【光州聯合ニュース】韓国軍が市民らの民主化要求行動を弾圧した1980年の5・18民主化運動(光州事件)に絡み、目撃者である故人の名誉を毀損(きそん)したとして、遺族などが全斗煥(チョン・ドゥファン)元大統領と全氏の長男、宰国(ジェグク)氏に損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決が14日あり、光州高裁は原告側の主張を一部認め、被告に賠償金の支払いを命じた。
高裁は「歴史を否定しては正しい未来を作ることはできない」とし、全元大統領が軍事クーデターや光州事件で内乱や殺人などの罪で無期懲役を言い渡されたにもかかわらず、「回顧録を利用して法的・歴史的断罪を否認し、被害者のふりをして本当の被害者である民主化運動勢力を非難した」と指摘した。
全元大統領は昨年11月に死去した。判決が確定すれば宰国氏と相続者の李順子(イ・スンジャ)全元大統領夫人が賠償責任を負うことになる。全氏側の弁護士は上告する意向を示した。
79年の軍事クーデターを主導して実権を握った全元大統領は80年の光州事件を武力で鎮圧。同年9月から88年初めまで大統領を務めた。退任後、内乱や殺人などの罪で無期懲役を言い渡されたが、97年12月に特別赦免(恩赦)され、釈放された。
https://share.smartnews.com/KjzCB>高裁は「歴史を否定しては正しい未来を作ることはできない」とし
体裁だけなのか? K国の現状を理解してなのか?
勿論後者w- 3
名無し2022/09/15(Thu) 09:21:07(1/1)
このレスは削除されています
正義はどこにもない。
南北朝鮮戦争と同じだね、どちらにも正義がある。
法律家が歴史云々語りだすところに、韓国人は何の疑問も感じないのだろうな。
韓国の民事の時効は3年です。いまさらなにを言ってんだ。
[独自]光州民衆抗争「火葬」メモを初めて発見…行方不明者を探す手がかりになるか
1980年の光州5・18民主化運動の頃に作成されたとみられる光州市(クァンジュシ)の遺体処理関連の記録から「火葬」と書かれたメモが発見された。行方不明者の行方に関する新たな手がかりになりうるだけに、当時の光州市の機関などを対象に、行方不明者の遺体を火葬した可能性などについて綿密な再調査が必要だと指摘されている。
「火葬」メモは、検察などに提出された光州民主化運動当時の光州市記録を元5・18遺族会長のチョン・スマン氏がスキャンしたファイルの形で保管していたことを、最近ハンギョレが確認したものだ。16枚の更紙に水性ペンで作成されたこのメモには、「池元洞、刑務所、火葬-葬儀士協会連絡」という文字と共に「自主的に引き渡し」「公園墓地」など、遺体の処理に関すると思われる内容がある。「5体」「6体」「28体」など遺体の数を表すような表現、時間と推定される「12:15」、「11:00」という数字も登場する。
5・18団体がメモに注目するのは、当時死亡した事実は認められたが、遺体が見つからず「行方不明」扱いだった犠牲者73人の「行方」を探す手がかりになるかもしれないというかすかな希望のためだ。このメモに「火葬」とともに書かれた「池元洞(チウォンドン)」と「刑務所」(角化洞の旧光州刑務所)が、民主化運動当時に犠牲者の遺体を目撃したという供述が多く出た場所である点も注目される。特に光州刑務所は遺体を見たという供述は多いが、その遺体がその後どこに行ったのかは依然として霧に包まれている。
光州刑務所で遺体を目撃した人は多い。第3空輸旅団の下士だったキム・スンシクさん(69)は7日、全羅南道海南(ヘナム)でハンギョレの取材に応じ、「5月21日午後、光州刑務所に到着した軍用トラックで13体の遺体を下ろした」と証言した。第3空輸旅団の下士だったYさんは5・18民主化運動真相究明調査委員会(5・18調査委)に「5月21日夜、ある上官の指示で、夜に土を掘って(遺体)9体を埋めた」と証言した。>>9
「刺され、撃たれ、運ばれていった」…光州刑務所の行方の分からない遺体の謎
5・18光州(クァンジュ)民衆抗争で死亡したことが公式に認められているものの、遺体が見つかっていない犠牲者の数は73人。彼らは全員「行方不明者」として処理された。5・18行方不明者は、政府が5・18関連の死者数を公式発表した当初から大きな問題となっていた。人々は政府発表を信用せず、公式の死者数よりはるかに多くの市民が戒厳軍の犠牲になり、消し去られたと信じた。
このような考えは、1980年代初めから歌われてきた「5月の歌2」という民衆歌謡に「なぜ撃ったのか、なぜ刺したのか、トラックに乗せてどこに行ったのか」という歌詞として登場する。この歌詞は、1980年5月21日に行われた全南大学から光州刑務所までの空輸部隊による抑留者移送作戦も重要な背景となっている。
「荷物を積み込むように整然と人を重ねていました。車の中は人と人の間に隙間がないほどでした」
兵士たちはトラックに乗せた市民を無抵抗にするために、トラックに催涙剤「CS」の粉末を散布した。キムさんは「腕が催涙剤の粉末だらけになって、火傷を負って粘液が出た」と話した。呼吸困難を感じたある市民が車の小さな窓を割った。キムさんは「すぐに窓から剣先が刺し込まれた」と語った。5月19日に車両デモをしている途中に捕らえられたキムさんは、抑留から49日後に解放された。キムさんは「その時、刑務所から生きて出てきた108人は『108会』という講を組織したりもした」と言う。
遺体の目撃者は多い。第3空輸旅団は午後4時ごろに光州刑務所に到着した。同旅団の下士(軍の階級名)だったキム・スンシクさん(69)は今月7日に全羅南道海南(ヘナム)でハンギョレの取材に応じ、「5月21日午後、光州刑務所に到着した軍用トラックで13体の遺体を下ろした」と語った。翌日にはトラックの中から、銃で撃たれた遺体も1体回拾した。キムさんは「連隊の情報将校が13人の遺体の顔をすべて撮影した」と証言した。
https://www.hani.co.kr/arti/area/area_general/1140924.html
故全斗煥元大統領の賠償責任認定 光州事件巡る名誉毀損=韓国高裁
10
ツイートLINEお気に入り
8
0