日帝時代、現代の甲子園大会の前身の大会には、朝鮮からも選手が出場していました。
日本と朝鮮人混じりのチームもあれば、朝鮮人だけのチームもあったそうな。
これって朝鮮人が奴隷じゃなかったという、何よりの証明じゃないですかね?당연히 노예 클래스는 아니었다. 많은 한국인들이 과장하기는 하지.
1등신민과 2등신민의 차별은 있었으나, 노예에 버금갈만한 클래스는 아니었다.朝鮮人 「強制的に、無理やり野球なんかをさせられたnida!」
朝鮮半島で、甲子園の予選までやってますからね。
普通に運動会などをやっている映像もたしか残っていたはず。
韓国の現在よりスポーツする場所はあったのかもw朝鮮に野球が入ってきた時どんなであったろうか?
日本でもそうであったが体育教育と言う概念がまず無かったから
朝鮮野球黎明期なんてエピソード残ってないか?>>11力道山の孫は田村圭選手。
>>7
だがそのジジイはさっさと隠居しろと동아시아와 아메리카 대륙 이외에는 왜 야구가 인기 없을까?
>>8元甲子園球児だった。
>>17
細かくは知らないが女子高生の制服はイギリスの教師が着物では女性が活発に動けないから考案したと聞いた事がある
男子でも剣道や柔道の様に格闘技として稽古はしていたろうが運動の為の運動と言う事は無かったので随分ちぐはぐな事は起こったと思う世界中で人気のあるサッカーと比べてルールが煩雑だから?
野球道具を揃えるのにお金がいる
日本人の中でも、高校野球は特別だね
高校野球専用の球場甲子園
全国大会の試合を全中継とか、他の競技ではありえない待遇
全国から球児たちの保護者たちや高校野球ファン達がやってきて、熱い応援
数千億単位の経済効果全49校じゃ中途半端だから、韓国や台湾やアメリカ等からも同年代のチームか代表を招待し、
64チームでやれば良いのになあ夏の甲子園。>>23
韓国を混ぜたら嫌なことになる予感がするから嫌だ>>25
私も高校生の時、甲子園目指してたから、この映画は感じるものがあった(県予選3回戦敗退だが)。
ただね嘉義農林は特別だった。
嘉義農林が甲子園出場する以前に台湾代表の台北一中、台北工業、台北商業は殆ど日本から台湾に赴任した子息や移住者が主力メンバーの学校だった。
映画でも取り上げられていたけど、KANOは台湾の原住民、中国からの移住者と日本人の混成チームが準優勝したから日本国中から反響があったんだ。
戦局が苦しくなった昭和19年後半から南方へ送られる兵士は輸送船が潜水艦に沈められたから基隆から高雄への移動は鉄道だった。
嘉義は阿里山鉄道の拠点でもあり大きな鉄道駅。
ここで機関車の水や石炭補給で数時間停車した。
この間に嘉義農林の野球部のグランドを訪れた兵士は沢山いたそうだ。
台湾に旅行へ行った時、私も行ってみた。
グランドは見れなかったけど、嘉義農林の跡地は嘉義商業として今も残っている。ポルトガル植民地モザンビークのサッカー選手エウゼビオは、ポルトガル代表として抜擢され、白人選手と同じ立場でプレーした。
1961年の話だから時代は多少後になるが。
1920年からモザンビークにはサッカークラブがあり黒人選手もいたそうな。
奴隷待遇の植民地なら こんなことはしない。>>22
日本は武家政権が長らく支配層だったからな。
武家といえば武術と軍略ができて当たり前。その意味での文武両道。
だから、スポーツではなく体を育てる「体育」になった。
もっとも、お金にかかわる経理系の学問はあまり好まれなかった。
その点、朝鮮はながらく文治主義だったから体を動かすなんて下々のやることになってしまった。
日帝時代の甲子園には、多くの朝鮮人球児たちが参加していた
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