日韓で有名な碑文が存在する。 好太王碑文とか広開土王碑文と呼ばれる。
旧日本軍が発見した。その内容が韓国に不利な内容だったため、碑文が破損している部分を日韓両国が論争していた。しかし、これは日本の主張が正しいことが証明された。
ところで、一つ疑問がある。
倭軍は、いったいどのように高句麗まで進軍したのだろうか?
高句麗は朝鮮半島の北部に位置した国で、高句麗に進軍するには新羅か百済の領土を進軍する必要がある。添付した地図でいえば、aかbのルートだ。
cのように海上を通った可能性は、古代の船舶の能力を考慮すると、大量に兵士を海上輸送するのは不可能だろう。よって、aかbに近いルートを通ったはずだ。その場合に、新羅や百済は倭軍を無視していたのか?
倭軍を恐れて城に籠城したのか? 新羅や百済の敵である高句麗と倭軍が戦闘するので、漁夫の利を狙って、あえて倭軍を通らせたのか?
それとも、好太王碑文の書いてる通り、倭軍が百済と新羅を服属させて、堂々と高句麗まで進軍したのか?
果たして、真実はどうだろうか?>>65
繰り返しになるが、この際実質がどうであれそもそも百済王が都督百済諸軍事に任命されているのだから倭王を都督百済諸軍事には任命しないでしょというだけの話。
ぶっちゃけ加羅や新羅の実態については知らん。>>55
そもそも国漢字の兄貴「隋書」からの引用としてるんだから
的はずれな批判と違うかな>>66
違う。隋書以前に百済が倭に従属していたという史書があるということは言っていない。
あなたは「倭国使の言葉を引用したものである」と言ったが、自分が読む限り開皇20年以下の記述は内容からしてその時の倭国使の述べるところをそのまま記載したものとは読めないということ。
上で書いたように風俗に関しては明らかに以前の史書から引き継がれたり言及されている内容があり、また翌年隋からも倭国に使者が使わされているが風俗に関しては前の下りにしかない。
つまり倭国の風俗はこれまでの記録や裴世清の見聞きした情報も開皇20年以下のくだりに集約されているはずであり、倭国使の事実無根の主張をそのまま載せているというのはいささか乱暴であろう、ということ。>>70 いつもの『全部日本が悪い2ダ』というヤツか
>>72
わからん>>74
韓国の歴史学説も少しづつではあるが変わってきてるんだけどね
例えば、任那は日本の支配領域ということはもとより、
その存在すら認めてなかったが、最近では
「新羅でも百済でもない地域が半島南部に存在した」ということまでは
発掘によりわかった事実により否定しなくなっている。
歴史の検証が進むにつれて、朝鮮人もアクロバティックな愛国解釈じゃなく
三国史記や碑文のありのままの解釈をするようになりつつあるよ。>>83
>日本側では、「日本書紀」の皇国史観をそのまま正しいとする人物は
>変人しかいない(少なくとも学者にはいない)。
偉そうになんか難しい事を言ってるが、どういう意味だ?
お前、頭悪いだろう皇国史観の定義が分からん
神代を含めるのならかなり違うでしょう広開土王碑関連で一番の話題になるのがこれだよね
百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民。
以六年丙申王躬率水軍…
韓国学会の定説は以下の解釈でいいだろうか?
「新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした。〉「倭の連中がが来たので海を渡って百済を破りました」
「(高句麗は)新羅を臣民としました」
さすがにアクロバティック解釈すぎるわな
文章として意味不明だし
まったく素直に
「倭の連中がやってきて百済を破って新羅を臣民とした」
これだけで三国史記などの記述ともぴったり合うのにな
色眼鏡ってこえーわ辛卯年部分の段の前半には「百残新羅舊是属民由来朝貢」と碑文にある。
つまりこの碑文には辛卯年以前に「百済や新羅は(高句麗)の属民であって由来朝貢してきた」として
「而倭以辛卯年」と続く。もともと属民であったのに、それが倭の臣民になったので
「以六年丙申王躬率水軍」(以六年丙、396年)に広開土王が水軍を引き連れて討つということになる。
391年に高句麗が海を渡って百済を破って臣民にしたとか、あるいは高句麗が百済や新羅を破って臣民にした、というように読めば広開土王はもともと「属民」であって「由来朝貢」していた百済・新羅を破って再び「臣民」にしたという文になる。
色々な解釈はあるんだろうけど、この解釈だと矛盾が出てくるよな日本書紀古事記は色々と後から辻褄合わせを当然してるかんね
そのあたりのことは注意せにゃなりませぬ
有名なところでは仁徳天皇が掘らせたはずの古市大溝が
遺構の切りあい関係から見て6世紀中葉をくだらないんじゃ無いかって言われていたりただ、何度も言うけど、ここで話に出る重要な一次資料の成立年代は
広開土王碑:中国 414年
宋書(夷蛮伝):中国 400年~500年
日本書紀:日本 720年
三国史記:朝鮮 1145年
であって、三国史記が書かれるおよそ400年前に日本書紀が書かれてるんだよね。
あらゆる一次資料はその編纂者の意図に注意する必要があるが、
歴史資料としては成立年代にも注意する必要があると思うそもそも何で朝鮮には古い歴史書が残ってないの??
秀吉・日帝が焼き払ったネタは置いといて、漢字がそこまで普及していなかったとか??>>55
ネタにマジレスはいいんだけど
殊更に古い資料を出してはいるが
文字が記された資料が出土している事と
当時の倭が無文字社会では無かったかと言うのは厳密に分けて考えた方がいいんじゃねえかな
例えば仿製鏡の擬銘帯と言うのがあるでしょう
これが漢字を文様化してる例でつまり
当時の倭人は漢字を「文字」として認識して無かった節がある
と言われているのはご存じじゃねえかと思うんだけど
だから倭人の文字の使用がはっきり言えるのは5世紀以降じゃねえの
要は隅田八幡人物鏡とか稲荷山鉄剣とかさ
なにかって言うと気になっただけ。
眠いんで資料を当たらずに書いてるから用語が厳密に使われて無い。たぶん。>>98 그만해ㅋㅋㅋㅋ 너만 헛수고다 이 새끼들 ㄹㅇ 미쳤음 장수왕이랑 광개토대왕이 황해도, 함경도, 경기도, 서울을 흡수해서 최 전성기를 만들었다고 하니까 그것도 거짓말이란다. ㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋㅋ 장수왕 시대에 식민지 였데 ㅋㅋㅋㅋㅋㅋ
526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。
2011年に発見された梁の『梁職貢図』には、新羅が「あるときは韓に属し、あるときは倭に属した」と、新羅が倭の属国であったと記されている。『梁職貢図』は、後に元帝(孝元皇帝)として即位する蕭繹が、荊州刺史を務めていた526年から539年までの間に作成されたとされ、新羅が倭国に属していた時期は、これより前の年代になる。なお、蕭繹は、梁に朝貢する諸国の外国使節の風貌を荊州や梁の首都建康(現在の南京市)で調査し、また裴子野(469年~530年没)の方国使図を参考にした。
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王姓募名泰,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉地獄のようなスレだな
あれ、IDが変わってるな。
自分は>>71だ。>>102
ごめん、誤爆した>>101
そもそも、他の国の使者の発言を参考にせず、倭国使者の発言だけをもとに歴史書を書く理由が無い
もともと無理がある説だ>>97
日本書紀の記載のうち、文章表現及び音韻論の観点から改変された形跡が認められる部分として、例えば”乙巳の変”とその後の”大化の改新”についての記載があります。この点については、森博達氏の研究が詳しいです。
※『日本書紀の謎を解く 述作者は誰か』中公新書 1999
※『日本書紀成立の真実 書き換えの主導者は誰か』中央公論新社 2011
逆賊、蘇我氏を討った中大兄皇子と中臣鎌足が協力して新体制を構築していくというストーリーの根幹を成す部分に、本文完成後に本文著者とは別人が改変を行った形跡があるわけで、政治的配慮のある記述があるという想定は十分合理的です。
もちろん天皇と言っても、暴君として描かれる天皇もあり(代表例は武烈天皇等)、単純に「皇室に都合の悪いことは書かれていない」という評価は極端ですけれども。
日本書紀に限りませんが、古代の文献を参照するにあたっては綿密な史料批判が必要です。
そして日本の歴史学会には日本書紀の史料批判には膨大な蓄積があり、書いてある事をそのまま信用するような手法は遠い過去のものです。その点は古代史について語る時常に留意すべきと思います。>>96
>>98
日本書紀に引用されている『百済三書』(『百済記』『百済本記』『百済新撰』)については、百済滅亡後に日本国内で亡命百済人達が編纂した説が有力説ですが、百済滅亡以前(6世紀頃)を想定する学者も一定数います。
ただしいずれの場合も、百済三書は日本在住の百済人が日本の朝廷に提出する目的を持って記述したものであるという点ではほぼ大勢が一致しています。よって朝鮮半島にこれが残っていない最大の理由は、百済本国には無い書籍だったから、というのが最も可能性の高い理由でしょう。
ただし、百済三書は字音仮名の用法や、高句麗の内紛など朝鮮半島情勢に関する記録の多さから考えても、より古い百済本国の歴史史料を下敷きに作成されたものであることは確実です。
それらについては、残念ながら朝鮮半島のその後の戦乱の中で失われてしまったということなのでしょう。そもそも三国史記編纂の段階で、百済の歴史記録は新羅や高句麗に比べても残存率が低かったようです。>>29
日本の属国にされていたことを否定するための韓国人の言い分だけど、極めて無理筋な解釈だね。
『梁職貢図』の新羅の項の最初にはこう書いてある。
「斯羅國本東夷辰韓之小國也」
新羅國はもともと東夷の辰韓の小国であったとある。
地域の説明はしてあるのに、その後に「或いは韓の地域になり、或いは倭の地域になり」って、文章としておかしいでしょ。
新羅が土地の事ならともかく、国なんだから。
百歩譲って、仮に「倭の地域になった」という意味なら、それこそ倭に支配されていた事を意味するだけだね。
そして「通使を送れなかった」という後文との意味の繋がりも考えないと。
素直に読めば「従属していたから自ら通使を送れなかった」という以外の意味には取り様がないでしょ。誤爆。
横着して過去の自分の書き込みをコピペして他所へのレスに使おうとしたら間違えた。武 則天(ぶ そくてん)唐の高宗の皇后。戦略家。中国史上、唯一の女性の皇帝。女傑として多くの冷酷な逸話が残っている。
中国南北朝時代の西魏・北周、隋・唐の支配層の遊牧騎馬民族系の関隴貴族と対立。科挙へ。
新羅を使い、百済、倭国と戦い高句麗を滅ぼした、高句麗は靺鞨と渤海国を建国。
馬の集団が海洋に対応するのは難しいね。>>1
お前、碑文を読んだことも無いことがバレバレじゃないか
碑文には、
倭国が海を渡って百済・加羅・新羅を攻めて臣民とした
百済と新羅は高句麗に朝貢していた属国だったので
高句麗が怒って5万の兵を出して倭軍を新羅から追い出した
と刻まれている
百済と加羅は倭国の臣民のままだったということだ>>1
いきなりcを切り捨てるのは、なぜ?
船の能力もなにも、九州から対馬海峡渡って大量の兵員を輸送してるのに、朝鮮半島の海岸伝いの移動に何が無理なのか?
理解不能。好太王碑文の【百殘新羅舊是屬民由来朝貢而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民】の解釈
日本と韓国の学会とも前半の【百殘新羅舊是屬民由来朝貢】の部分の解釈は同じだが
【而倭以耒卯年来渡[海]破百殘■■新羅以爲臣民】の部分の解釈が違っている
日本の学会による解釈 【欠落文字「■■」を「加羅」と推測】
そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった
韓国学会による解釈 【欠落文字「■■」を「救った」のような字句と推測】
新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。
しかし、倭が辛卯年(391年)に来たので(高句麗は)海を渡って百残を破り、新羅を救って臣民とした
韓国学会による解釈では欠落文字「■■」を「救った」のような字句と推測し、「高句麗」を主語としている
しかし韓国学会による解釈では、もともと百済・新羅が高句麗の属民だったのに
何もしていない百済を高句麗が再び破って臣民としたというのはおかしいし、
もともと属民だった新羅を救ってまた臣民としたというのもおかしい
好太王碑文には、このとき高句麗は5万の兵を出したと記述されているが
高句麗が陸続きに隣接する百済を攻めるのに5万の兵を船で海を渡らせると考えるのは荒唐無稽だ
倭軍はどのルートで高句麗まで進軍したのか?
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