>>15
本来、北栗東尺農場の土地は朝鮮王朝の時には宮牆土として、寿進宮、毓祥宮、明礼宮などの宮房殿があった。 北栗農民はそれぞれの宮方に普通3分の1ほどの租酒を貢ぎ、祖先代々耕作してきた。
ところが日帝統監府が発足すると、このような宮蔵土はいわゆる「帝室級国有財産整理」の名の下で行われた土地調査により国有駅屯土に編入され、北栗農民は日帝権力の小作農と化してしまった。
その後、日本は1908年12月、東洋拓殖株式会社設立の際、韓国政府出資分という名目でここの農地1,235情報を盗み、北栗洞尺農場を設立した。 この時から日帝は従来3割の小作料を5割に引き上げる一方、従来に世襲してきた小作権を5年に制限して植民的持株権を強化していった。
北栗東尺農場の土地は拡大を続け、1924年の小作争議当時は2,300町歩の広大な面積を占有した。 この際、東洋拓殖株式会社は、北栗駐在所を設置し、3人の日本人駐在員と15人の御用小作人の組合により小作人を統制した。
定租法と執行法により収穫の半分以上を小作料として徴収する一方、小作期間を3年へと短縮した植民農場を経営した。
ところが、小作料の場合、5割というのは名目に過ぎず、実際7~8割の過酷な小作料を徴収していた。 また、小作期間の3年は宮蔵土時代に世襲的に耕作していた時期と比較できないのはもちろん、逆屯土時代の5年に比べても小作権の被奪の脅威が一層高まったのである。
[出典:韓国民族文化大百科事典(北栗東尺農場小作争議)]
植民地時代の朝鮮農民の激しい抑圧と貧困について
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