忠宣王)で、当然モンゴル人50%のハーフです。イジルブハ(忠宣王)は、誕生以来、常に元都にあって養育され、世祖フビライに可愛がられます。イジルブハ(忠宣王)以後は、全てモンゴル貴婦人に入り婿させてもらって授かった高麗王の息子が、モンゴル宮廷で育てられて、高麗王に任命されることが慣例になります。勿論ですが、高麗王に任命するのは、モンゴル帝国の宮廷です。
      なお、「イジルブハ」はモンゴル貴族としての本名(?)で、「忠宣王」は高麗王に任命されたときの漢字の通名(?)です。
      以下も同様に、『本名(通名)』で名前を記します。
      モンゴル人との混血ハーフのイジルブハ(忠宣王)は、1295年に高麗に赴任して、全権を把握します。
      さらに、イジルブハ(忠宣王)は、1296年に世祖フビライの長孫晋王カマラのむすめのブッダシュリーン公主に婿入りします。
      政争を経て、1314年に、イジルブハ(忠宣王)の息子のラトナシュリー(忠粛王)が、高麗王になります。これで、モンゴル血統3/4、高麗血統1/4になりました。いわゆるクオーターですね。
      それ以後は、ラトナシュリー(忠粛王)の子や孫のブダシリ(忠恵王)などが王位を継いだので、高麗王の血統は、7/8(=88%)~15/16(=94%)がモンゴル血統になります。
      こうして、高麗王家は、ほぼ完全なモンゴル人化が達成されました。

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