역시 일본
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名無し2017/06/13(Tue) 16:17:16(1/1)
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>>1
このサイトは何のサイトだ?
国内でやってる反日洗脳メディアと同じことをやってるわけだが
お前はその手先か?(´・ω・`)第5位:日本
推定死亡者数:2500万人以上
近代以降の国家であるだけに記録も多く残っている方だが、ビルマで25万、韓国で50万、フィリピン100万、インドシナ(ラオス、ベトナム、カンボジア)で150万、東インドネシアで400万人以上を殺し、およそ30万人を3日以内に殺した南京大虐殺を含めて2000万人ほどの中国人を殺し、その中に自国民である日本人もまた、270万人以上を犠牲にした。
http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/5172547.html
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韓国で50万...え????
およそ30万人を3日以内に殺した南京大虐殺...え????
2000万人ほどの中国人を殺し...え???はい、次のイルベ虫
http://www.ilbe.com/9362241587よくこんな捏造信じられるな
馬鹿を扇動するのは容易い>>9
二倍とは言わないが、普通に虐殺された場所に人が集まることはないが?
それも虐殺した日本兵が占拠する場所に>>11
ソースを頼むわインディアスの破壊についての簡潔な報告
宣教師ラス=カサスが16世紀のラテンアメリカのスペイン支配の状況を告発した書物。
ラス=カサスは1514年から66年までの間に6回にわたり大西洋を横断し、エスパニョーラ島その他の地域でインディオの置かれた状況を実際に見て、インディオの自由と生存を守るためには入植者や征服者(コンキスタドール)の残虐な征服活動をやめさせ、スペイン人入植者によるインディオ酷使システムであるエンコミエンダ制を廃止する必要を痛感した。
1541年には国王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)に謁見して、征服活動を即時中止することを訴えた。翌年末、その内容を書簡にして皇太子フェリペ(後のフェリペ2世)に報告したのがこの『インディアスの破壊についての簡潔な報告』である。
「スペイン人たちは、創造主によって前述の諸性質を授けられたこれらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日もつづいた飢えのために猛り狂った狼や虎や獅子のようにその中へ突き進んで行った。この40年の間、また、今もなお、スペイン人たちはかつて人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョーラ島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。
・・・この40年間にキリスト教徒たちの暴虐的で極悪無慙な所行のために男女、子供合わせて1200万人以上の人が残虐非道にも殺されたのはまったく確かなことである。それどころか、私は、1500万人以上のインディオが犠牲になったと言っても、真実間違いではないとう。」<同書 p.19-21>エスパニョーラ島にて
「彼らは、誰が一太刀で真二つに斬れるかとか、誰が一撃のもとに首を斬り落とせるかとか、内臓を破裂させることができるかとか言って賭をした。
彼らは母親から乳飲み子を奪い、その子の足をつかんで岩に頭を叩きつけたりした。また、ある者たちは冷酷な笑みを浮かべて、幼子を背後から川へ突き落とし、水中に落ちる音を聞いて、「さあ、泳いでみな」と叫んだ。彼らはまたそのほかの幼子を母親もろとも突き殺○たりした。
こうして彼らはその場に居合わせた人たち全員にそのような酷い仕打ちを加えた。
さらに、彼らは漸く足が地につくぐらいの大きな絞首台を作り、こともあろうに、われらが救世主と12人の使徒を称え崇めるためだと言って、13人ずつその絞首台に吊し、その下に薪をおいて火をつけた。こうして、彼らはインディオたちを生きたまま火あぶりにした。
・・・(この間、残虐な火あぶりの記述があるが省略)・・・私はこれまで述べたことをことごとく、また、そのほか数えきれないほど多くの出来事をつぶさに目撃した。
キリスト教徒たちはまるで猛り狂った獣と変わらず、人類を破滅へと追いやる人々であり、人類最大の敵であった。非道で血も涙もない人たちから逃げのびたインディオたちはみな山に籠もったり、山の奥深くへ逃げ込んだりして、身を守った。すると、キリスト教徒たちは彼らを狩り出すために猟犬を獰猛な犬に仕込んだ。犬はインディオをひとりでも見つけると、瞬く間に彼を八つ裂きにした。・・・インディオたちが数人のキリスト教徒を殺害するのは実に希有なことであったが、それは正当な理由と正義にもとづく行為であった。
しかし、キリスト教徒たちは、それを口実にして、インディオがひとりのキリスト教徒を殺○ば、その仕返しに100人のインディオを殺○べしという掟を定めた。」<同書 p.26-28>インディアン強制移住法
1830年、アメリカのジャクソン大統領の時に制定された、ミシシッピ東岸のインディアンを中西部に強制移住させる法律。
1830年、ジャクソン大統領の時に制定された法律で、アメリカ大陸の先住民であるインディアンを、ミシシッピー川以西の辺境地帯の保留地に移住させることを定めたもの。これによってインディアンのオクラホマ州を中心とした保留地への移住が強制的、合法的にすすめられた。<以下、藤永茂『アメリカ・インディアン秘史』1974 など
ミシシッピ以東の地(現在のジョージア州北西部、テネシー州、アラバマ州北部)は肥沃で、東海岸の白人がアパラチア山脈を越えて入植を進めていた。合衆国政府はたびたびインディアンと条約を結び、インディアンの居住権を保証したが、現実には守られなかった。また、インディアンに「つけ」で生活物資を買わせ、費用を払えないとその代わりに土地を取り上げるという形で実質的にインディアンを追い立てていった。しかし、インディアンの抵抗も根強く、またチェロキーのように文字を造ったり、自立の動きが出てきはじめ、政治的にも自治や独立国家の樹立さえ要求するようになってきた。
次第にアメリカ合衆国政府内にミシシッピ以東のインディアンを強制的に西部に移住させて問題を解決しようという考えが台頭し、ついに1812年の米英戦争(1812年戦争)でイギリス軍を破った英雄で、またクリーク=インディアンの掃討戦でも戦果を挙げていたジャクソンが1828年に大統領に就任して、その案が具体化した。インディアン強制移住法は1830年5月23日、下院で賛成102、反対97で成立した。それによって、ジャクソン大統領は、ミシシッピ川以東に住む、チョクトウ、クリーク、チカソー、セミノール、チェロキー(いわゆる開化5部族)、約6万人のインディアンを、必要とあらば強制手段によってミシシッピ以西の地に移住させる権限が与えられた。1836年に大統領となったヴァン=ピューレンはチェロキーに軍隊を派遣し移住を強く迫った。チェロキー側にも妥協を望む声も起こり、ついに移住を決定した。
チェロキー=インディアンの移住は1838年9月から39年3月にかけて、アメリカ東南部のジョージアから、ミシシッピを越え、西部のオクラホマまでの1300キロの距離を、1万3千人を千人ずつの13集団に分けて行われた。幌馬車が1集団あたり50台、一人に毛布1枚が支給され、途中の食糧調達用に一人あたり66ドルが当てられた。しかし、途中で彼等に食料を売りつけた白人の業者が不当に値段を上げたので、たちまち底をつき、インディアンは寒さと飢えでつぎつぎと病に罹った。80日間という移動期間が決められていたので、病人が出てもとどまることができず、うち捨てられた。この悲惨な旅路で、約4分の1が命を落としたという。ジョン=ロスの妻のクオティーも肺炎で死んだ。
チェロキー=インディアンが泣きながらたどった西への1300キロの道程を「涙の旅路」 The Trail of Tears と呼んだが、原語では Nuna-da-ut-sun'y で「そこで人びとが泣いたふみわけ道」の意味である。旅路と言っても道があったわけではなく、原野を踏み分けていったので、「涙のふみわけ道」ともいう。1839年3月、彼等は目的地オクラホマに着いた。チョクトウ=インディアンの言葉でオクラは「人々」を、ホマは「赤い」を意味する、平原インディアンが生活している場所であった。1770年、イギリス人のキャプテンクックがオーストラリア大陸に上陸して領有を宣言し、1788年より、入植が始まりました。
アメリカ合衆国のイギリスからの独立により、1788年、アメリカに代わる流刑地としてイギリス人の移民が始まりました。第1船団11艘に乗っていたのは、流刑者を含む貧困層のおよそ1,500人。男女比はおよそ8:2。
最初に被害を受けたのはアボリジニーの女性で、性欲のはけ口として強姦が行われたのです。以降も続々と本国では容れられない、ならず者たちが移民団として送り込まれ、本格的に「開拓」という名の土地の収奪、略奪、虐殺、強姦、拷問、人間狩りが始まったのです。
白人にとって、白人ではないアボリジニーの人々は、人間ではなく、野良犬や野良猫と同じであり、何ら躊躇(ちゅうちょ)することなく、スポーツ・ハンティングの対象として「アボリジニー狩り」を、楽しんだのです。
アボリジニ虐殺は20世紀の半ばまで続いた。 ニューサウスウェールズ州の図書館に残る1927年の日記には 「 週末、アボリジニ狩りに出かけた。 収穫は17匹 」 とある。(『スーチ―女史は善人か』高山正之著(新潮社)より引用)1828年には全土がイギリスの植民地となり、本格的に内陸までを探検し、農牧地を開拓するためにアボリジニーから土地を取り上げて放逐(ほうちく)、もしくは殺害を繰り返しました。
この結果、最初の移民船団が来てから100年ほど経った1901年には、アボリジニーの人口は67,000人にまで激減してしまったのです。
九州と四国を合わせた位の大きさの、きれいな海と緑豊かな大地をもつタスマニア島のアボリジニーは最もひどく、スポーツハンティングの獲物とされ、当初37,000人ほどいた島民は、レジャー気分の白人たちにより皆殺○にあい、1876年、絶滅させられました。
近年までアボリジニーは、自分たちの土地を収奪され続け、人間としての権利すら持つことが叶(かな)わず、「人間の種を与える」というキリスト教会の教えを前面に出した白人たちの野獣のごとき性欲のままに強姦された。
また「保護政策」の名のもと不毛のエリアに隔離されただけでなく、アボリジニーの文化を根絶やしにし、アボリジニーの存在自体を消滅させるために、アボリジニーの言葉をしゃべることや伝統の継承は厳しく禁じられ、「文明を与える」という大義名分のもと欧米文化を強制され、ハンティングの動物として狩られたのです。
それだけに止まらず、歴史と言葉と風習と民族を確実に消し去るため、アボリジニーの子供は強制的に親と切り離され遺棄(いき)されるなど、地獄のような逆境の中、何とか生き延びているような状態に置かれ続けたのです。>>20
当時3000万人に満たない人口だった韓国で、徴用対象年齢の男女がそんなに死んだら、出生率が激減して、今頃韓民族は滅びてるはずですが。>>1 はなぜアジアの西洋人の軍隊がいて、植民地があったのか考えたことがあるか?
西洋諸国に虐殺され植民地化せれるアジア
インドネシア人は、家畜よりひどい存在として扱われていた。
◇鞭打ち・平手打ちは当たり前だった。
◇粗相をした2人の女性を裸にして、オランダ人農場主がベルトで鞭打ち、さらに裂けた傷口や局部にトウガラシ粉をすりこんで、木の杭に縛りつけて見せしめにした。
◇刑務所で過酷な労役を課せられている囚人が、オランダ人の農場より食べ物がいいからと、出所を拒んだ。
岡倉天心…「ヨーロッパの繁栄はアジアの屈辱である」 屈辱的に人員を供出させられたり、資源を買いたたかれたりして、欧州の繁栄を下支えしているアジアの現実がある。
《松本健一 「ぼくらの『侵略』戦争」》
米国はフィリピン人に「スペインの植民地支配を終わらせる」と嘘を言ってマニラに進出し、スペインに代わって植民地にした。話が違うと抵抗するフィリピン人を米軍は徹底的に殺しまくった。米上院公聴会では、殺した島民数を20万人と報告している。
レーニン…「ヨーロッパの近代における繁栄は、植民地における豊富な資源の一方的略奪と、安価な労働力の収奪による」
太平洋には2万の島々があったが、原住民は何の防備もせず、海から侵略者が来るなど予想もせず、昔ながらに平和に暮らしていた。
ここに白人海賊たちは鉄砲と十字架を担いでやってきて、片っ端から襲いかかり殺戮と掠奪を繰り返していった。
無主物先取特権だとばかり、自分たちの土地にしてしまった。「誰も住んでいなかったので、早い者勝ちで自分のものにしたのだ。何が悪いか」という言い分である。先住民が住んでいたはずだが、彼らにしてみれば白人以外は人間ではなく、猿やけだものと等しい存在と見なして平気でいたのである。
《清水馨八郎 「大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった」》帝国主義や植民地主義には、きちんとした論理が通っている。
「お前たちは劣等な民族である。劣等な民族は自ら自分の国を治められない。そのままにしておいたら、殺し合いや伝染病がはびこり、飢餓で死ぬ人も出てくるだろう。だから、劣等な民族のために優等な民族であるイギリス人が統治してあげる」
1900年の時点のイギリスは、天才も秀才もたくさんいたし、人格者も聖職者もたくさんいたはずである。しかし、論理というものがきちんと通っていれば、後に振り返っていかに非道に思えることでも、なぜか人間はそれを受け入れてしまうのである。
●帝国主義が「本当にいけないこと」として認知されたのは、第二次大戦が終わってからに過ぎない。それでも往生際悪くイギリスやフランスは、第二次大戦後もしばらく、何とか植民地を維持しようと無駄な努力を重ねた。西欧諸国がつくりあげた「植民地」とは、白人が主人で、ほかの人たちは奴隷に準ずる存在と考えればいいだろう。
ベトナムなどは植民地統治の結果、固有の文字がなくなって全部ローマ字になっている。
オランダのインドネシアに行った植民地政策は、愚民政策・貧民政策だった。そのため貧困にあえぐインドネシア人の平均寿命は、35才にまで低下したといわれる。朝鮮人および韓国人が一番惨たらしく大量に虐殺し、またされた民族だと思います!
>>5
軍人じゃなくてただの船乗りインドは昔から木綿産業が盛んだったが、産業革命が起きると、イギリスのマンチェスターから木綿が圧倒的に安い値段で入ってくるようになった。
インドで木綿を作って生活している何百万人という人たちが、これにより生活できなくなった。
普通の独立国だったら、国は農民を保護するために輸入制限をしたり、関税をかけなければならない。しかし、輸入を拒否したくてもできないのが植民地だ。
その上、イギリス政府は木綿を作りにくくするために、木綿の作り手たちを何万人も集めて、その手首を切り落とした!インドの木綿工はそのまま仕事がなくなって、餓死してしまった。ベンガルからインド洋まで、何百万人という白骨が並んだと伝えられている。日本もローマ字だけにされそうになったけど、民度の高さで独自文化を守り抜いた
植民地時代のインドネシア原住民とオランダ人の所得比は、1:13,000 だった。
そうやってオランダの隷属下に置かれていた。
英国は米国を犯罪者の流刑地にしていたが、その米国が勝手に独立したので、今度はオーストラリアを犯罪者の流刑地にした。
住んでみると気候がいい、地味もいい。それで普通の市民も移住していった。
もっとも市民といっても多くは食い詰め者・厄介者で、これがオーストラリアを1世紀にわたって血まみれの地獄に変えた。
600万人いたアボリジニは、今30万人が生き残る。ナチスのホロコーストを凌ぐ大虐殺を行った結果だ。
(50万人が住むタスマニア島では、その殆どが崖から突き落とされ、銃で撃たれて殺された)>>27
愚民だな植民地時代の、まだ電気による扇風機のない時代のイギリス人は、寝室の天上に取り付けた巨大な団扇を室外から紐を引いて作動させるようにして、原住民の少年に終夜団扇を動かさせたという。
シンガポールでは、イギリス人の女性は夜になると涼をとるために、人力車を雇い現地人に何時間でも引かせた。
オランダの植民地支配の残酷さ…
◇蚊に刺されて化膿し、血や膿を全身に流して働く現地人に、薬ひとつ与えなかった。
◇性病が蔓延して、街ゆく男たちの鼻骨が露出しているのは珍しくなかったが、衛生教育ひとつ行わなかった。(オランダ人だけは完璧に衛生的な環境で生活していた)
そのためであろう。
日本軍が入ってきたときには、地鳴りがするような歓迎のどよめきが湧き起こったと言う。仏印では、税が払えないと政治犯として監獄に放り込まれた。
鎖でつながれた囚人には、老人や子供が多かった。
働きの悪い者は処分しちまえというフランス人の思いが覗いて見える。
獄死すれば葬式税も取れる。
だからフランスは都市の数ほど監獄をつくり、それでも足りないからとサイゴン南の島コンダオに4つの監獄と拷問棟「虎の檻」を建てた。
ここには屋根がなく、鉄格子越しに生石灰と水を素っ裸の囚人の上に撒いた。
囚人はやけどを負い、さらに熱帯の太陽に焙られた。タスマニアには旧石器時代のような生活を送っていた原住民がいて、ブーメランという唯一の武器(弓や矢を知らない)を使って鳥や獣を捕っていた。
このタスマニアの住民こそ、オーストラリア移民史における最大の「悲劇の民」であった。
すなわち、白人の手によって「黒人狩り」が行われ、タスマニア原住民は根絶させられた。
その状況が『豪洲聯邦』(昭和17年9月刊行 宮田峯一著 紘文社→焚書)に残っている…
◇イギリス移民が大挙して原住民の居所を襲い、放火して付近一帯の土地まで焼き払い、そこに本国から持参した穀類の種子を蒔いたようなことは枚挙に暇がないほどであった。
◇数十名の原住民をカヌーに乗せて、沖の方へ漕ぎ出させた後、海岸から一斉射撃を浴びせて、あたかも鳥獣を殺○ようにして殺戮したりした。
◇原住民を使嗾(そそのかして)して仲間同志の闘争を惹き起こさせ、彼らの絶滅を図った。
◇原住民が夜中沐浴している時や、野営の篝火を囲んで楽しく団欒している時、突然襲撃して、全団を皆殺○にするような行為もしばしばあった。
◇負傷者は脳を打ち砕かれ、赤子は火中に投ぜられ、まだぴくぴく動いている肉には銃剣が情け容赦もなく突き込まれ、原住民がその周囲で安眠するために取り囲んでいた篝火は、夜明け前に、彼等を焼く火葬の火となった。
西尾幹二 「GHQ焚書図書開封」蘭領インドシナの悪名高い「強制栽培制度」=1830年に開始されたもので、植民地政府が現地農民にコーヒーや砂糖きび、藍、煙草、胡椒などを強制的に栽培させ、オランダはこれらの熱帯作物を大量にヨーロッパへ輸出して、莫大な富を築いた。
藍や砂糖は水田で栽培されたから、当然米の生産は減り、農民は困窮していくことになる。핵을 맞고 항복하지 않아야 아시아의 자존심을 지킬 수 있었다. 일본인이 전멸 할때까지 포기하지 않고 싸워야 일본인이 자랑하는 무사도를 보여 줄 수 있었다.
太平洋戦争でフィリピンでは200万人死んだといわれている。
しかし、そのほとんどはアメリカ軍の爆撃で死んでいるのであって、日本兵に殺されたというのは少ない。
それも日本兵が殺したのは、一般人ではなく、戦闘でフィリピン兵を殺しただけである。
ひどいのは、アメリカ軍は自分たちより先にフィリピン兵を出して日本軍と闘わせ、そのフィリピン兵が全滅した後やっと自分たちが出ていった。
フィリピンの歴史学者は、そういうことを知っている。
でも、日本兵が虐殺したと文句を言えば、日本政府は賠償だとしてカネを出してくれたので、
日本のせいにしておいた方が都合がよかったのである。その方がアメリカも喜んでくれる。カール・マルクスには、イギリスのインド植民地化を論じた
『イギリスのインド支配の将来の結果』という小論がある。
(大月書店『マルクス・エンゲルス全集』第9巻所収)
そこでマルクスはこう言っている。
「問題は、イギリス人がインドを征服する権利があったかどうかにあるのではなく、インドがイギリス人に征服されるよりも、トルコ人、ペルシア人、ロシア人に征服されたほうがましかどうかにある。イギリスは、インドで二重の使命を果たさなければならない。一つは破壊の使命であり、一つは再生の使命である。古いアジア主義を滅ぼすことと、西欧的社会の物質的基礎をアジアにすえることである」。
要するに、マルクスは、インドが近代化されるにはイギリスによって植民地にされるよりしかたがないと言っているのだ。
どうせインドはトルコかペルシアかロシアによって植民地にされるだろうから、それならイギリスによって植民地化された方がましだ。
イギリス人にインドを支配する権利があるかどうかは問題ではないのだ、と。
マルクスのこの冷酷なまでのリアリズムに西洋人の傲慢を見た。
呉智英「健全なる精神」>>38
そもそも南京市街戦に伴う民間人被害を事件とか虐殺とか言ってる時点で不条理。
ベルリンでも15万人、レニングラードに至っては65万人死んでるのにね。
ベトナム戦争もベトナム大虐殺とか名前を変えるならまだしも。フランスが植民地にしたベトナムでは、「住民には人頭税のほか結婚税も取った」・「重税に抗議するデモには、仏戦闘機が容赦なく機銃掃射を浴びせた。死んだ者を弔うと徴税吏が飛んできて、葬式税を取り立てた」(A・ビオリス「インドシナSOS」から)
サマール島の民が米兵を殺○と、「報復にその島と隣のレイテ島の住民全てを殺した」
「3年かけて20万人を殺した頃、やっと島民の抵抗がやんだ」(米上院公聴会の証言)>>40
関係ないんですよ
韓国はただ日本を貶めたいだけ
そこに事実だろうが嘘だろうが関係がない
ただただ下衆な民族というだけ帝国主義時代のイギリスは、アジア・アフリカ諸国の人々を劣等人種と見なしていた。
だから、自由・民主主義・市場経済・法の支配などの西欧的価値観を植民地に輸出しようとは考えなかった。
アーネスト・ゲルナー「民族とナショナリズム」
「第一次世界大戦後、イギリスの委任統治領となっていたイラク国家は、襲撃者たちが遠征の前と後とに最も近い駐在所に報告し、殺人と略奪とのきちんとした官僚的な記録を義務として残すという条件の下に、部族による襲撃を大目にみていた」
→しかし、日本はイギリスのような二重基準を採らなかった。沖縄戦でアメリカ軍は黒人を先頭に立てた。イギリスはネパールのグルカ兵を使った。
他の連合軍も植民地の人たちを防壁に使った。
英仏の植民地統治は間接統治で、その点では手馴れていた。例えばベトナムやカンボジアはフランスの統治した国。しかしフランスとは敵対関係にない。かつてミッテラン大統領が訪問すると、両国とも大歓迎をした。かつてかなり搾取されていただろうにと不思議で、現地に行った時いろいろ聞いてみた。
そうすると、英がインドを、仏がインドシナを統治した際に直接統治はしなかった。これが日本との決定的な違いである。農場などはプランテーションを作って、宗主国側の管理者は別荘みたいな所で優雅に暮らすが、直接的に民衆を支配する警察官や徴税吏は他国の人を使う。自分たちに反感の矢が向かないためのテクニックである。「米西戦争でたくさんのフィリピン人が殺されたんです。フィリピンは白色人種によって全てを奪われたんですよ。
スペインが去った後、アメリカはフィリピンに英語を強要し、アメリカの植民地にしてゆきました」
フィリピン人通訳のマリオ・ピネダ氏は、フィリピン人は白人国家間の覇権争いの犠牲者だとして続けた。
「アメリカは、アジアにおける唯一の植民地フィリピンを徹底的に弾圧しました。アメリカの国旗に頭を下げない人々は皆グアム島に送られたんですよ。グアム島の人口の30%がフィリピン系である理由にはこうした歴史的背景があります」
「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本の“教育”の成果です。ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、人々は鉛筆すら作ることができなかったんですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」
そしてピネダ氏は、「フィリピンはいまでもアメリカのパペットレジーン(操り人形)ですよ」と呟き、苦笑いを浮かべるのだった。ビルマは19世紀に三度にわたってイギリスに侵攻され、1886年に英領インドの一州として植民地にされた。ビルマ国王夫妻は、これも英領スリランカに流され、その地で死亡する。
王子は処刑され、王女はなんとイギリス軍の士官の従卒に与えられてしまう。韓国併合時代、列強はどんなことをしていたか…
◇イギリス…オーストラリアのタスマニア人(3千人以上)を皆殺○にしている。
◇ドイツ …ユダヤ人のジェノサイドを試みる。
◇アメリカ…奴隷の売買をしたり、買ってきた奴隷と白人とを結ばせ、子供を産ませて大儲けしたりしていた。(奴隷牧場)
これらに対して日本は、35年の朝鮮統治を通じて、民衆を獣以下の扱いにしたことは一度もない。アイルランドの受難史は、語って語り尽くせない。イギリスの不当な支配は12世紀に始まる。エリザベス女王(一世)はイギリス貴族を入植させた。
イギリスの歴史教科書では大英雄とされるクロムウェルは、アイルランドを攻めて数千人を虐殺した。宗教・政治・経済、あらゆる面でイギリス人はアイルランド人を掠奪し搾取した。
1801年、イギリスに合併された後に起った1845~49年のジャガイモ飢饉。数十万が餓死したが、イギリス地主は平然と小作料を取り立て続けた。死ななかった者は新大陸に棄民された。
後年、皮肉にもその人々が、テロによりイギリス支配に抵抗するIRAの強力な後援者になった。アメリカ建国の歴史?
ヨーロッパの宗教戦争や国内の政治紛争のため、ヨーロッパに、はじめのうちは特にイギリスに住みにくくなった人たちが(悪く言えばイギリスで食い詰めた連中が)、インディアンが住んでいるところに勝手に侵入してきた。
はじめ少人数の頃は、仲良くやろうという態度で接していたが、どんどん入植する白人が増えてくると、鉄砲で脅したり、ウィスキーで酔わせたりして片っ端からインディアンの土地を奪っていった。反抗する部族があれば、これ幸いと大虐殺を繰り返した。そしてバッファローなどインディアンの生活基盤となる動物を殆ど絶滅させ、インディアン自体を無力にした。
広い土地の農業に手が足りないと、アフリカから大量の黒人を奴隷として輸入し、その貿易によってボストンは繁栄し、またその奴隷を使って南部は豊かになった。
イギリスに防衛を任せながらも、税金を払いたくなくて戦争になったが、イギリスと敵対していたフランスが助けてくれたので勝つことができた。
独立宣言文は、巨大な嘘と偽善の文書である。後にテキサス問題を悪用してメキシコシティを軍事占領し、テキサスを自国に編入し、アリゾナ・ニューメキシコ・カリフォルニアなどのメキシコ領を安く売らせて自国のものにした。
太平洋ではハワイ王朝を滅ぼし、フィリピンを植民地とした。そもそも、満洲事変の起きた1931年は、フランスでも植民地帝国主義が爛熟を極めたとも言える年であった。パリではこの年、「国際植民地博覧会」なる一大イベントが大々的に開催された。
これは、それまでの1世紀にわたるフランスの植民地事業を総括し、フランスと植民地が不可分であることを国の内外にアピールするのを目的とした「フランス植民地帝国主義の集大成」といった趣をなすものであった。
会場にはアンコールワットをはじめ、各植民地の著名な建造物の巨大な複製品が築かれていた。
さらに、各植民地から動員された現地住民は見世物同然に来場者の目に晒されるように配置され、民族に優劣の序列をつけるようなパネルも展示されていた。英国の植民地政策は狡猾を極めた。
まずインド農村の税制を強化、生活難におとしいれ、次にマラヤ、ビルマ(現ミャンマー)など周辺地のゴム園、茶園の賃金水準をインドの3倍以上に設定、インド人が海外出稼ぎに出ざるを得ないように仕向けるのである。
この政策実現により各地の商品作物の栽培は急増、英国の貿易輸出額の3分の1を占めるに至るのである。日帝が両班階級による横暴を取り締まったので、民衆の生活は楽になりました。民衆の側から見れば、李朝時代よりも日本統治時代のほうが、生活があらゆる面でよくなったから、対日感情は決して悪いものではなかったんです。
だから、独立運動が広範な支持を受けることがなかった」とは、ある韓国人の証言。
朴泰赫 加瀬英明「醜い韓国人(歴史検証編)実際に統治下にあった朝鮮人民は、どのように感じていたのだろうか?
韓国研究者のヒルデ・カンは、アメリカ在住の韓国系住民51名に日本統治下に関する聞き取り調査を行った。(2001年)
彼女の調査には「日本人が朝鮮人民に対して親切であったり、尊敬の態度を取ったりした」という証言や、「朝鮮人官僚が日本人の同僚と同じ給料、平等の待遇を得て、昇進の可能性もあった」といった証言を読むことが出来る。日本側の「傲慢さ」や「野蛮な行為」についての証言はあったものの、「非人道的行為」の存在を主張したものはいなかったのである。
その一方、刑務所で朝鮮人の職員に拷問にかけられた体験を語る者もいれば、「朝鮮の人々の土地を奪ったのは、他の朝鮮人などであった」という指摘も見られた。日本時代、朝鮮では3・1独立運動(1919年)と光州学生運動(1929年)以外には、これといった反日騒擾がおきたことはない。
3・1運動をみても、今日教科書では当時の日本軍の鎮圧ぶりを誇張している面がある。全国規模のデモは発生したが、日本の警察は運動に加わったという理由では1人も逮捕しなかったし、暴動を主導した人々に対しても、大半は訓戒と軽い罰金刑ですませた。日本は統治後しばらくして、初期の武断統治的な姿勢を根本的に改めた。
そして事実、生活の蹂躙に至るような統治をしないことを一貫させ、法治主義に徹していった。
過酷な統治を布いたのは日本ではなく、日本統治以前の李朝政権であり、戦後の金日成政権や李承晩政権だった。
日本統治はそれらとはおよそ比較にならない善政だったし、人々はそれらの時代とは比較にならない平和で豊かな一時代を過ごした。朝鮮総督府の武断政治は、大韓帝国の皇帝や両班(官吏)による政治ほど『武断』ではなく、憲兵警察との二本立ての制度がフランスと同じで、主な目的は朝鮮人警察に対する汚職防止と治安維持だった。併合初期の治安維持には大きな貢献をしている。たとえば1908年10月から翌年の初年度に発生した傷害事件は780回、延べ34,400人にのぼったが、5年後には5回、延べ
45人にまで減少したのである。吉野作造が日本に感謝していた朝鮮人本人から聞いた発言…「自分の父祖の代までは、其蓄積せる多額の財産に眼をつけられて、故なくして府の長官から捕縛せられ其度毎に多額の身代金を取られたものだが、斯くの如き不当の侵害は今日なくなった。是れ全く日本の統治以来のことだ」
当時の日本では、朝鮮の男性に嫁いだ日本女性には表彰状まで与えられた。朝鮮と日本の血を混ぜて、一体化をはかるべく「内鮮結婚」を大いに奨励した。
日本軍に志願して採用された時、小躍りして喜び、「家族は赤飯を炊いて祝ってくれた」と回想した韓国人もいた。朝鮮半島が日本統治だった当時は、「日本人・朝鮮人」などと言おうものなら、彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である。 《小野田寛郎 正論2005/1月号》
石橋湛山が調べたところ、日本国民1人当たりの国家予算の支出は10円54銭であり、植民地住民1人当たりのそれは9円46銭で、殆ど差がなかった。(大正時代)
それに対し植民地から得られる収益は、支出をはるかに下回った。つまり日本は、台湾や朝鮮から経済的利益を得ていたとはいえない。大東亜戦争では、多くの台湾人・朝鮮人が志願兵となった。1938年の初めての朝鮮での募集では約8倍に、1943年には約60倍に達した。強制だったというが、全てがそうとは考えられない。朝鮮出身の金錫源は少佐で、日本兵を率いて中国北部で戦った。
(朝鮮人の最高位は洪思翊中将)
朝鮮・台湾人の青年の中にも「日本人として認められたい」と考えて志願した人が多くいた。
朝鮮・台湾では、現地住民は総督府レベルの政治には参加できなかった。しかし国政レベルでは、内地在住の朝鮮人・台湾人には選挙権・被選挙権とも認められていた。
(東京から朴春琴が2回衆議院に当選)
逆に朝鮮・台湾に在住する内地人には選挙権がなかった。韓国人でも軍隊内で昇進できた。(洪中将・朴元大統領は関東軍の中尉、など)
このことは世界的に見れば極めて異例。
例えばイギリス軍ではインド人がイギリス人に命令を下すことはなかったし、アメリカ軍でも有色人種は白人に命令できなかった。ところが日本軍ではコリア人であろうが台湾人であろうが、将校になれば兵隊はその上官の命令に従わなければならない。日韓は連合国家であり、そうなった場合どちらかがリーダーシップをとらなければならない。
この時は、大きい方が強い方がとることは世の常。
日本の植民地はきわめて政治目的で(防衛目的)、基本的に儲けるためにやってないし儲かる構造にもなっていない。
当時の朝鮮の労働者は、どのような立場に置かれていたか。ホワード大学教授であるスン・ウォン・パーク(韓国系)は、朝鮮の労働者が総督府の統治政策に一定の支持を与えていたと指摘している。
植民地時代、朝鮮の労働者に起きた重要な変化は、「努力による昇進」が可能になったことだとパークは論じる。それによって自主性を持ち、自ら責任を負う「熟練工」が生まれ、貴重な人的資産となったのである。
…朝鮮人民は単なる「無言」で「受け身」で「無力」な被害者ではなかったし、総督府の政策も必ずしも独裁的・専制的なものではなく、それどころか「合理的」であったとパークは論じる。戦時中の「朝鮮人民志願制度」に関する最新の研究成果である、ブランドン・パルマー(ハワイ大学)の「日本の戦争による朝鮮人動員1937-1945」(05年)の中で、彼は「もし日本人が朝鮮人民を抑圧していたのが事実ならば、なぜ、彼らに兵士として銃を与えることが可能だったのか」と問うた。
パルマーは、朝鮮出身の将校の指揮の下に日本人の兵士が置かれたことに注目する。たしかにインド人指揮官が英国兵を指揮したり、インドネシア人指揮官がオランダ兵に命令を下すといった図式は考えられないだろう。第二次大戦後、エコノミストが日本の朝鮮支配を決算してみたら、日本側の大幅な赤字だった。(欧米が植民地から大量の富を収奪したのとは大違い)
日本は、朝鮮を植民地ではなく、拡大された日本の一部と考えていたから、莫大な投資を惜しまなかった。 金完燮 「親日派のための弁明」
朝鮮人の朴春琴は、1932年の衆院選挙に立候補して当選している。
(日本風の名前を名乗らずに)
原則的には日本国民として選挙権も被選挙権さえも持っていた。韓国の教科書では、ひどい弾圧を受けている民衆がそれに屈することなく勇敢に闘った、戦後の解放を勝ち取るまでの間、いかに徹底して植民地政策に対する自主救国運動を展開し続けたか、というように激しい抵抗と闘争によって韓国人は頑張ってきたと書かれている。
もしそれだけの激しい闘争があったのならば、韓国全土には常時強力な軍事支配が布かれていなければならないはずだ。しかしそんな事実は全くなかった。大多数の人々がとりたてて抵抗をすることなく、比較的よく統治の秩序に従ったのが事実である。
そして日米開戦となり朝鮮半島にも危機が訪れたことによって、家族や郷土の生活を守るために日本人と同じように日本の戦時政策に協力していった。 呉善花 正論2002/2月号帝国主義全盛時代に列強各国が植民地に建設した鉄道は、多くの場合、生産地での収穫を港湾から本国もしくは輸出先へ運び出すことのみを目的としていた。専ら資源収奪の機能を担うことから、宗主国が鉄道を現地に根ざした交通ネットワークとして位置づけることは稀であった。
経営史の観点から日本統治下の植民地鉄道を考察した高橋泰隆著「日本植民地鉄道史論」
(平成7年・日本経済評論社)は、朝鮮の鉄道が基本的に産業鉄道であり、「『旅客収入』型であり、経営不振が特徴」であることを指摘している。
これは、旅客輸送が過密だったのではなく、貨物輸送が相対的に少なかったことによるものだが、
旅客収入が多く貨物輸送が不振という性格は、資源収奪型の典型的植民地鉄道とは矛盾するものである。こうした鉄道が、仮に当時の朝鮮人にとって「何の役にも立たなかった」のであれば、日本統治終了後に直ちに放棄・廃止されてもおかしくない。だが、実際には終戦後も大半が運行を続けている。現在、韓国・北朝鮮の双方にある合計約8千キロの鉄道のうち、日本時代の開通路線は全体の約7割を占め、今も国内交通の重要なネットワークとして機能している。
インド独立の父と称されるガンジーが、南アフリカを訪れた時のこと。彼は一等車の切符を持っていたにもかかわらず、鉄道員から貨車へ移るよう迫られ、拒絶すると巡査によって荷物もろとも車外へ無理やり放り出されたという。
欧米列強の植民地において、鉄道の利用においても被支配階級が差別を受けることが世界的に珍しくなかった当時、朝鮮の鉄道では利用上の民族差別は存在しなかった。
朝鮮総督府鉄道局発行の「朝鮮旅行案内記」(昭和9年)に掲載された、特急「ひかり」最後尾の展望デッキに白いチョゴリの女性が立つ宣伝写真は、朝鮮人も一等に乗車できることが当然の前提であることを物語る。庶民レベルにおいても旅客の中心は圧倒的に朝鮮人であり、旅客サービスもこれに対応できる体制だった。朝鮮語で切符を買うことができ、駅名票から弁当の包み紙に至るまで、漢字を中心にしつつ平仮名とハングルが併記された。
駅名が漢字の日本語読みを基本とする点に批判的な見解もあるが、日本の統治下である以上、筆頭公用語である日本語が基本となるのは当然だし、意味が諒解される限りどう読もうが勝手というのが、東アジア文化圏における共通語としての漢字の本質である。朝鮮人が漢字を充分に解した当時、漢字中心の表記は日本人と朝鮮人の共通語を用いた必要充分の方法と言える。
>>68 >>69 >>70 小牟田哲彦 「韓国・北朝鮮の嘘を見破る」日本の統治は女性も解放した。
例えば、朝鮮では夫が死んでも女性は再婚できず、
その後に出来た子供を殺○嬰児殺しが絶えなかった。
夫に死なれた女性が再婚できるようにしたのも、朝鮮総督府だった。引退して間もない頃、韓国・ソウル郊外の山里で、サムゲタン(参鶏湯)を食べるテレビのロケがあった。出迎えてくれた老母は感激して、初対面の私を抱きしめてくれた。
「あなたたちは私の息子だ。よく来てくれた」と流暢な日本語で話し、「故郷」や「旅愁」などの唱歌を何曲も口ずさんでくれる。
聞くと、日本統治時代に本土からやってきた校長に習ったという。
「素晴らしい先生で恩を感じているのです」という。
韓国の田舎で、日本人と韓国人との間に生まれた縁に心が温まった。
ところが、テレビ局のディレクターは「すみません、日本語で話さないでください」という。
理由は「日本が植民地化していた当時を視聴者に思い起こさせてしまうから」らしい。
何とあさましい了見か。ありのままの姿を伝えるべき、と思った私はその場をこらえて、打ち上げの席で猛抗議し、楽しい夕食の場を台無しにしてしまった。
舞の海秀平 産経新聞2014/9/25●華僑について
◇海外華僑は福建人が嚆矢となった。客家人が多いのも歴代王朝の栄枯盛衰が激しく、追いつめられた”中国版・平家の落人”たちが、主として福建から海外へ逃れたからだ。やむを得ず故国を離れた人々である。
◇第二波の海外流出は広東人。阿片戦争の前後に奴隷のごとく米国に売られた苦力の子孫である。東南アジアで日本は、民をやっつけに行ったのではなく、そこに居座る宗主国をやっつけたのだ。確かにその地の華僑は反発したが、それは東南アジアの民ではなく、植民地に寄生し宗主国の手足になって搾取のおこぼれを吸っていた連中だ。彼らは利権を守るために、宗主国とともに日本と闘った敵の一員だった。 (現実に今もシンガポールにその華僑がいる)
高山正之 正論「東南アジアの反日感情」と言うのは、植民地支配下でアングロサクソン側について利益を得ていた「華僑」である。自分たちの利益が失われるもんだから、日本に対して猛烈に反発しゲリラになって戦った。(東南アジアでは、華僑と現地人では日本に対する感情が全然違う)
華僑は、フランス植民地のベトナムで10歳の子供からも人頭税を取り立て、さらには阿片公社も運営して仏印経済を掌握した。マレーやビルマでも阿片売買で儲け、英国人に並んでゴム園のオーナーに納まる富豪もでてきた。表向きは独立国だったタイも内情は同じで、英国の影響下で華僑がその経済実権を握っていた。
インドネシアも、実は華僑が深く絡んでいる。オランダが植民地化すると同時に入り込んだ華僑は、ベトナムやミャンマーと同じようにオランダ人のよき下僕として仕えながら、経済実権を握ってきた。
戦後オランダが追われた後も、よその東南アジア諸国と同じに華僑たちは居座り、同じように追放や焼き打ちに遭いながらも彼らは生き残った。
それどころか、彼らは植民地時代と同じ地位を確保したどころか、よその国々には見られないパターンとなる。彼らが新しい”宗主国”に祭り上げたのがスハルト・ファミリーで、ワナンディ兄弟とかリム・スイリョンとかの華僑グループがそれを支えるという構図だ。
インドネシアは時を経てオランダからの独立戦争を始める時期と同じ形に戻されたともいえる。
高山正之 「世界は腹黒い」日本軍がシンガポールに迫ってきた時、マレー半島とシンガポールの華僑は義勇軍を組織して立ち上がったが、たちまち粉砕された。その蹴散らされた華僑たちは、一般市民の中に逃げ込んでしまった。
英軍を打ち破ってシンガポールに入城・占領した日本軍は、市民の中に紛れ込んだ華僑義勇軍のゲリラに悩まされることになった。(市民だと思って油断していると後ろからズドン!とやられたり、いたるところに罠や爆弾を仕掛けた)そこでゲリラらしき者は全て捕らえることになったが、この時抵抗した者や怪しい動きの者はその場で殺した。
これは合法である。ハーグの陸戦規定では、交戦者は…
①遠くからでも識別できる軍装をしていること。
②武器は外から見えるように持っていること。
③どんな集団にも責任ある隊長がいること。
…と定められている。この条件を満たさない者は、種々の権利を有する捕虜になる資格がない。ということは山賊・野盗と見なすしかないわけだから(正規軍の兵でないのに武器を隠し持っている者)、これは見つけ次第殺してもかまわないという国際的合意がなされている。マレーシアやシンガポールでは、「日本軍に虐殺された中国系市民」と言われているが、彼らは決して市民ではない。そればかりか、ゲリラとなってその付近一帯の市民の生命を危機にさらした。(どうしてもゲリラに間違われる市民もいるため)
レーシアやシンガポールの華僑の一部のやったことは、イギリスの裁判官でさえ死刑が当然であると見なした行為だった。
(日本軍が行った華僑の死刑に対して、その判事だった日本の日下判事は無罪となった)
渡部昇一 「渡部昇一の「国益原論」入門」太平洋戦争開戦時、シンガポールを含むマレー半島の華僑の子弟の70%は、共産党員だった。
現在もASEANの華僑は、北京とワシントンの対日動向に敏感だし、日本資本が自分たちの得意とする農業や流通の分野に入ってくることに、本能的に反発する。つまりこれまでのように、現地人から甘い汁を自由に吸われなくなることを恐れるわけだ。むしろ日本資本と組むよりは、アメリカ資本と提携したほうがいいと考える。
(昔、宗主国資本と組んで、現地人から「安全に」搾取したことが忘れられないのだろう)
立以前は、自分たちの稼ぎに対する現地人の反感も、現在のように焼き討ちや略奪などに発展しなかった。植民地官憲は、そのような民衆サイドの反抗を徹底的に抑圧してくれたが、占領時代の日本軍はむしろ現地人サイドに立ったから、日本は華僑に逆恨みされてしまった。最近ASEANでも日本の「侵略性」の声が大きくなってきた理由
①独立戦争を戦った親日的世代が少なくなってきた。
②欧米留学組のエリートが台頭。政治・経済・文化など各方面の指導的地位に立った。
③植民地時代を知らない国民の間に、国家的・民族的アイデンティティーの要求が高まってきた。(独立戦争における旧日本兵の協力の否定)
④そこに太平洋戦争を侵略とする、共産党的ないし欧米的定義が浸透する基盤となった。
⑤華僑資本が握っているマスコミの影響。シンガポールは過半数が中国人の国である。マレーシアは国民の3割が中国人である。
東南アジアは、タイを除いて17~19世紀まで次々と西洋の植民地にされてきた。
これによってそれまで海のシルクロードを握っていたイスラム商人やインド商人が後退し、それに代わって中国大陸の東南沿岸から流れ着いた華僑労働者たちが、湾岸都市を掌握しはじめた。そして次第に経済力をつけ、東南アジアにおける列強の番頭を任されるようになった。
(華僑は商売が精神的な拠り所だった)
華僑は現地人と違い、稼いだ利益は殆ど地元に還元しない。死んだ親類縁者を祀る殿堂の建設費用に回し、貧しい現地人をよそに、誰も住まない殿堂に冷房まで完備するようなところがあった。また、決して地域に溶け込もうとしなかった。
19世紀、華僑は列強と手を結び、現地人を搾取し始めた。現地民の華僑排斥運動は、そのまま独立運動へと変化した。この構図が再び逆転したのは、戦後になって東南アジアが解放され独立した後だった。
黄文雄 「「龍」を気取る中国「虎」の威を借る韓国」ベトナムでフランス人の手先になって搾取をほしいままにした華僑をベトナム人は憎み、南北ベトナムが統一された後、ベトナム政府が最初にやったのが中国人の追放だった。世にボートピープルと呼ばれる難民の大部分は、その中国人だったのだ。
この処置に登小平の中国が怒ってベトナム懲罰のために軍事攻勢をかけた。79年のいわゆる中越戦争だ。しかし逆にひどい大敗を喫する。
《高山正之 「歪曲報道」他の著書「変見自在マッカーサーは慰安婦がお好き」》アジア各国のマスコミは、ほぼ華僑の手中にある。華僑は北京の指令を受けずとも商売敵として日本企業排斥だから、「反日」を連日のように繰り返す。72年からタイとインドネシアを襲った反日暴動も、追跡調査の結果、地元の華僑が軍資金を出して「反日」を煽り、実際には「反華僑」運動をすり替えていた経過が判明している。
《宮崎正弘 「崩壊する中国 逃げ遅れる日本》」》インドネシアはもともと親日的な国だ。かつて田中角栄訪問時に反日暴動が組織されたが、それは背後で華僑が画策していたからである。日頃から現地で恨まれる華僑は憎しみの対象をすり替えようとしたのだ。
現在、1,400万人もの人口を抱えるジャカルタで、「たぶん200万人は華僑でしょう」とタクシーの運転手が答えた。それほど多数の華僑がインドネシア経済の金融、通信、運輸などビジネスの根幹を抑えている。華僑も三世、四世となっており、「華人」と呼んだほうが良い。人民日報には英語版、日本語版のほか各国語のバージョンをネット配信している。スワヒリ語版まである。それだけでも大変な影響力だが、じつはもっと大きな広がりがある。
東南アジアのチャイナタウンで発行されている華字紙に露骨に影響力が浸透しているのだ。
そしてこれらのメディアは、世界各国に散った華僑と華人ならびに新移民、留学生など合計3千万人に、甚大かつ深刻な影響力を及ぼしている。
例を挙げよう。南沙、西沙群島を軍事占拠してフィリピン、ベトナム、インドネシアなどと対峙し、日本の尖閣諸島を突如「あれは中国の核心的利益」と言い出した覇権主義に各国が反発を強めているのに、人民日報は「関係国は挑発を止めろ」とあべこべの論陣を張る。中国共産党のプロパガンダである。
ところが、この身勝手な言い分もアジアの華字紙からニューヨークで発行されている共産党寄りの華字紙、それを通してニューヨーク・タイムズなどにも反映される。害毒は計り知れないのだ。 宮崎正弘 正論2013/9月号あらら、韓国人が居なくなっちゃったねぇ〜
>>63
わかりました。>>66
失礼、アンカー間違え。わかりました。韓国人を5000万人ぶっ転ばせば1番になれるかな?
世界平和に貢献できるかな?>>1
多くの自国民を殺した政府なら、韓国と北朝鮮で5位以内に入りそう。
ところで、韓国人は近代の自国の歴史をちゃんと習ってるの?>>1
アメリカがないのも解せないな。
世界各国に爆弾を落とした国だぜ?韓国人が一番幸せだった時代は、併合時代なんだよね
なんでもいたれりつくせりで、最終局面以外は戦争に駆り出されることもなかった
やることはお勉強と趣味を持ち、文化を育て、自国を自分で運営できるように賢くなることだけだった
つまりそんな簡単なことも韓国人にはできなかったんだなぁ朝鮮戦争で400万人が死んでるし、朝鮮はトップ5に余裕で入りそうだが?
しかも無抵抗の一般自国民を大量虐殺してるし。
現実に残虐なのはどこの国でしょうかねぇwww>>1
まだ、貼られていないようなので。ご参考までに。朝鮮人は今、世界各国に喧嘩を売ってる国
弱い犬ほどよく吠える・・・
虎の威を借る狐
日本は自分は猫だと思っている虎米軍が殺した日本人の数も
なぜか、日本の殺害としてカウントされている件>>1モンゴルは日本と比べ物にならないくらい殺してるよ。
>>100
自国民100万人虐殺
これからまだ増えるかもねまた
ザイニチの掘り返し>>100
お前らの先祖が、無能で腰抜けだったから、国を守れなかった
これが理由だよまた
ザイニチの掘り返しそんなに命を奪う能力があるのなら、そもそも戦争に負けるわけないのだがな。
こんな矛盾にも気が付かない阿呆なのだろうな。- 106
名無し2021/08/28(Sat) 12:48:20(1/1)
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>>108
朝鮮人は 対馬の人を 干し肉にして 食べていただろ
少なくとも ランキングの モンゴル 日本 中国には 朝鮮人が 含まれるよな
ベトナム戦争に 朝鮮戦争と 本当のトップは 朝鮮人だったりしてwww>>100
自国民虐殺軍隊は韓国だけ>>111
自己紹介乙。ww>>111
中国人の家畜になって人間を辞めた朝鮮人がそんなことを言っても、説得力皆無だよ。>>111
韓国人に 同調する国は無いけどな
現実は
世界一の 嫌われ者の 韓国人www>>111
朝鮮人に言われるとは(笑)このスレ
在日が必死に掘り返してるwwww>>111
次の自国民虐殺軍はいつ出るのかな?
인류 역사상 가장 많은 사람을 죽인 나라 top6
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