漢字を捨てた民族に未来はない

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    • 1名無し2018/02/03(Sat) 08:24:47ID:Q4NTI3Mg=(1/4)NG報告

      そもそも、世宗がハングルを発明した当時は、明の文化を否定するものだとレッテルは貼られすこぶる評判が悪いものでした。
      この「ハングル文字」にいち早く目を付けたのが、日本人なら誰でも知っている「福沢諭吉」である。 福沢は「教育の普及が近代化の第一歩である」という信念から、朝鮮においても啓蒙を担う文字の重要性を説いていた。
      そこで、日本の仮名と似ているハングルに注目し、一般国民にも文字を読むことが可能になるハングルの利用を強く勧めることになった。
      福沢はこうも言っている 「朝鮮の独立と朝鮮民族の啓蒙には、朝鮮語による新聞の発行が不可欠である」
      彼のこの言葉に大いに理解を示したのは、誰あろう安重根に暗殺された伊藤博文だった。
      福沢諭吉の門下生に一人の男がいた。その名を「井上角五郎」という。実業家・政治家という面だけが表に出ているが、
      「井上がいなかったらハングルは無かった」とまでいわれた人物である。
      彼は、朝鮮王朝政府時代、優秀な韓国人官吏とともに1883年に一定の体系と継続性を持った朝鮮初の近代新聞
      「朝鮮旬報」、そしてその続刊ともいえる「朝鮮週報」に大きく係ったということは、日朝文化史の上からも非常に興味深い。
      朝鮮初の近代新聞「朝鮮旬報」は全文漢字でありハングルは使われなかった。
      何故なら当時の大韓帝国では、ハングル使用には非常に抵抗があり、認められなかったという経緯があった。
      その後クーデターなどのトラブルに巻き込まれ、志半ばにして井上は一度朝鮮を離れることになる。
      しかし、彼が蒔いてきた種は確実に育っており、韓国人官吏、学者らが、文法的にハングルをまとめていたのだった。
      そして後年、井上にまた訪朝のチャンスが訪れ、日本で作成したハングル「活字」を携えて海を渡った。
      1886年、漢字とハングルを使用した「朝鮮周報」が発刊されることとなった。部数は3000部と少なく、
      結局新聞自体は庶民に浸透しなかったが、彼が目指した「教育の普及が近代化の一歩である」という意思は、
      その後、朝鮮語字典、そして朝鮮総督府による義務教育の普及へと繋がっていくのである。
      福沢諭吉、井上角五郎、伊藤博文の三氏がいなければ朝鮮半島にハングルが復活することはありませんでした。

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