それは天皇を主権とした徳川も含めた議会制って事?
恐らく直ぐに瓦解しただろうね。
明治維新は戊辰戦争という過程が必要だったんだよ。
旧勢力を打倒するというシンボル的な過程がね。明治10年、西暦1877年、徳川家茂と和宮で公武合体しましたよ。その後の歴史はご自分でお調べ下さい
質問の意図が分かりにくいが。
皇女 和宮が14代将軍 徳川家茂に降嫁して公武合体は成功したじゃないか。
だからこそ明治になっても徳川宗家が残されたとも言える。
16代の徳川家達は公爵となり貴族院議長を長年務めたことを知らないのか?>>1
公武合体は一旦は成功している。
禁門の変によって、朝廷に対して発言力が強まった幕府や親藩を中心に「一会桑政権」と呼ばれる体制が京都に作られ、それによって朝廷はほぼ掌握されることになった。
しかしその体制が主導した長州征伐が大敗に終わった事で、影響力を一挙に失い瓦解してしまう。
幕府自体の威信も地に落ち、以後は討幕の流れが加速していく。>>3
和宮と家茂の婚礼は文久2年(1862年)ですよ。幕府が大政奉還をしたとき、幕府側が天皇側に管力を渡したところで幕府が握っている官僚を抜きにして政治は行えない。したがって天皇側に政治を移したところで徳川家の参加は不可欠と考えたんだね。特に財政に関して
実際は徳川家抜きで政治を行えてしまった。
そこが明治維新のすごいところ
徳川家が明治政府に参加していたら、廃藩置県も四民平等も成立しなかったかもね>>1
幕藩体制下では「中央集権化」が中途半端だったからね
徳川家云々、というより各地の“大名家”を排除して“政府一強”の体勢を敷かないと外交もロクに出来ない
現に開国後に“大老”が暗殺されたし
「公武合体が実現する」という事は「近代化に失敗する」と言う事
幕府や武士政権は“終わる”運命だったんだよ南北の「公武合体」構想でも考えているの?
公武合体を、徳川総理大臣の体制とすると、個人的には一時的にしろ、十分あり得たと思っているよ。
でも、その実現後どうなったか。神のみぞ知るで、想像できる範囲が広すぎて省略。
ところでリビアのカダフィの最期を見た北の指導者は、解放政策を諦めたらしいけど、事実そうではないかな。権力の座から降りたことは、文字通りカダフィ一一族の死を意味した。これを見た北は、21世紀の現代もそうだという確信をもったので、どんなに経済制裁されようと、核開発は捨てない。ひとえに、我が一族の生命にかかわるから。自国民の飢えや寒さなど知ったことではない。目を南に向けてみよう。民主主義の国のはずなのに、そこでも前権力者は断罪され投獄され、自死する。だから彼は、一旦権力を手放せばそれは自分の、文字通りの死を意味すると思っているだろう。
ということで、南北「公武合体」は起きえない。国民性の問題だな。君らは前権力者を皆殺にする情念を未だに持つ。そのような国民性では、権力者同士が妥協する発想などは、ありえない。権力者のどっちかは皆殺にされなければならない。
平和的な南北合体はあんまり想像出来ないな。どこかで血で血を洗うことになるように思える。
そういう意味で、日本の公武合体の仮定は参考にもならないよ。徳川宗家は明治には「従一位大勲位公爵 十六代様」(最後の将軍は15代将軍)と呼ばれていた。前権力者に対する意識が、両方の国民性で根本的に違うからな。>>10
大政奉還は、結果的にこれが引き金となる形で鳥羽伏見の戦いとなる。
慶喜追討令はその後に出るので、徳川家延命策とは関係ない。>>10
どこに皆殺しの大義があるよ?9の言う通りで、日本は朝鮮じゃねえぞ慶喜公やその息子は自ら要職には就かなかった。
>>1
的外れな意見だね。
明治維新は 幕藩体制を壊して、
四民平等の中央集権制を作ったことに
意味がある。
幕府と薩摩長州、朝廷が合体するのは、
旧体制を維持、強化させようというのだから、
うまく行くわけがない。
負けた幕府だけではなく、勝った薩摩、長州まで、従来の支配者層が自主的に支配権を放棄した。
支配者の交代ではなくて、社会革命だったんだよ。>>1
そんなたらればは、無知な日本人か外国人しか考えない。
武家は公家の分家が多いのです。戦国大名は例外ですが。
日本の天皇家では、基本一旦分家したら天皇にはなれません。
だからこそ天皇家であり、日王家では無いのです。
世界でも例が日本にしかないので、外国人には理解不能でしょう。金王朝を取り除く捨てずに。南北合体したらどうだろうか。
なるほど。日本の歴史「公武合体」を朝鮮統一の参考にしようというのか。
ならば金正恩はさしずめ天皇ってところか。
……天皇??
도쿠가와 쇼군 을 없애버리지 않고. 공무합체 했으면 어땠을까.
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