鳴梁海戦(1597)
【現代韓国の認識】
李舜臣がたった12隻の船で、日本330隻の船団を壊滅させた!
日本側の死者は8000人以上!
日本から制海権を奪取した!
【史実】
李舜臣が12〜14隻の船で日本30隻と小競り合いをして、すぐに逃げた。
日本側の被害は軽微。
翌日、藤堂高虎などが戦闘海域に確認に戻り、誰もいないことを確認。
この時、李舜臣は於外島まで逃げていた。
参考:乱中日記、高山公実録、毛利高棟文書 他
鳴梁に限らず、李舜臣は逃げ回るだけの将だったというのが事実。
反日ヒーローに祀り上げられて、あまりにも事実と異なるイメージになってしまった。
日本側・朝鮮側、双方の史料に特に食い違いはないが、現代の韓国では何の史料的根拠のないイメージが浸透している。
【李舜臣の最期】
秀吉の死によって、日本と明は講和を締結。
日本が撤退しようとしていると、背後から講和を無視した李舜臣が不意打ち攻撃を仕掛ける。
怒った島津に殺されてしまったとされるが、特に記録には残っていない。
つまり、李舜臣とは討ち取られても記録に残らない程度の存在であったということ。
ファンタジーを誇る韓国人
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