よく、日本側でも任那の日本府云々、韓国側でも百済が日本に云々と話がありますが、行政区分としての国が明確な境となったのはいつ頃の事なんでしょうか?
そこに住む人たちにとっては近いところだったら国が違うとかあんまり気にしなかったのではと思っています。
倭寇だって、日本人もいたし朝鮮人もいたし中国人も居ましたが、彼らは彼らで一つのコミュニティを形成していたとも考えられます。
昔は、国としての区分があったとしても人の出入りや、交流はもっと普通に行われていたのではないでしょうか?
日本書紀にもスサノオノミコトが、天から追放されて最初に降り立ったところは新羅の曽尸茂梨(ソシモリ:sosimori)だと記されています。
偽書ではありますが、桓檀古記の中には、反乱を起こした酋長の素尸毛犁(ソシモリ:sosimori)を切って、その孫は海へ逃げたとあります。
そういった点から、スサノオノミコトは新羅人ではないだろうかと思います。
ちなみにスサノオノミコトもイザナギノミコトから生まれていますので、(日本書紀だとイザナミの子供でもある)れっきとした日本神話での神です。
(ただ天津神ではなく国津神ですが)
とにかく、古代史において、今の国のレベルで当てはめて感情的に話すのは意味がないのかなぁと思ったりもしています。
古代史とそこに住む人達
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