동쪽 조선

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  • 1名無し2017/01/12(Thu) 15:09:35ID:k1NDMwNA=通報

    돌연변이 혈액 CIS-AB형 발견지점 한국전라도와 큐슈지방 일치
    무서운 사실 이들은 거짓말을 잘하고 나중에 배신하는 습성을 가지고있다

  • 11名無し2017/01/12(Thu) 16:19:54ID:Q4ODk3Mjg(1/1)NG通報

    朝鮮人にすら「未開の象徴」扱いされる「朝鮮」という言葉が哀れでならない

    明治に、西欧文明との差を痛感した日本の知識人は皆、それでも日本を愛していた。

    朝鮮を愛しなさい、朝鮮人
    (しかしそれは他者を見下し空想の優越感に浸るという意味ではない)

  • 12名無し2017/01/12(Thu) 16:21:51ID:c3ODk2OTY(3/8)NG通報

    みんなが待望のスレに限って思金先生は出てこないのだ

  • 13名無し2017/01/12(Thu) 16:43:22ID:Q1MDA0ODA(1/1)NG通報

    >>1
    日本では九州人は喧嘩っ早いとか起業家が多いというイメージしかない。
    裏切るとか嘘つきとか今まで聞いたことがない。

    裏切るとか嘘つきは在日朝鮮人と韓国人にしか使われないよ。
    嘘だと思うなら日本語で検索してみればいい。

  • 14名無し2017/01/12(Thu) 16:52:36ID:AwMjQ0NDg(1/2)NG通報

    > 무서운 사실 이들은 거짓말을 잘하고 나중에 배신하는 습성을 가지고있다

    嘘をつきやすく裏切る遺伝子なんて聞いたこと無いし、
    CIS-AB型自体、数万人に一人しかいないのに無茶苦茶な理屈だ。

    統計上、韓国社会の嘘や詐欺は非常に多いというのがよくわかる。

  • 15名無し2017/01/12(Thu) 17:29:19ID:A0ODExNTI(2/2)NG通報

    >>9>>10
    召喚された瞬間除金されてしまうん?

  • 16思金失禁2017/01/12(Thu) 18:05:43ID:kwNjEzNzY(1/1)NG通報

    >>1
    これは正に日本人が百済人である証拠ニダ。それを信じないバカは負け猿確定と思えニダ

  • 17名無し2017/01/12(Thu) 18:11:53ID:c3ODk2OTY(4/8)NG通報

    >>16
    本人?

  • 18 2017/01/12(Thu) 18:14:44ID:c1NTY4NjQ(1/1)NG通報

    >>1
    韓国発信の情報なんか嘘か本当かわからない。
    嘘や妄想を「真実」に変える国ですからね(笑)

  • 19名無し2017/01/12(Thu) 18:16:06ID:M0NDE2NjQ(1/1)NG通報

    >>1
    それぞれの国での犯罪率
    詐欺罪 → 韓国は日本の17倍である
    偽証罪 → 韓国は日本の650倍である
    誣告罪 → 韓国は日本の4000倍である

    海外での犯罪率
    殺人罪 → 韓国人は日本人の300倍である
    詐欺罪 → 韓国人は日本人の35倍である


    ・・・裏切る習慣があるのはどっちの国民か?
    日本人として戦ったくせに、負けたら裏切った国はどこだ?

  • 20名無し2017/01/12(Thu) 18:19:54ID:k2MDY1Mjg(1/1)NG通報

    韓国人だんまり
    因みに東朝鮮じゃなく
    おまえら朝鮮人は東中国だぞw

  • 21名無し2017/01/12(Thu) 19:50:28ID:Y3NTk5MzY(1/1)NG通報

    韓国人は全羅道差別が大好きだね。いつからどのような理由で全羅道は差別される地域になったのでしょうか?
    嘘や裏切り大好きは百済より新羅のイメージだから不思議です。
    それと日本と全羅道を同じにして馬鹿にしたいのならば意味ないですよ。
    逆に全羅道の人は世界上位の日本と同じだと自慢していいと思います。

  • 22名無し2017/01/12(Thu) 20:04:17ID:QxMDAzNTI(1/1)NG通報

    むしろこれ、朝鮮半島の南部が倭人の領域であったことを裏付けてないか?

  • 23コーヒーブレイク2017/01/12(Thu) 20:12:39ID:A5MTczNzY(1/1)NG通報

    >>1 ハングル君
    ズバリ、ステレオタイプに一致
    入れ替わり立ち替りポツポツ湧くね
    当事者なんだから、真剣に国の好きなところをさがせ
    何かあるだろう。キムチは除け。

  • 24名無し2017/01/12(Thu) 20:42:24ID:gxNDQ1MTI(1/1)NG通報

    おーっと ここで 恩金氏 痛恨の アク禁かぁ??

  • 25名無し2017/01/12(Thu) 21:28:18ID:Y2OTI3MzY(1/1)NG通報

    >>1新年早々、自爆投稿で自虐ギャグとは恐れ入るぜw

  • 26名無し2017/01/13(Fri) 02:13:08ID:AwNzY0OA=(1/1)NG通報

    >>16
    ハンドルネーム最高www

  • 27名無し2017/01/13(Fri) 04:22:44ID:EwNTc1Mzg(1/1)NG通報

    >>1

    長江流域からの移民が稲作を伴って朝鮮半島南部、済州島、九州北部の範囲にかけて渡来したと考えられてます。
    稲のDNAが、上記範囲は長江流域型ですが、同じ朝鮮半島でも北部になると黄河流域型になります。
    古代中国でも、倭人は呉越と関係があると考えていましたし、日本の天皇を呉の太伯の子孫だと思っていました。

    また、この地域は同じ文化圏を形成していたと考えられ、後漢書や三国志など中国の歴代王朝の正史には、3世紀頃まで半島最南部は倭国領だったと書かれています。その後も隋書では、百済と新羅は倭を大国として敬仰し常に使者を往来させていたとあります。

    それは遺跡にも現れていて、半島南部には倭国型の古墳が大量にあります。但し、半島側の古墳は形状が新しく、規模も小さいので、上記文化圏の支配層の軸足は日本側にあったのでしょう。

    日本と半島の中間にある耽羅国の文化風俗は古代日本と似通っており、耽羅の三姓神話は、北九州の宗像三女神の神話と共通性があります。

    今のように明確に「国」として分かれていない時代は面白いですね。

  • 28左巻きの名無しさん2017/01/13(Fri) 06:24:45ID:k0NTY1NTU(2/2)NG通報

    >>5

     噛み付いて御免ね。

     その頃、「日本」と言う言葉も、「植民地」の概念も無いから、その表現を使うと、今の価値観をその時代に時空を超越して投影させてしまうから、あまり好ましくはないよ。

     「日本列島」と共通の「古墳」文化を担う集団が「朝鮮半島」西南部にも、「その当時」に、棲息していただろうとの推定を指摘するのが、学術的には精一杯かと自分は思います。


     それでも、半島に日本と共通する古墳造成に必要な、設計技術と土木技術が存在したことを意味し、それは、九州北部で形成された稲作を中心とする一連の農業技術が伴なって居た可能性を示すものとして、その史料の発見と照合が待たれるところではないでしょうか?その頃の地層からの「プラントパール」を採取照合が出来れば、ある程度の高い可能性として立証出来るでしょうね。
     特に水稲栽培は大量の水を安定的に供給する技術が無ければ、温帯地域で安定した収穫は得られません。溜池や灌漑用水路の構築技術と共にその構築に必要な労働力の動員力が必要に成ります。水路や溜池を人々が見ても自然物との見分けはつかないので求心力に役立ちませんが、モニュメントとしての古墳がそこに在ると、その威容に、その主が行なう土木工事を魔術の様に感じ、収穫物を喰わせでもしたら平伏し融合する民も多分、多かったでしょう(想像)。半島南部は日本に気候的には近いでしょうが、降水量や河川の情況が異なりますので、その技術での耕作が継続出来なくなった可能性、新羅集団による虐殺で伝承が途絶えた可能性も在るでしょうね。


     尚、九州は、元々瓶棺墓の風習が在った地域で、近畿地方の山賊集団とは無縁の人種ですから、このスレのお題に沿って考えると、九州の排他的勢力の派生が、海を渡ったと推定するしかなくなりますね。史実がどうかは別として。

  • 29名無し2017/01/13(Fri) 16:10:13ID:A1OTgzOTE(1/1)NG通報

    九州と南朝鮮を同じ色で塗るな!!
    ぶん殴るぞ

    南朝鮮は赤だろ
    血の赤

  • 30名無し2017/01/13(Fri) 16:50:38ID:QzNDg5MjE(1/1)NG通報

    韓国人は百済王子が人質として送られている時点で、どちらがご主人様だったのか気付いて欲しい。

  • 31名無し2017/01/13(Fri) 18:45:45ID:M3NDUyMQ=(2/4)NG通報

    >>30
    3~4세기부터 백제는 중앙집권이 되어 왕권이 강했고 중국의 산둥반도와 일본에까지 세력을 뻗쳐서 속국으로 삼아 지배를 해왔다. 백제가 망할때까지 백제를 부흥시키기 위해 노력을 한 흔적과 기록들이 있습니다.
    일본은 백제의 왕족들이 지배를 하고 있었기 때문에 백제의 왕족들이 자유롭게 왕래하고 자기들의 뜻을 펴는 곳으로 활용해왔던 것으로 알고 있습니다.
    무령왕은 일본에서 태어나 살다가 백제에 와서 왕이 되었고
    풍왕자도 일본에 있다가 돌아와서 부흥운동을 일으켰습니다.
    일본의 사오메이천황이 의자왕의 동생인지라 백제가 망한 후에 사비성 탈환을 위해 군대를 파견하여 백강전투를 벌였으나 실패를 한 뒤..나,당세력의 보복을 대비하여 큐슈의 후쿠오카 근교에 대재부(다자이후太宰府)를 설치하고 방어를 했으나 침입을 받지는 않았다고 합니다
    그들은 인질로 잡혀있었던 것이 아니라..
    자신들의 영역을 경영하는 차원에서 일본에 가 있었다고 이해하고 있습니다.
    오히려 백제가 일본을 지배하고 있었기 때문에
    일본에 백제 인질이 있었다는 기록은..왜곡된 것 같습니다.

  • 32名無し2017/01/13(Fri) 18:50:03ID:M3NDUyMQ=(3/4)NG通報

    >>30삼국사기에 따르면 백제 왕자들이 '질(質)'로서 왜국에 보내졌다는 기록이
    있습니다 한두 차례가 아니고 수 차례 있어 마치 연례 행사 처럼 보였습니다.
    심지어 일본 태생의 백제왕도 있고 많은 백제 왕자들이 일본에 '질'로 서
    갔습니다.
    그러나 이 '질'이 이른바 '質子' 즉 인질을 의미한다고 볼 수는 없습니다.
    볼모로 일본에 간 백제 왕자들은 그저 인질로 억류되어 있던게 아니라
    일본 조정에서 중책을 맡아 국사를 돌보는 일을 합니다.
    일본서기에도 인질로 온 백제 왕자들의 이야기가 있는데 그들의 근황을
    보면 억류가 아니라 일본 정계에 진출해 중책을 맡고 국사에 활약합니다.
    볼모로 간 인물이
    그 곳에서 정계에 진출해 중책을 맡는다는건 있을 수 없는 일입니다.
    인질이 아니라 백제 왕실과 일본 왕실간의 인적 교류였다고 보는게
    타당할 듯 합니다.
    개인적 추론으론 백제 왕자를 일본 조정에 파견해 보내서 당시 일본내 강력한
    세력을 형성했던 백제계 세력들을 규합해서 움직였을 것으로 생각합니다.
    한때 일본 왕실을 능가하는 권력을 쥐었던 대호족 '소가'씨가 바로 백제계라고
    합니다. 바로 이런 일본 조정에 백제 왕자가 '질'로서 왔던 겁니다.
    인질로 억류된게 아니라 백제 왕실에서 일본 정계에 영향력을 행사하기 위해
    파견하는 셈이지요.

  • 33hato◇chon_shine2017/01/13(Fri) 18:56:30ID:k1OTcxMDk(4/4)NG通報

    >>32
    0対10で負けた試合も、勝った試合の如く語るのが朝鮮人の古来よりの習性です。

  • 34名無し2017/01/13(Fri) 19:07:46ID:I4NjQ1Nzc(2/2)NG通報

    >>32

    > 볼모로 간 인물이
    > 그 곳에서 정계에 진출해 중책을 맡는다는건 있을 수 없는 일입니다.

    日本ではあり得ないことではない。
    日韓併合も朝鮮を日本化したのであって韓国人が歴史で習うように一方的に奴隷にして搾取した訳ではない。
    朝鮮出身の議員も居た。

  • 35名無し2017/01/13(Fri) 19:45:58ID:g5Njg2ODQ(1/1)NG通報

    >>31

    百済が日本を支配していたというなら、加害者ですね。
    植民地支配に対する謝罪と賠償を求めます。

  • 36名無し2017/01/13(Fri) 19:49:36ID:UyNTMzNTQ(5/8)NG通報

    >>28
    >「日本列島」と共通の「古墳」文化を担う集団が
    そうじゃね、そうじゃねえんだな
    これがまた違うんだよ
    類似ってのは平面形にとどまって
    墳丘の構築技法自体は列島じゃなくて栄山江流域の高塚から系譜を辿れるものだし
    したがって墳丘形態も列島の前方後円墳とはだいぶ違ってきてんのね
    祭祀の空間が列島と半島とでは異なるなんて岡内 三真の本にゃあったが
    あなた「共通」て言葉使ったけど少なくとも列島と同じ規格で造られた古墳とはちっと言えないんだよね
    つまり都出 比呂志のいう「前方後円墳体制」の外にある前方後円墳なんよ。あとはとりたてて書かなくても伝わるとは思う。つまるところそういうことで。
    じっさい列島の前方後円墳と瓜二つと言えるのは20基弱あるうちの新徳1号墳1基くらいなものなんよ

    ソース?「韓半島 前方後円墳」で検索して出てきたPDFから参考文献抜き出して読んでまた参考文献抜き出して読んでをやっといてよ
    貼り付けるだけで1レス潰せる量だから
    分かりやすい90年台以降の研究史まとめ的文献が無いんだなあ。いずれ私生活が落ち着いたらスレ立てるつもりだけどさ。

  • 37名無し2017/01/13(Fri) 19:50:16ID:UyNTMzNTQ(6/8)NG通報

    と言うか弥生時代の話と5世紀後半から6世紀前半にパッと現れてパッと消える前方後円「形」墳を
    結びつけてどうこうしようってのは「可能性」と言うにしても結構ハチャハチャな気がするなあ
    だいたい何だよ新羅の虐殺って。欽明紀あたりから引っ張ってきたんだろうけれど
    この地域の首長墓である伏岩里古墳群が前方後円墳が途絶えて後7世紀前半まで造成され続けるわけで
    これも「可能性」と言うにしても色々無理筋じゃねえかなあ

    てか何?畿内の盗賊集団って。お前筑紫君磐井かよ。石人拝んどいてやるから成仏しろよ。

  • 38名無し2017/01/13(Fri) 19:53:55ID:UyNTMzNTQ(7/8)NG通報

    以前に「歴史考古学専攻」を名乗る韓国の名無しが栄山江流域の前方後円墳研究についての日韓の研究史をじつに端的にまとめたレスをしてたな
    文献通りの話を書く程度には自制ができる
    よく勉強なさってる人だったが、最近見ないなあ。

    韓国史なんだから当たり前っちゃ当たり前だけど
    前方後円墳研究の本場の日本人がこれってのは
    どうもちょっと悲しいなあ
    かなり込み入った話ではあるけれど、込み入った話ではあるけれど……
    うーん……

  • 39名無し2017/01/13(Fri) 19:55:29ID:UyNTMzNTQ(8/8)NG通報

    つまるところみんなで文献を読もうって話

  • 40名無し2017/01/13(Fri) 20:06:36ID:AzNDk0NTQ(1/1)NG通報

    >>32
    人質として連れてきた王族の子供を厚遇し、しっかりとした教育を与える。
    その子供達が成長し、故国に帰らずにその国内に留まり、社会的に重要な地位に就く。

    古代ローマでもあったことだし、古代中国でもあったことだ。
    日本でも、そのようであって何の不思議がある。

    不思議に思えるとしたら、それが韓国人の国民性ってヤツなんだろうね。
    確かに韓国人なら、そんな事はしなさそうだし。

  • 41名無し2017/01/14(Sat) 12:24:24ID:czMDIwMzY(1/2)NG通報

    >>32

    古代から近世までの、国家間、豪族間の「人質」は、大国側では多くの場合は丁重に扱われます。
    「人質」の大国への忠誠を高める為に、平均以上の教育を施され、大国側の考え方を「人質」へ浸透させます。
    元々、「人質」は小国の後継者である事が多いので、元人質が小国の国主になると、より従順な従属国になります。
    その代わり、大国は、小国が敵に攻められた場合には全力で守ります。
    これは、西洋でも東洋でも同じです。

    韓国人に身近な例だと、新羅・唐に攻められた百済を防衛した日本。日本に攻められた李氏朝鮮を防衛した明といったところです。

    現代的な「人質」とは意味が違うものなので、歴史書はその点を留意して読まなければいけません。

  • 42名無し2017/01/15(Sun) 15:05:11ID:g3MzI3MzA(1/12)NG通報

    知っている人も多いと思うが日韓共に
    新羅の人質の王子が倭から逃げて帰るという伝承が日本側と朝鮮側と一致している。

    ・新羅からの使者、朴堤上(毛麻利叱智)が日本に来た。
    ・倭をあざむいて、王子未斯欣(微叱許智伐旱)を新羅に逃がした。
    ・朴堤上(毛麻利叱智)は焼き殺された。

    まずは【日本書紀】から
     神功皇后五年の春三月七日、新羅王は、于礼斯伐(うれしほつ)・毛麻利叱智(もまりしち)・富羅母智(ほらもち)らを遣わして、朝貢した。
    以前に人質になっていた微叱許智伐旱(みしこちほっかん)をとり返そうという気持を持っていた。
    許智伐旱(こちほっかん)に嘘を言わせるようにした。
    「使者の于礼斯伐・毛麻利叱智らは、私に告げて『わが王は、私が長らく帰らないので、ことごとく妻子を没収して、官奴としてしまった』と申しております。
    どうかしばらく私を本土に帰らせていただき、その虚実を知って御報告したい」 と言わせた。
    神功皇后は、それをお許しになった。そうして、葛城襲津彦(かつらぎのそつびこ)を付き添わせて遣わした。
    ともに対馬に至って、鉏の海(さいのうみ;対馬海峡、朝鮮海峡)の港に泊った。
    そのとき、新羅の使者の毛麻利叱智(もまりしち)らが、ひそかに船と水手を手配して、微叱旱岐を載せて、新羅に逃れさせた。
    そうして蒭霊(くさひとかた;草で人形)を造って、微叱許智の床に置いて、偽って病気をしている人のように見せかけ、襲津彦に告げて言った。
    「微叱許智が、急に病気に罹って死にそうです」 と。
    襲津彦は、人を遣わして病人を見させた。そこで騙されたことを知って、新羅の使者三人を捕えて、檻の中に閉じ込め、火を放って焼き殺してしまった。

  • 43名無し2017/01/15(Sun) 15:06:06ID:g3MzI3MzA(2/12)NG通報

    【三国史記の新羅本紀】
    訥祇麻立干(未斯欣の兄)二年(418年)秋に王の弟で倭国に人質に行っていた未斯欣が逃げ帰ってきた。

    【『三国史記 』の列伝第五の「朴堤上」伝の記事】
    「朴堤上(あるいは毛未ともいう)は、始祖である赫居世の後裔であり、婆婆尼師今の五代孫に当たる。
    祖父は阿道葛文王であり、父親は勿品波珍飡である。
    堤上は官途に就いて歃良州(州治は今の梁山)の干(京官舎知)になった。
    これより先、實聖王元年壬寅(402)に倭国と講和を結んだのであるが、倭王は奈勿王の子、
    未斯欣(みしきん)を人質にしたいと請うた。
    王はかつて奈勿王が自分を高句麗に人質として送ったのを怨んでいたので、その子に怨恨をはらそうとしていたから、断わらずに送った。
    それから11年壬子(412)には高句麗がやはり未斯欣の兄、卜好を人質にしたいというので、大王はまた彼を送ったのであった。
    訥祗王(19代)が即位すると(417)弁舌の上手い人を捜し求め、彼を遣わし(二人の兄弟を)連れもどそうとしていた。(時に王は)水酒村干(村長)の伐宝靺と一利村干の仇里迺、利伊村干の波老ら3人が、
    賢明で智恵があるということを聞き、呼び寄せて「私の弟二人は倭・麗の二国に人質となってから数年経っても帰れずにいる。
    兄弟である故に思慕せざるを得ない。彼らを生還させたいのであるが、どうすればよかろうか」と聞いた。
    3人は口をそろえて「臣らが聞きまするに、歃良州干の堤上は、剛勇でしかも智謀があるといいます。(彼ならば)殿下の心配事を解くことができましょう。」といった。
    そこで、堤上を呼んで前に近寄せ、(上の)3人の臣下の話を聞かせてから遠行を請うた。
    堤上は「臣は愚かで不肖ではありますが、どうしてご命令を奉じないでいられましょうか」といい、
    聘礼(品物を贈る礼式作法)をもって高句麗に入り、そこの王に「臣が聞きますには、隣国と交際する道は誠信だけだといいます。
    もし(両国が)互いに人質を交換するとなりますと、五覇(中国の春秋時代、五つの覇道の諸侯)にも及ばないものでありまして、
    まことに末世のことといえましょう。今わが君の愛する弟がここに来てからほとんど10年近くなります。

  • 44名無し2017/01/15(Sun) 15:06:39ID:g3MzI3MzA(3/12)NG通報

    わが君は鶺鴒(セキレイ)が原に在る(兄弟が互いに難を救う喩・『詩経』小雅、常棣)気持で、何時までも思慕して止みません。
    もし大王が恩恵を施して帰して下されば、(大王にとりましては)九牛に一つの毛が落ちた程度のようなもので、損する所はなく、
    わが君にとっては大王を徳と思うこと計り知れないのがありましょう。王はよくお考えなさいませ」というと、
    王は、よかろうといいながら、いっしょに帰ることを許した。帰国すると、大王(訥祗)は喜んで慰めながら、
    「私は二人の弟を左右の臂のように思っていたのに、いまはただ片方の臂だけがもどっている。これからどうしたらよかろうか。」というと、
    堤上は「臣はたとえ魯鈍な才能ではありますが、すでに身を国に捧げた以上は、最後まで命を辱ないように致します。
    だが高句麗は大国でありますし、王もまた賢明でありますので、臣は一言葉で悟らせることができましたけれども、
    倭人のごときは口舌で諭すわけには参りませんから、いつわりの謀(はかりごと)を用いて王子を連れ戻すほかありません。
    臣が彼地に参れば、(大王は)臣が国に叛いたということを言いふらして、倭人たちの耳に入るようにして下さい」と答えた。
    そこで死を覚悟して、妻子にも会わずに栗浦(今の蔚山)へ赴き、舟を浮べて倭に向かって行った。
    彼の妻はこれを聞き、港の出口に駈けて行って、離れて行く舟を眺め、大声で哭きながら、「達者で行っていらっしゃい」といった。
    堤上はかえりみて「私は王命を奉じて敵国に行く。そなたは再び会えることを期待しなさるな」といい残して、
    それから一路倭国に入り、あたかも(本国から)叛いて来たかのように振舞ったが、倭王は彼を疑っていた。
    これより以前、倭に来ていた百済人が、新羅は高句麗とともに王の国(倭国)を侵攻しようとして謀っている、とそしった。
    それで倭はついに兵をやって新羅の国境の外で巡回しながら偵察させた。たまたま高句麗が来て倭の巡邏兵をみな捕えて殺したので、
    倭王はようやく百済人の言葉を事実だと思った。それに(倭王は)新羅王が未斯欣及び堤上の家族を監禁したという話を聞いて、
    堤上は本当に叛いた者だと思った。
    そこで(倭王は)兵を出動させて新羅を侵襲し、同時に堤上と未斯欣を将帥に任命する一方、(両人を)嚮導(案内)にして海中の山島に来た。

  • 45名無し2017/01/15(Sun) 15:07:08ID:g3MzI3MzA(4/12)NG通報

    倭の諸将は、新羅を滅ぼした後には堤上と未斯欣の妻子を連れてくることを密議した。堤上はそのことを察知して、
    未斯欣といっしょに舟に乗って遊び、魚や鴨を獲るふりをすると、倭人らはそれを見て、(両人には)別にこれという考えは抱いていないものと思い喜んだ。
    そこで堤上は未斯欣に、そっと本国に戻るよう勧めると、未斯欣は「私は将軍(堤上)を奉ずること、あたかも父のようにしていましたのに、
    どうしてひとりで帰れましょうか」といった。
    堤上は「もし二人がいっしょに発てば、計画が成功できなくなるのではないかと心配します」というと、未斯欣は堤上の首を抱きしめて泣きながら別れを告げ帰国した。堤上はひとり部屋に寝て、
    遅くなってから起きた。それは未斯欣をできるだけ遠くまで逃れさせるためであった。
    多勢の者が「将軍はなぜこんなに起きるのが遅いか」というので、
    (彼は)「前日舟を乗りまわし、疲れて早く起きられなかった」と答えた。(堤上が)外へ出ると、未斯欣が逃げたことを知って、
    ついに堤上を縛りあげた。
    舟を漕いで(未斯欣の)後を追ったが、ちょうど煙霧がかかり暗くて見通しがきかず、追いかけることはできなかった。
    堤上を倭王の居場所に送り届けると、彼を木島に流配してから、やがて薪でもって全身を焼いた後に斬刑に処した。

  • 46名無し2017/01/15(Sun) 15:10:27ID:g3MzI3MzA(5/12)NG通報

    【『三国遺事 』巻第一 紀異第一、「奈勿王と金堤上伝」の記事】
    第17代 那密王即位36年庚寅(390年)に、倭王の使が来朝して「わが君が大王の神聖であられるということを聞いて、
    臣に、百済の罪を大王に申しあげるようにといわれました。願わくは大王が王子お一人をつかわして、わが君に誠意をお示しくださいませんか」といった。
    そこで王は三男の美海[未吐喜とも書く]を送った。
    美海の年は10歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を副使として付き添わせて行かせた。倭王は(彼らを)抑留し、30年も帰さなかった。
    訥祗王即位3年己未(419年)には、高句麗の長壽王が使臣を来朝させ「わが君は、大王の弟君の宝海が、智慧と才芸が秀でているということを聞いて
    、両国がお互いに親しく交わることを願い、ねんごろにお招きしたいとのことでございます」といってきた。
    王は、大へん幸いなことだと思った。これをきっかけにして(両国は)和親を結び、弟の宝海を高句麗にゆかせるとともに、内臣の金武謁を輔佐と一緒に遣わした。
    (すると) 長壽王もまた抑留して帰さなかった。10年乙丑(『三国史記』には、訥祗王9年となっている。425年)になって、王(訥祗王)が多くの臣下や国中の豪侠たちを集めて、親しく御宴を設けた。
    酒が3回進められると、あらゆる音楽がはじまった。(そのとき)王は涙を流しながら群臣に向かって語った。
    「さきにわが父君(奈勿王)が、誠心から民草のことをお思いになって、愛する息子を倭に送り、逢えないままに世を去られた。
    今また私が即位してから、隣国の兵力が強大で、戦争がやまない。高句麗だけがひとり親交を結ぼうという話を持ちかけてきたので、
    私はその言葉を信じ、弟を使臣として送ったところ、高句麗もまた抑留して帰してくれない。
    私がたとえ富貴な暮らしをしていても、これまで1日とて(このことを)忘れたことはないし、泣かない日とてない。

  • 47名無し2017/01/15(Sun) 15:12:03ID:g3MzI3MzA(6/12)NG通報

    もしなんとかして二人の弟に逢い、ともに先王の廟に、過ちを謝することができれば、民にその恩を報いるであろう。
    誰かよくその謀りごとを成しとげてくれるものはいないだろうか」。
    このとき百官どもがみな申しあげるには、「このことはまことに並たいていのことではありません。
    すぐれた智略と勇気があってこそ初めて可能であります。臣らが考えますに、歃羅郡(慶尚南道梁山)の太守、堤上がよかろうかと思います」。
    そこで王が(堤上を)召して、(その意見を)聞くと、堤上が再拝して答えた。
    「臣が聞きますに、王に憂いがあれば臣下は恥ずかしめられ、王が恥ずかしめられれば臣下は(君のために)死ぬ、といいますから、
    かりそめにも、たやすいか、難しいかと、見きわめてから行動するようなことは不忠であります。
    (また)死ぬか生きるかなどを考えながら行動するのは、勇気のないものといえましょう。
    臣はたとえ不肖なものでありましょうとも、御命をお受けしまして実行いたします」。
    王はたいへん喜び、杯を交わして飲み、手を握って別れた。堤上は簾前(御前)で命を受けてから、北海の路に向って走り、変装して高句麗に入った。
    宝海のいる所へいって、逃げる時期を一緒に計画した。(堤上が)まず、5月15日、高城の河口に来て待機していた。
    約束の日がせまってくると、宝海は病だと称して、数日の間、朝会にも出ず、夜中に逃げだし、高城の海辺にたどりついた。

  • 48名無し2017/01/15(Sun) 15:12:18ID:g3MzI3MzA(7/12)NG通報

    王が逃亡したことを知って、数十人をくりだし、あとを追わしめた。
    高城に着いてから(宝海に)追いついたが、宝海は高句麗にいたとき、まわりのものたちに恩を施していたから、
    追手の兵士たちは(宝海を)可哀想だと思い、みな鏃(やじり)を抜いてから射た。
    それでついに無事に帰ることができた。王は宝海を見てからというものは、ますます美海を思うようになった。
    一方では喜びながら、一方では悲しみ、涙を流しつつ左右のものにいうには、「(いま私は)あたかも一つの体に片方だけの腕があり、
    また一つの顔に、片目だけがあるような気持だ。たとえ片方が得られたとしても、片方をなくしていては、どうして悲しくなかろうか」。
    ときに堤上がこの言葉を聞き、(王に)再拝して別れを告げ、馬に乗って自分の家にもたちよらずに、まっすぐ栗浦の浜辺に来た。
    彼の妻がこのことを聞きつけ、やはり馬を走らせて追い栗浦に着いた。見ると夫はもはや船の上である。
    妻が切なく呼んだけれども、堤上はただ手を振るだけで、船を止めずに(そのまま)倭国に向かって行ってしまった。
    (倭国に着いた堤上は)いつわって、「鶏林王が自分の父兄を、なんの罪もないのに殺したので、逃げてここに来た」というと、
    倭王はその言葉を信じ、家を与えて安らかに暮らすようにした。堤上はいつも美海のお供をして海辺へ行き、海辺で遊びながら魚や鳥を捕ったりした。
    捕ったものをいつも倭王に差しあげた。王は大変喜んで、疑いをはさむようなことはなかった。
    たまたま霧がかかって薄暗いある日の夜明け方、堤上は美海にいった。「逃げるのは今です」。
    美海が「ではいっしょに行こう」というと、堤上は「臣がもし行けば、倭人が気づいて追ってくるでしょう。
    臣はここに止まって、追手をくいとめましょう」といった。美海は「いまやそなたと私は父兄と同じようなものである。
    どうしてそなたをおいて、私ひとり帰れようか」といったが、堤上は「臣は公の命を助け、大王のみ心を慰めれば、それで十分であって、
    生きのびることなどは望みません」といって、酒をつぎ美海に進めた。
    そのとき、鶏林の人の康仇麗が倭国にきていたので、その人にお供をさせて送った。堤上は美海の部屋へ入っていって、翌朝までそこにいた。

  • 49名無し2017/01/15(Sun) 15:13:38ID:g3MzI3MzA(8/12)NG通報

    >>46は翻訳機能を外して読んでくださいorz

  • 50名無し2017/01/15(Sun) 15:23:04ID:g3MzI3MzA(9/12)NG通報

    そのとき、鶏林の人の康仇麗が倭国にきていたので、その人にお供をさせて送った。堤上は美海の部屋へ入っていって、翌朝までそこにいた。
    召使のものらが部屋の中へ入って(美海に)会おうとすると堤上が出てきて断わっていうには、「(美海は)昨日、狩りのため走りまわり、疲れがひどくて起きられない」。真昼をすぎると、倭人たちが怪しんでさらに尋ねるので、
    「美海は(自分の国へ)行ってしまった。もうだいぶんたっている」といった。
    召使たちが急いで倭王に告げると、倭王は騎兵を出してあとを追わしめたが及ばなかった。
    そこで堤上を捕え「お前はどうしてこっそり王子を逃したのか」と問いただした。
    堤上が答えていうには、「私は鶏林の臣であって倭国の臣ではない。
    いまはただわが君の志を叶えてあげたかっただけだ。あなたにことさら何をいう必要があろうか」。
    倭王が怒って、「いまお前はすでに私の臣下となっている。
    それなのに、鶏林の臣だなどというならば、かならず五刑を(お前のために)用意する。
    もし倭国の臣であるというなら、重い禄をほうびとして与えよう」といったが、堤上の答えは、
    「むしろ鶏林の犬、豚となっても、倭国の臣にはなりたくはない。むしろ鶏林の刑杖ならば受けてもよいが、倭国の爵禄は受けたくない」であった。
    王は怒って、堤上の脚の皮をはぎとり、蒹葭(けんか)(荻)を刈ってきて、その上を走らせ
    〔いま荻の上に血痕があるのは、俗に堤上の血であるといわれている〕、それからさらに尋ねた。
    「お前はどこの国の臣なのか」。堤上が「おれは鶏林の臣だ」と答えると、
    こんどは堤上を熱した鉄の上に立たせておいて、「どこの国の臣か」聞いたが、
    なおも「鶏林の臣だ」と答えたので、とうてい屈服させることはできないと悟り、木島へつれていって焼き殺してしまった。

  • 51名無し2017/01/15(Sun) 15:28:49ID:I4NTU0MzA(1/2)NG通報

    >>32
    >볼모로 일본에 간 백제 왕자들은 그저 인질로 억류되어 있던게 아니라 일본 조정에서 중책을 맡아 국사를 돌보는 일을 합니다.

    誰の紀のなんて記事?
    いくつか挙げてくれない?

  • 52名無し2017/01/15(Sun) 15:49:07ID:IxNDk1NQ=(4/4)NG通報

    >>35 그걸 지금 추진중입니다.
    일본은 백제의 식민지로 미국같이 영국의 식민 국가였어요
    백제사람이 열도라는 불모지에가서 무에서 유를 창조한겁니다.
    백제와 가야 사람이 정착한후 7세 무렵에 일본이라는 국호를 주고 여기까지 온겁니다.
    아버지 같은 백제가 망하자 이제 더이상 조상의 땅을 밟을수 없구나
    일본인들이 엉엉울며 탄식했다고 일본서기에 기록돼 있어요
    차츰 시간이 흐르고 고국을 그리워 하는 마음에 임진왜란과
    한일 합병을 추진한겁니다.

    임진왜란은 왜 조상의 땅인데 우리가 가지 못하는가?
    한일합방은 그야말로 내선일체 조상님의 땅을 되찾는것

    이걸 한국인들이 착각하고 있는 겁니다. 이런 역사적 진실을 바로잡기위해
    노력해야 합니다.

    일본은 한국것 한국은 일본것 모두 맞는 말이다.

  • 53名無し2017/01/15(Sun) 16:02:40ID:g3MzI3MzA(10/12)NG通報

    >>52
    日本書紀は読みましたが、泣いたとか嘆息したと書いてなかったと記憶しています。
    おそらくあなたは欽明天皇の話を書いているのでしょう。
    曲解するのは止めた方がいいですよ。

    「朕疾甚、以後事屬汝。汝須打新羅封建任那、更造夫婦惟如舊曰、死無恨之。」
    「朕(私)は病気が重い。後の事をお前に引き継がせよう。お前は新羅を打ち、任那を再建するべきだ。
     また任那と夫婦となって、昔のようになれば、死んでも恨むことは無いだろう」

  • 54名無し2017/01/15(Sun) 16:17:09ID:I4NTU0MzA(2/2)NG通報

    >>53
    韓国人がよく言ってるのは、
    天智紀の「國人相謂之曰「州柔降矣、事无奈何。百濟之名絶于今日、丘墓之所、豈能復往。但可往於弖禮城、會日本軍將等、相謀事機所要。」」のことでしょう。

    どう見ても百済人の言葉だけど。

  • 55名無し2017/01/15(Sun) 16:21:26ID:g3MzI3MzA(11/12)NG通報

    >>52
    軽く読み返しましたが、天を仰いで嘆息して涙を流したのは百済の聖明王だと思います。
    日本人ではありません。

    明王、仰天、大憩涕泣、許諾曰「寡人、毎念常痛入骨髄、願計不可苟活」乃延首受斬。
    明王は天を仰ぎ、大いに嘆息し涙を流した。斬ることを承諾して言うに、
    「私は念じるごとに、常に骨身に沁みる苦痛をなめてきた頼むから、万が一にも活き残らないように」
    と言って王は首を伸ばして斬られた。

  • 56名無し2017/01/15(Sun) 16:21:55ID:g3MzI3MzA(12/12)NG通報

    >>54
    それっすかありがとうございます

  • 57名無し2017/01/15(Sun) 16:55:43ID:A5MTY4MzU(1/1)NG通報

    確かに恥ずかしいよなあ。
    自国の最古の歴史書に〝かつて王族を人質として度々倭国へ送っていた〟なんて記されてたら捏造してでも否定したくなるよ。
    分からなくもない。いや、分かりたくもないけど。

    でもさ、御託以前にまず史実が有るんだよね。
    好太王碑然り、日本書紀然り、御宅の立派な三国史記(笑)然り。
    揃って同じ事を記してる。

    『確かに三国史記には人質を送ったと記してあるが、これは事実じゃない。捏造だ。』
    じゃあ、それを捏造とする根拠を出してみろよ、朝鮮人。

    漢字も碌に読めない奴が歴史を語るな。
    最低限、まずは同じ土俵まで上がって来い。

  • 58名無し2017/01/15(Sun) 20:10:21ID:g3NjQ1MTA(2/2)NG通報

    そもそも、韓国人はなぜ古代史を語る際に、中国の歴史書は参考にしないんだろう?

  • 59名無し2017/01/16(Mon) 10:28:32ID:U3OTgwOTI(1/1)NG通報

    >>58そりゃ韓国だからでしょ。

  • 60名無し2017/01/16(Mon) 11:28:38ID:c2ODI5MjA(1/1)NG通報

    어차피 백제 , 고구려는 한국인의 직계조상도 아닌데 뭐 백제 고구려 인은 신라에게 멸망당해 노예로 살았기 때문에 백제가 인질을 보내던 말던 알바가 아니다.

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