古代国家並みの政治・経済レベルだった李朝末期の朝鮮は、日本統治下のごく短期間で、近代資本主義社会へと脱皮しているのだ。併合後に朝鮮の地主や商人の子弟が、大量に日本に留学して近代的経済システムを吸収し、日本を手本に自ら朝鮮の近代資本主義形成に取り組んだ結果である。
サムスン、LG、現代自動車など、現在、韓国経済をリードしている大企業は、そのほとんどが日本統治時代に産声をあげている。当時の朝鮮の人々は日本に収奪されるどころか、日本人と融和して力強く前向きに生きていたのだ。
当然ながら、日本人と朝鮮人は、とてもうまくやっていた。
韓国の弁護士協会会長を務めた朴鐘植(パク・ジョンシク)氏は、当時を以下のように振り返っている。
「日本人に対して特別な不満はなく、日本人と朝鮮人の間のトラブルもあまり聞いたことがない」「もし日本人が嫌なことをやったら朝鮮人がだまってはいなかった」「だから日本人から差別されたなどの問題もなかった」
日韓併合後、時がたつにつれて日朝両民族の融和は進み、日本統治の後半は言論界も「親日派」が大勢を占めるに至っている。
日中戦争(=当時は支那事変)勃発直後に発生した「通州事件」で、日本人と朝鮮人の間の連帯感は一挙に強まった。この事件は1937年7月29日、北京の東方にある通州で日本人114人(10歳以下12人)朝鮮人111人(同13人)が、冀東防共自治政府の中国人保安隊に虐〇された事件である。女性は強姦されて刺〇され、子供は指を切断されたり、手に穴をあけて引きずり回して〇すなど残虐の限りが尽くされた。
朝鮮の知識人は、国民精神総動員朝鮮連盟や皇国慰問作家団など続々と愛国団体を立ち上げて日本軍を熱烈に支持し、一般の人々も進んで国防献金を行って日本の勝利に協力した。
京城(現ソウル)駅には、中国に向かう日本軍兵士を見送るために連日何万人もが詰めかけ、日の丸を振って出征兵士を励ました。数千年に及んで朝鮮民族を蹂躙(じゅうりん)し続けてきた中国を、圧倒的強さで打ち破る日本軍の進撃に、朝鮮の人々は「先祖からたまりにたまった留飲」を下げる思いで万歳を叫んだのだった。
www.sankei.com/world/news/171221/wor1712210002-n1.html (抜粋)>>1
主旨が分からん。かつてのように中共に敵意を持って団結しようって言いたいのか?そんな理屈はもうあいつらには通用せんぞ?>>1
文大統領は中国側、北朝鮮側と決めてるし、日米はその認識だよ。
韓国は、中国におまかせします。朝鮮人はいささかの優位に立つためには逡巡なく裏切りを繰り返す民族。
付和雷同、ローソクデモ。朝鮮人にとって味方はその時々の方便であり、義を貫く意志に欠けると歴史は語っている。義理、恩義は二の次三の次なのだ。
朝鮮との連帯など真剣に考える事柄ではない。つまり朝鮮人はいつも裏切るから信用するなって本だよ
清が強い←清に事大
日本が強い←日本に事大し中国を罵る
アメリカが強い←アメリカに事大し日本を罵る
中国が強くなってきた←アメリカと中国の間を右往左往
↑
今、ここまぁ藤岡信勝の本なんて真に受けない方がいいよ。
中国のSMビデオの広報写真をチベットの虐殺の証拠とか言い出すようなバカだしw
そもそも冀東防共自治政府は日本の傀儡政権だし、賠償金も払ってる。
その上事件の切欠は日本軍が保安隊に誤爆したからだ。>>1
「通州事件」の前から、複雑な経緯があります。清時代は満州地域の封禁を実施していたが、1860年に関外(現:黒竜江省)に派遣されていた特普欽将軍などが朝廷に献策して、開放策に転じました。開放策では、中国人や朝鮮人の入植がなされました。既に禿山だらけとなっていた朝鮮半島からの朝鮮人移民も多く、現代の満州地域(中国東北部)に住む朝鮮族の直接の先祖は、この時からの移民です。
清時代は中国人の所有地だったが、封禁の影響で殆ど農業はされておらず、入植当初は安価に借地できました。1868年豆満江両岸で水田農業を朝鮮人が始めます。現代につながる満州農地開拓は、朝鮮人の活躍も大きかった。
日本と朝鮮が同じ国になって以後も、継続して満州移民が増え、未開拓の土地だらけだった満州には、受け入れるだけの農業キャパシティがありました。しかし、1929年の世界恐慌で、世界各国がブロック経済を実施し、経済圏内だけで受給バランスをとる必要がありました。他の帝国主義国家に比べると、日本・朝鮮・満州移民の経済ブロックは小さく、価格が乱高下するに至り、農民の生活は苦しい状況となります。この経済的苦境は、中国人も同じであり、この頃から中国人と朝鮮人の衝突が頻発します。農業水路の利用権、土地の賃借権、土地の所有者は国人である為、農業に必要な土地や水の権利の問題は、万宝山事件等の衝突事件となります。対中感情は悪化し、朝鮮排華事件も発生します。日本政府が、満州の状況に有効な打開策が取れない中で、満州事変が発生します。日本陸軍は瞬く間に満州を制圧し、日本及び朝鮮から、直接的な介入ができる状況となり、朝鮮人の満州における農業権利が保護されるに至ります。同時に、満州国への投資が朝鮮半島側から行われるに至り、この時期においては、日本も朝鮮も、共同して満州に投資しており、日本人と多くの朝鮮人には、共同意識があったようです。
当時の日本人と朝鮮人の連帯意識は「通州事件」が契機であったわけではなく、歴史の紆余曲折を得て、至っている。しかし、朝鮮人の対中感情は1937年の「通州事件」で、日本人117人、朝鮮人106人が惨殺されており、朝鮮人の対中感情の悪化はエスカレートしており、中国に対する激しい懲罰感情を持ったままであり、1938年から実施した朝鮮半島における志願兵募集で、志願が殺到しました。>>10
下記の件ですが...
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当時の日本人には現代人以上に、共同体を重んじ、公に奉仕する精神があったように見受けられますので、何の罪もない人々が虐殺された事件に対する義憤は、強い共同体意識も相まって、今の人々が類似した事件に感じる怒り以上の激情となったのではないかと思うのです。
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おっしゃるとおり、この「義憤」と「公に奉仕」の気持ちがあったと思います。だからこそ、その気持ちを利用して、商業主義的な煽りをした、当時の朝日新聞や毎日新聞の記事には、怒りを感じています。
日本も朝鮮も、同じ義憤と同じ共同体意識は、満州の農民保護と共同投資をみても、完全にリンクしていました。
中国人に対して、激しい懲罰感情を、当時の新聞は煽った。そして、実際の懲罰行動を行う陸軍賛美のような世間的雰囲気を作ったのは、当時の新聞社でした。
満州事変以降の急激な高揚感と共に、中国人への悪感情の増長は、新聞が担っていました。通州事件で、多くの居留民を抱える朝鮮半島側の人々の怒りは、すさまじく...
これを言ってしまえば「朝鮮の対中感情の悪化」の最大の原因は、日本の新聞社と言えるのですが...。
朝鮮の方々には、今も昔も、朝日の報道に踊らされている事を、知ってほしいと思う。普通に中華軍閥は暴虐で日本軍が制圧に行っていただけだと思うけど。
通州事件って現地人暴発事件のひとつに過ぎないのに。
なんの善人意識を守ろうとしてるのだろう。
朝鮮を主要人物に持ち込んだりして。通州事件、尖閣諸島戦時遭難事件... 昭和史に埋もれていた「事件」に光を当てる
<戦争が終わり、時間の経過と共に忘れられていったのではなく、元より埋没してしまっていた重大事件がある。当事者たちの証言をもとに、それらの事件から昭和の大戦を読み解く>
通州事件〈日本人居留民への大虐殺事件〉
支那事変(日中戦争)の引き金となったとされる「盧溝橋事件」。しかし、その前後には、中国側による数々の排日・侮日事件があった。
昭和10(1935)年11月9日、上海の共同租界内において、日本海軍の上海陸戦隊員である中山秀雄一等水兵が、中国人により背後から射殺された。「中山水兵射殺事件」の勃発である。
昭和11(1936)年7月10日には、上海在住の日本人商人が、近所の子ども3人を連れて歩いていたところ、頭部を狙撃され死亡。「上海邦人商人射殺事件」である。
その後も日本人に対するテロ事件が相次いだ。大阪毎日新聞の記者が中国人の暴徒に襲われて死亡した「成都事件」、日本人が経営する商店が襲撃されて店主が殺害された「北海事件」、警察官の吉岡庭二郎巡査が狙撃されて死亡した「漢口邦人巡査射殺事件」などである。
盧溝橋事件後には、その後の日中関係に決定的な影響を与えた事件が勃発している。「通州事件」である。
昭和12(1937)年7月29日、北平の東方に位置する通州(現・北京市通州区)という町で、その大虐殺事件は起こった。冀東保安隊(保安隊)と呼ばれる中国人部隊らが、日本人居留民への襲撃を始めたのである。当時、5歳だった新道せつ子は、その日の記憶を以下のように記述している。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2021/08/post-96860.php近代を目指した日本軍に野蛮の扉を開いて見せたのは未開なシナ人の方であった。
中国人保安隊が残虐の限り…「通州事件」で強まった日本人と朝鮮人の連帯
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