じいさんは85歳で九州の日本海側の出身。石炭の積出港として栄えた歴史のある市です。
じいさんの小中学生の頃、赤毛で目が青い目の女の子がいたそうです。白黒の写真ですが写真も見ました。他の女の子より背も高く顔だちが全く違います。
じいさんは母親も見た事が何回もあるそうです。その親子は『らしゃ』とゆう織物を売って生活してたそうです。
じいさんの話しでは、いじめられる事もなく普通に生活していたそうです。父親は見たことないそうです。
じいさんが言うには隣の小学校には他の異人にも居たと言います。
じいさんはなんと異人を尊敬してたと言います。ロシア人だと聞いていたそうです。
本題です。ネットでも調べましたが1900年の前後30年で約7000人のロシア人が亡命しています。多くは神戸や函館に住んで日本の偏見に耐えきれず第3国へ逃げたそうです。
たった7000人が九州の田舎の港町に住むでしょうか?九州では尊敬されてたのも信じられないです。らしゃは他の国も名産にしてるし他の国の方が有名で九州の田舎町で暮らしていけるほど売れたのでしょうか?じいさんが話しを盛ってるのでしょうか?
皆さんの意見聞きたいです。漢字なら 羅紗緬 と書くのでは
スレ主は戦前の日本人は外国人に対する偏見が激しかったのに、なぜ田舎でロシア人らしい外国人が自活して行けたのかという思いこみから、スレを立てたのだろう。
しかし、第一次大戦の時のドイツ人捕虜を収容した板東俘虜収容所と、鳴門市の市民との交流(映画になっている)からわかるように、戦前の日本人には外国人に対する偏見はほとんどなかった。
外国人排斥が行われるようになったのは第二次大戦前後から。
> 本題です。ネットでも調べましたが1900年の前後30年で約7000人のロシア人が亡命しています。多くは神戸や函館に住んで日本の偏見に耐えきれず第3国へ逃げたそうです。
すでに指摘されているが、ここが間違い。ロシア人が亡命してきたのは1917年以降。
神戸や函館は幕末から外国人の居留地が設置されていた土地で、第二次大戦が始まるまでは多数の外国人が住んでいた。
ロシア人が「偏見」のために日本を去ったのなら、どうしてアメリカ人やフランス人やドイツ人が日本に住続けられたのか?
ロシア人が日本を去ったのは、単に金がなかったから。日本でパン食の生活をするためには金がかかった。
亡命したロシア貴族は自活する方法を知らなかったので、金がなくてもパン食で生活できる欧米に再移住した。
スレ主の祖父の目撃した外国人は生計手段を持っていたので、日本で生活できた。スタルヒンていう300勝した投手がいたな
つうか、佐世保、長崎、出島あたりは普通に外国人いっぱいいただろ。
だから、一部がそのへんで集落作ってても不思議ではないわな。「陽明丸」100年間も無名だった歴史に埋もれた実話
1920年に、ロシア人の子供800人を救った日本人
http://www.fujitv.co.jp/unb/contents/171130_2.html
この救出された子供同士で結婚した人が、
「カヤハラ」「ヨウメイマル」「ムロラン」の3つの名前を覚えていて
その話をその「孫」が聞いて育ち、
ロシアで展覧会を開いていた書道家の名前に惹かれ(キタムロナンエン)調べてほしいと頼んで判明した実話。
調査した結果室蘭でロシア人子供を歓迎していた写真もみつかった。
船長の名前が「茅原」
船の名前が「陽明丸」
子供のころおじいさんおばあさんが立ち寄った思い出の場所が「室蘭」
昔の日本人で本当にすごい。うちの実家はど田舎だが、以前帰省した時、黒人が自転車に乗って走っていてビビった
母に聞くと、なんでも研修(という名の出稼ぎ、移民)でアフリカのどこかの国から来てるんだとか
地元の子供がそれを見て、100年後には伝説になっているのだろう日本はこういう話が多い
韓国人の茶化しとはぜんぜん違う。
例えば「スギハラセンポ」
「日本のシンドラー」として大量のユダヤ人にピザ発給した人だけど、
杉原千畝(スギハラチウネ)という名前は、外国人には発音しにくい名前だったので
海外で領事館をするときは、「スギハラセンポ」と名乗っていた。
杉原にお世話になった外国人が後に
日本の外務省に「スギハラセンポはいるか?彼にお礼を言いたい」と言って
「スギハラセンポという人はいない」と返答されたのは有名な話。
その時助けてもらったイスラエルの参事官ニシュリ (B. Gehashra Nishri)の言葉
「実際には、日本政府の許可なしであったこと(ピザの発給)を私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。」韓国人が主張する、日帝強占領期と真逆なのが当時の日本。
スタルヒンみたいなもんだろ
>>24
駆逐艦「雷」の工藤俊作の話はテレビで有名になったけど、救助されたイギリス兵が発言しなければ世界の誰も知らないまま消えていった話。
姉妹艦の「電」も同じように救助していたと言う。あの「雪風」もやっていた。
武士道の惻隠の情をまとった帝国海軍では、当たり前の行動だった。祖国が日本で心から誇りに思う。らしゃですがカーテンや学生服やコートなと国産が使われていました。兵庫県など産地もあり、そこまでは調べました。
高級らしゃもポルトガルなどもっと手の込んだ物が歴史もあり有名だったそうです。
田舎の港町でロシア産らしゃが売れたなんて考えにくいです。
それと本当はもっとロシア人は日本に来てたのではないか?と言う疑問も残ります。
上にも出ましたが軽井沢は有名避暑地ですし、小樽は外国人文化のある町です。
九州の田舎に来る理由もありません。
推測ばかりで申し訳ありません。あー 多分もう遅い
たった100年前ならどこにでもいると思うけど
羅紗緬(らしゃめん、羅紗綿)は、綿羊のことで、
日本においてもっぱら外国人を相手に取っていた遊女、
あるいは外国人の妾となった女性のことを指す蔑称。
洋妾(ようしょう)、外妾(がいしょう)とも言われる。>>34お前は精神障害者のようだ。
精神病院へ入院する事をオススメする推測は根拠があって考えるもの
根拠すらないのは妄想や願望と言う。事実確認を積み上げて、可能性を論じるならともかく
自分に都合の悪い証拠しか集まらないのに
おかしい俺の妄想が正しいはずだってのは
さすがに通じないよ。
頭おかしいんじゃないの?事実→3枚の写真を見ている。
1枚目 じいさん曰く小学校4年生の林間学校の写真。2階建てのコンクリートの建物をバックにじいさんとロシア人とあと二人が写った写真。ロシア人だけ頭一つ高い。4人しか写ってないから顔も鮮明。掘りが深いし目も大きい。髪は明るい色の感じ。ぽっちゃりしてる。
2枚目→小学校卒業の全体写真。顔が異質なのがわかる。髪も一人だけ明るい。頭一つ高い。
3枚目→中学校卒業写真。顔が更に異質。シャープな輪郭。一人だけ女って感じ。掘りも深い。一番後ろで頭の高さを揃えた感じ。髪も明るい。
でも2枚目3枚目は全体写真なので細かくは解らない。
1枚目の印象は現在でも見かけるような白人の女の子。俺の祖母は北海道生まれのロシア人だよ
日本人の名前で着物を着て普通に日本人のババアとして生活をしていた
近所の人も外人みたいな顔をした日本人だと思っていたみたい
「北海道生まれだから外人みたいな顔をしている」と言っていたロシアは先住民のモンゴロイドも多いよね
NHKのロシア語講座で学校が映ったりすると
2~3割がモンゴロイドだった
そういう人なら普通になじんでいそう>>45
江戸時代末期から少しずつロシア人が住み出したのは間違いないみたいです。
ロシア革命は反乱軍により一気に革命が成功した訳でなく、危機を感じた王朝側のロシア人が何十年もかけじわじわ外国に逃げていったみたいですね。
ロシア史は知らないですが1903年1917年と2回革命が起きて1917年にソ連誕生に至ります。
日本が正式に亡命を認めたのが7000人。その半分が数年で外国に出ています。
正式亡命者以外にも日本に来たのは間違いありません。数は不明。
王朝崩壊の危機感でヨーロッパ各国に逃げた人も大変な目にあったようです。
正式亡命者以外、何故日本に住めたのか不思議ですよね?戦中も追い出されなくて出て行く気もなくて、今より住民登録とか厳しいそうなのに。
友達にもロシア人が居るなんて知れば知るほどミステリーです。
家のじいさんも父にも話した事ないそうです。一週間前引っ越しの手伝いに行ったとき偶然その話しと写真を見ました。じいさん、食いつく俺にノリノリで話してくれましたw>>46
> ロシア革命は反乱軍により一気に革命が成功した訳でなく、危機を感じた王朝側のロシア人が何十年もかけじわじわ外国に逃げていったみたいですね。
> ロシア史は知らないですが1903年1917年と2回革命が起きて1917年にソ連誕生に至ります。
1917年以前に日本に来ていたのは貴族ではなく、商人。
『戦艦ポチョムキン』の題材になった最初の革命は1903年ではなく1905年だし、体制内変革であって、帝政に代る政府を作ろうという動きではなかった。
1917年の2月革命の時点でも、ケレンスキー政権には進歩派の貴族が参加していたし、貴族の特権が全否定されるなんて考えてもいなかった。
2月革命の時点では、貴族たちは一時避難のつもりで海外に出ただけだった。
ところが、10月革命でボルシェビキが政権を奪い、内戦で白軍が敗北すると、貴族は財産をすべて没収され、帰国できなくなってしまった。
一部を除くと、財産を海外に移転していなかったので、貴族は亡命先で貧乏な暮しを余儀なくされた。
「王朝側のロシア人が何十年もかけじわじわ外国に逃げていった」なんていう危機感があったら、亡命貴族は貧乏していない。라샤짱이랑 금단의 섹스!
>>47
何で関係ない話もってきてドヤってるんだ?
お前みたいな奴に突っ込まれないように
杉原が生まれた時代背景からドイツの混乱期を得て杉原の人生が終わって名誉回復されるまで全部すればよかったか??
リアルで相手にされてないからって
無関係の話で絡んでくるなよ>>48
すいません、1905年です。
貴族と言う書き方が悪いですね。1917年以前にロシアの危機を察して世界中に逃げた人はロシア王朝から得る利権が存在した人達ですね。
その一部が江戸時代末期から日本に来てました。もちろん商人も含めて。個人ブログですが1860年あたりから革命に至るまでの危機的背景がわかるから参照してください。
http://blog.livedoor.jp/ussyassya/archives/cat_50049203.html>>49
参考になります。ウラジオストクから九州航路ならロシア人もスムーズに来れた訳ですね。
当時の九州にロシア商人が多数存在して生活できた理由が初めてわかりました。ありがとうございます。>>52
そうなんですよ。日露戦争があったのに在日ロシア人の排斥や収用されたなんて聞いた事ないですし。疑問でした。更にじいさんの話しではいじめもなく逆に尊敬していたなんて信じられない事の一つです。軍事教練もいっしょだったとか笑いますよw
行進の練習くらいしか覚えてないそうですが。シベリアや樺太から渡ってきたアイヌ
ソビエト革命や満州匪賊から逃げてきた白系ロシア人
ここらは数も多いし把握出来ないレベルで同化してるぞ
白系ロシア人なら洋菓子屋やパン屋に嫁入りしたり婿入りしたりしている
有名なスポーツ選手だとビクトル古賀・スタルヒン・大鵬あたりもいるしね>>1
アメリカのラジオ局『WBUR-FM』より
第二次世界大戦中の日本で「無国籍の外国人」としての生きた若者の物語
https://kaikore.blogspot.com/2018/03/isaac-shapiro-japan-world-war-ii.html
http://www.wbur.org/hereandnow/2018/03/22/isaac-shapiro-japan-world-war-ii
長いので 関係あるところだけ要約すると、
1.1931年 ロシア帝国の崩壊とナチスの弾圧から逃れて ロシア系ユダヤ人の一家が日本についた。
2.外国人だったが 無戸籍だったので、日本人は敵として扱わなかった。
爆撃や食糧難以外は快適に暮らしていた。
3.東京の空襲が激しくなったので 軽井沢へ避難した。
4.食糧難で手足に痛みを覚えるほどであったが、私の少年時代は幸せなものではなかったとはいえない。
よい友達もたくさんいた。スレシャさんは何処いった?
>>62
戦後の日本の左翼を煽ってたのは、ソ連だからね。
亡命ロシア人の存在は彼らにとって不都合だったんだろ。>>60
ネットでですが昨日調べてみました。ありがとうございました。
わかった事は日本政府や軍が積極的に白人を排斥した訳でなく、東京、横浜、神戸など当時の大都市いた白人は元々が裕福で戦争の危機が高まった世論に危機を感じて出ていったのが現実のようです。
日本に残った白人は帰る方法や帰る家がなかった裕福じゃない白人。
当然、監視の対象にもならないし収用する危険な存在でも無かった。
元々日本社会に同化してる白人も多く、地域も危険を感じて無かった。
だからじいさんと普通に過ごしたロシア人がいたり、無国籍ユダヤ人も嫌な思いをする事なく生活出来たんだと思います。その昔ヴィクトル・スタルヒンという大投手がいてだなぁ
>>54
革命前に外国に出ていたのは、純然たる商人を除くと、反体制派だった。
穏健派のゲルツェンから、過激派のレーニンまで、ロシア国内にいられなくなった革命家が外国にたくさん逃げていた。
日露戦争の時には、明石機関がそうした国外の革命家を通じて反体制派に資金援助し、暴動を起させたが、あくまで戦争の妨害のためで、帝政打倒のためではなかった。
体制派には革命に対する危機感はなかった。
帝政が倒れることを予想していた人はいただろうが、いきなり共産主義政権が成立して、皇帝一家を処刑するなんて、夢にも思わなかっただろう。
ドイツが、封印列車でレーニンとその手下をロシアに送りこまなければ、10月革命は起らず、立憲君主制で収っていたのではないだろうか。>>62
> 余談ですが特高や憲兵が極端な拷問で自白させていたのも嘘らしいです。蟹工船の作者が特高の行き過ぎた暴力で死んだ事件が元になり尾ひれがついたのが現実のようです。
立花隆の『日本共産党の研究』によると、特高警察は下っ端に対しては暴力を使うことがあったが、幹部に対しては決して暴力は使わなかったそうだ。
当時の特高の取調官はみんな勉強家で、共産党の幹部を徹底的に論破し、転向に追い込んだ。
共産党幹部はインテリだから、論理的に追いつめる方が效いたのだ。
その証拠に、佐野学や田中清玄、赤尾敏のように、第二次大戦後も反共の立場を貫いた転向幹部がたくさんいる。
暴力で転向させられたのだったら、そんなことは起らない。
戦後、共産党に復帰した幹部が「暴力」で転向させられたと言っているのは、自己保身のためだろう。
宮本顕治の場合は、殺人の嫌疑がかかっていたので、完全黙秘を貫き、論破されないですんだ。
取調官に論破されなかったことで、他の幹部は宮本に頭が上がらなかったわけだ。九州は知らないけど、小笠原には16世紀だか17世紀ごろから、住民の一部に白人種がいたらしいよ。
西洋人が船で来て、難破して、そのまま住み着いて、現地の人と結婚して・・・とかいう流れだとか。
家のじいさんの嘘のような本当の話し (確認済)
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