毛利家는 왜이렇게 바보같습니까?
西から東に陸路で移動していたら、先に出会うのは西軍だよ?
「今から東軍に参加します」で通して貰える訳無い。
西の果てから江戸までの移動よりも、大坂が挙兵に気付いて道路封鎖するのが早かっただけ。>>3
ちょっと調べたら違った。
島津の当主が義久で義弘に軍権が無く、独断で大坂から出兵。
公式でない出兵ため徳川方が参戦を拒否したらしい。単に西日本だったからでは~
当時は通訳は要らないまでも、青森と鹿児島で言葉か通じなかったみたい。>>1
島津義弘は石田三成が挙兵する直前の日付で、上杉景勝に対し
「徳川家康が会津(上杉)を攻めている件について、大阪は石田三成様等の協議により上杉様に協力して挙兵する事に決まりました。私もそれに賛同します」
という趣旨の書状を送っている。つまり島津が西軍側に付くことは最初から決まっていた事だった。
徳川方の鳥居元忠に受け入れを拒否されて西軍に行った説は、後世の創作と思われる。その書状は7月15日付けで、西軍挙兵が7月17日だから水面下では話が付いてたんだね。
そもそも伏見の徳川勢は1800人。
そこに島津の援軍1000人が加勢して西軍4万を迎え撃つなんて自殺行為だから、論理的に考えても有り得ない。
鳥居に断られたから西軍に付くしかなかったという話は後年の島津家の文章に出てくるから、島津が西軍に付いたことを言い訳するために作った話かもしれないね。地図見ろ地図(´・ω・`)
>>1 このような質問はいいね。お互いに知らないことを教えあうのはとっても良い。
ただし、歴史というものは、冷静に見なければならない。歴史を勉強するときは、宇宙人に
なること。自分の国や事柄で、ことの善悪を決めないこと。
韓国人は歴史に弱いようなので、中国史や日本史、世界史の勉強を積み重ねたほうが良い。>>1それは…島津義弘の子供が豊臣家に人質として取られていたから!
それに、島津義弘は豊臣秀吉に過分な恩恵を貰っているから…
秀吉に気に入られて島津義弘は秀吉の近くで過ごして居て、豊臣家恩顧の猛武将として関ヶ原の戦いに参戦
でもわずか500騎の兵隊で鬼の島津引きをやって本国に帰還、そして兄の代わりに島津家当主となって徳川幕府に帰順…それから400年後打倒徳川の狼煙を上げて明治維新を成し遂げた島津家
まぁ…荒いおさらいだけどこんな感じ!>>6
捨て奸(すてがまり)は、戦国時代に薩摩国の大名島津氏により用いられた戦法の一つ。関ヶ原の戦いの退却時に敵中突破の手段として島津義弘が用いたことで知られている(島津の退き口)。座禅陣とも言われる。
本隊が撤退する際に「殿の兵の中から小部隊をその場に留まらせ、追ってくる敵軍に対し死ぬまで戦い、足止めする。そうして小部隊が全滅するとまた新しい足止め隊を退路に残し、これを繰り返して時間稼ぎをしている間に本隊を逃げ切らせる」という戦法。足止め隊はまさに置き捨てであり生還する可能性がほとんど無い、壮絶なトカゲの尻尾切り戦法である。
関ヶ原の戦いの際の島津軍では、所属した西軍方が崩壊し周りが徳川方の敵だらけの中で陣を引くにあたり、300程に減っていた兵数で敢えて敵前衛である福島正則隊を正面突破してから、捨て奸戦法を用いて伊勢街道経由で戦場から撤退した。
それは敵に視認しづらくするのと射撃時の命中率向上の為に、退路に点々と配置しておいた数人ずつの銃を持った兵達を、あぐらをかいて座らせておき、追ってくる敵部隊の指揮官を狙撃してから槍で敵軍に突撃するものであった。
徳川方の松平忠吉、井伊直政、本多忠勝らは島津隊を執拗に追撃したが忠吉と直政が重傷を負い、忠勝が落馬、島津義弘は追っ手を振りきって落ちのびることに成功した。直政はこのとき受けた傷がもとで病死に至ったと言われる。
高い銃の装備率と射撃の腕、さらに勇猛果敢な島津勢だからこそ効果的な運用が可能なこの戦法だったが、義弘の身代わりとなって甥の島津豊久、家老の長寿院盛淳ら多くの犠牲を出し、生きて薩摩に戻ったのは僅かに80余名であった。 つづく>>12 >>6 つづき
この、実に9割以上が戦闘死するという狂気にも似た撤退作戦は、薩摩軍の勇猛と恐ろしさを日本中に印象づけた。
こんな連中を敵にしたらたまったものではないと、家康も思ったはずである。
また、島津家当主である義弘の兄・義久が、このあと絶妙な外交を展開した。
表面的には義弘を隠棲させ、国境には軍勢を配していつでも戦う準備があることをチラつかせながら、東軍の知友である井伊直政や公家の近衛前久(このえ さきひさ)などに依頼して弁明と陳謝をくりかえしたのである。そのうえ、ひそかに明国との同盟まで画策していた。
家康は薩摩と明国の連合軍を敵にまわすよりも、結局はそれまでどおり本領を安堵して貿易の利をあげることを選ばざるをえなかった。
慶長7年(1602)4月、ここにきて家康はついに「島津の所領・薩摩、大隈と日向の諸県郡を安堵する。」と約束した。義久はこの約束を受けて、8月に義弘の子・忠恒を上洛させ、忠恒は12月に家康と伏見城で会見、島津問題は一応の解決をみた。
義久は義弘を叱り蟄居させたが、腹の中では「西軍加担は褒められんが、島津軍団の強さを見せ付けて、無事帰ったことは賞賛するぞ」とでも思っていたであろうか。
家康は確かに島津の精強ぶりをあの関ヶ原の退却劇で見た。義久は、大戦後に家康が一度出した島津征伐令を解除した時から「家康は島津とあまり事を構えたくないと思っている」と考えたのであろう。敗軍の大名でありながら、堂々とした態度で家康に対した。
ついに家康が折れた時、義久と義弘の関ヶ原は勝利を持って終わったわけである。
それから二百数十年後の薩摩では島津斉彬(しまづなりあきら)という名君が誕生する。島津氏は、鎌倉時代の承久の乱のときも、後鳥羽よりだったが、実際には、派兵しなかった。
島津と言えば、敵中突破!!
島津氏は生き残りが上手い
まあ、日本の最果ての地にある精強な軍を持つ大名なのだから、まだ江戸幕府体制が完全に固まっていない状況でそれを制圧するコストを考えたら懐柔する方が利口だわな。
島津軍はなぜ西軍に入りましたか。
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