>>34
恥ずかしい説明はやめてください。
イナカモンですか>>24
中國은 外國에서 朝貢使節이 오는 것을 철저하게 記錄했다. 當時 唐은 宰相 李林甫의 急死(天寶 11载 11月)로부터 李氏族의 肅淸(12载 2월)까지 政治的으로 政權交替의 激變期에 해당했기 때문에 唐 玄宗에게 文武百官이나 外國使節으로부터 拜朝를 받을 만한 여유는 없었다. 정식적인 朝賀儀禮가 행해지는 것은 3月에서야 가능했다(王勇, 「聖德太子時空超越」(1994)).聖徳太子の時代には既に学ぶべきものが無かった。
わざわざ百済から招へいした僧が、質問に答えられない。
他の学問でも、同じような事例ばかり。
だったら、もっと良く知っている中国に行くしかないよね。
もっともその中国にしても。200余年後には、日本から「必要ない」の判断を下されるのだけれど。『朝鮮通信使の日記』1764年1月28日 京都
街の繁栄では大阪には及ばない。しかし倭王(天皇)が住む都であり、とても贅沢な都市だ。
山の姿は勇壮、川は平野を巡って流れ、
肥沃な農地が無限に広がっている。この豊かな楽園を倭人が所有しているのだ。悔しい。
「帝」や「天皇」を自称し、子や孫にまで伝えられるのだ。悔しい。
◆この犬のような倭人を全て掃討したい。
◆この土地を朝鮮の領土にして、朝鮮王の徳で礼節の国にしたい。『朝鮮通信使の日記』1764年2月3日 名古屋
街の繁栄、美しさは大阪と同じだ。凄い。
自然の美しさ、人口の多さ、土地の豊かさ、
家屋の贅沢さ…この旅で最高だ。
中原(中国の中心地)にも無い風景だ。朝鮮の都も立派だが、名古屋と比べると、とても寂しい。
人々の美しさも最高だ。特に女性が美しい。美しすぎる。あれが人間だろうか?
「楊貴妃が最高の美人だ」と言われているが、
名古屋の女性と比べれば、美しさを失うだろう。
(帰路にて)
名古屋の美人が道を歩く我々を見ている。
我々の一員は、名古屋の美人を一人も見逃さないように、頭を左右に必死に動かしている。ここは遣唐使.遣隋使、遣新羅使,遣百済使のスレだよ
朝鮮通信使のスレじゃない『朝鮮通信使の日記』1764年2月16日 江戸(東京)
左側には家が連なり、右側には海が広がっている。山は全く見えず、肥沃な土地が無限に広がっている。
楼閣や屋敷の贅沢さ、、人々の賑わい、男女の華やかさ、城壁の美しさ、橋や船…。全てが大阪や京都より三倍は優っている。
この素晴らしさを文章で表現する事は、私の才能では不可能だ。
女性の美しさと華やかさは名古屋と同じだ。『日本の技術を学んで帰った通信使』
日本を訪れた通信使たちは、日本でなにを見、いかに感じて帰国していたのであろうか。
室町時代前期の1429年、日本にきた朴端生は、次のように復命していた。それによると「日本の農人水車の設けあり」として、学生の金慎に「造車の法」を精査させて模型を作り、鍍銀(銀めっき)、造紙(紙漉)、朱紅、軽粉等の製造法を報告している。
この時の復命では、日本の貨幣経済の実態や店舗商業の発展等にも及んだが、その中で技術に言及していたのは、渡航前に世宗から「倭紙堅靱、造作の法また宜しく伝習すべし」と、日本の技術を導入するよう命じられていたからである。
これに対して日本では、朴端生が日本を訪れる百年以上も前に、水車を利用して離宮に川の水を汲み上げた話が『徒然草』(第五十一段)に記されている。
その水車が農民たちの手で取り付けられていたことを考えると、当時、日本と朝鮮の間には相当の技術格差があったことがわかる。
したがって、韓国の歴史教科書にあるように「技術を学ぶのに苦労していた」のは、日本側ではなくむしろ朝鮮の方であったのである。
そして、この現実は後世、実学者と呼ばれた人々が日本や清との技術的格差を深刻に捉え、
その導入方法に苦慮していたことでも明らかなように、近世に入っても変わりがなかったのである。>>25
金泰廉은 新羅 王子를 詐稱한 사기꾼이란 것이 定說이다.
1. 『三國史記』와 『三國遺史』에 따르면 景德王은 金乾運(惠恭王, 758年生) 以前에는 자식이 없었으므로 753年에 訪日한 "新羅王子 金泰廉"의 存在는 成立할 수 없다(金恩淑, 「8세기의 新羅와 日本의 關係」 『國史館論叢』第29輯, 1991, pp. 123).
2. 金泰廉과 新羅 朝庭에서 취한 對日자세가 서로 判異하다. 일본 조정은 金泰廉의 주장을 믿고 753년에 小野田守를 新羅에 파견했지만, 日本 使臣이 無禮하게 굴었다는 이유로 景德王은 이들을 接見하지 않았고 일본 사신은 별 成果없이 歸國해야만 했다(『三國史記』 景德王 十二年 秋八月 條, 李炳魯, 金龍一, 「 752년 신라사 김태렴의 방일 목적에 관한 연구」『日本語文學』第34輯, 2006).
3. 金泰廉은 "口奏"로만 景德王의 立場을 전달했을 뿐, 公式的인 文書는 持參하지 않았다.
歷史를 論하는데 있어서 史料의 交叉檢證은 必須다.>>25
席次論爭에 관해서는 13, 14, 17, 20번 스레를 參考하십시오.「"使用人"という言葉は"人を使用する"対象を表すもので、別に下の人間という意味じゃない。でも相手は下と思ってるかもしれないけど。
そうか、やっぱり勘違いしちゃったか」という説明者。
なんか、ふとん詐欺とかやってません?wえ? 日本の東大の左巻き歴史感も相当変だと思うけど・・・?
唐は大宰都督府を造って進駐軍を敷いていたから、普通に日本を支配していたけどな。
>>52
金泰廉이 王子를 詐稱했다는 說은 이미 和田軍一(〈淳仁朝における新羅征討計劃について〉《史學雜誌》35-10·11), 鈴木靖民(〈正倉院佐波里加盤付屬文書の基礎的硏究〉(《古代對外關係史の硏究》)), 濱田耕策(〈新羅中·下代の內政と外交〉), 石井正敏(〈八·九世紀の日羅關係〉)와 같은 學者들에 의해 提起된 바 있다. 『三國史記』 聖德王 32年條에는 聖德王의 조카로 金志廉이라는 인물이 言及되는데, 新羅時代 王族 中에 金法敏처럼 兄弟 間에 돌림자를 썼던 경우가 있으므로, 金泰廉이 金志廉와 兄弟關係, 卽 景德王과는 四村關係일 가능성이 있다(金恩淑, 「위와같음(1991)」). 『三國史記』 景德王 4年條에 "葺東宮"이라고 한 것이나 752년 8월條에 "置東宫衙官"이라고 한 것은 金泰廉을 東宮으로 冊立했다고 볼 수도 있을 지도 모르나, 가능성은 極히 낮다고 본다.>>56
漢字熟語の作り方がわからない、と言ってますか?
明治以降日本の漢字熟語の作り方は一緒ですよ。
例えば"文末決定法"の反対は"文頭決定法"。
でもこんな言葉はありません。
それでも意味は通じるのが、日本人の漢字使用能力の他国に優る優れた部分です。
そして、それを貶めることを目的とする意見も日本人ならすぐにわかりますし、その意見の者の心の貧しさもすぐわかります。
本質を変えて自分の貧しい愉悦感だけを目的とした知識を持つ者はこれに相当します。
「知識はそれ自体を目的として求むべきではなく叡智獲得の手段として求むべきである。この目的にまで到達せざる者は、便利な機械に過ぎない」
あなたのことです。
「屁理屈」という言葉を持つ日本人なら感覚的にわかります。外国人にはこの感覚が無い場合があります。アメリカ人ならどんな屁理屈でも、まずは評価されます。
日本では屁理屈屋を「馬鹿」と呼びます。しかし本当に漢字が不得手な者の可能性もあるな。
外国人なら、一見文章で普通に見えても、意外なところで話が通じない場合もある。
もし外国人なら英語で答えて下さい。>>3
途中で「混ざり物」を入れられると困るから・・だと思います。So what みたいなことを言いたかったんだろうか。
>>61
接続詞の後には文章を付けた方がよいですよ。>>52
金泰廉의 訪日에 "調"를 假裝한 무역의 目的이 강했음은 韓日 史學界 둘다 異見은 없을 것이다. 나아가 金泰廉이 “新羅는 日本의 朝貢國이다”고 함으로써 적어도 金泰廉 一行은 日本政府로부터 ‘安置․供給’의 대상이 된다. 宗主國-朝貢國의 關係에 있어서는 當然히 宗主國이 그 滯在費를 부담하게 되어 있는 것이다. 金泰廉은 아마도 그러한 점을 노렸을 것이다.(心の声)
しまった本当に向こうの人だったのかも
どうしよう>>66
여담으로, 위에서 언급한 金泰廉의 兄弟일지도 모르는 金志廉이란 인물이 唐에 宿衛한 적이 있다. 金泰廉도 똑같은 과정을 거쳤을 지는 알 수 없지만.>>49
저건 누가 봐도 비꼬는 거잖아....>>72
倭 5王의 冊封記事<- 冊封은 아무런 實效性이 없는 名目地位에 不過하다. 韓國의 事例를 들자면, 新羅王은 唐으로부터 수차례(624년 3월, 635년, 647년 等) 樂浪郡公(혹은 樂浪郡王)에 封해졌는데, 樂浪郡은 오늘날의 平安道 지역으로 高句麗의 首都 平壤이 位置해 있던 곳이다. 그러나 唐의 冊封 初期 新羅의 影響力은 樂浪郡까지 미치지 못했다. 百濟 같은 경우도 武王, 義慈王이 帶方郡王에 封해졌으나 當時에 帶方郡(오늘날의 黃海道 지역)은 高句麗에 屬해 있었다. 威德王은 北齊로부터 東靑州(지금의 山東省에 있던 地名)刺史에 封해졌지만(571년), 해당 지역을 實效支配한 적은 없다. 南朝는 倭 5王이 요청한 爵位에서 항상 百濟를 제외시켰는데, 이는 南朝 中心의 冊封體制에서 百濟王의 爵位가 항상 倭王보다 높거나 동등했기 때문이다.
그 예로 백제가 고구려의 공격을 받아 漢城이 함락되자 倭王이 요청하는 冠爵에 백제를 임의로 포함시켰으나 中國이 이를 제외하고 冊封해 주었는데, 이는 당시 宋과 외교관계가 없었던 新羅·任那·加羅와 같은 실존의 국가나 秦韓·慕韓과 같은 가공의 국가 이름을 나열한 爵號의 사용을 허용한 것이고, 백제에 대해서는 현실적인 勢力關係를 분명히 따져서 단호하게 제외시켰던 것으로 해석하고 있다(최성락, 「전남지역 고대문화의 성격」 『國史館論叢』 第91輯, 2000).
廣開土大王碑<- 일단 학자들마다 여러 說이 있지만, 그 當時 韓半島 南部에서 倭軍의 軍事的 活動이 있었던 것은 부정하지 않는다.수나라에서 왜국으로 답서를 보낸 사람의 관등은 수나라 18관등 중 16관등 한마디로 왜국은 나라 같지도 않아서 하위 공무원을 보낸거다. 미국에 보내는 대사와 아프리카에 보내는 대사가 직급이 같을 수가 있나.
수나라의 양제가 왜국의 국서를 받고 기분이 좋지 않았지만 수양제도 오랑캐가 예의 없는게 미개해서 그런거라고 이해하고 넘어갔다. 당시 중국이 인식하던 일본이 저런 수준이다.>>74
素晴らしい認識です。あなたみたいに頭が良い韓国人もいるんですね。
現在G7である日本やアメリカが韓国を見ている感じと同じだと思うので現韓国人の礼儀の無い態度ははずかしいことですよね!>>68
朝貢に関するごまかしかたは日本的外交な感じがするから日本側の親新羅派が入れ知恵したかもしれないね。
どちらにしても金泰廉も親新羅派も日本が渤海よりになってしまっているから無能である。
金〇廉の一族は752年では王位継承権があって、その後の外交の失態続きで王族の歴史からは消された可能性もある。
新羅の政治体制を考えると各豪族の資料があれば対日外交はもっとわかりそうなのに残ってないのが残念。日本に王子を人質に差し出す国へ何の勉強に行くんだ?
半島は大陸への道の一つである。それいじょうでもそれ以下でもない
>>74
まさか知らないで書いてるとは思わないけど、
貴方が言ってる、隋書倭国伝で「日出處天子致書日沒處天子無恙」と書いてある前のくだりには「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。(新羅、百濟皆以倭為大國、多珍物、並敬仰之、恒通使往來。)」と書いてあるんだな。
未開な野蛮人を敬い仰いでたとは高度な自虐ですねぇ。>>82
日本は半分東南アジアみたいなものだから、
中華思想から見てどれほど見下されてるか知ってるよ。
朝鮮からもどれだけ見下されてるか知ってるよ。
まさか知らないと思ってる?>>82
東南アジアで韓国の横柄な振舞いには、負けますよ!
あなた達は、まだ新興国ですよ、しっかりしなさい。日本の天皇は朝鮮諸国の王みたいに自分の王権に対して中華のお墨付きを貰わなくても良い程に権威が確立されてたから、
中国にへりくだる必要がなかったというだけの話だわな>>1
面白い考察です。- 87名無し2021/08/17(Tue) 17:39:40(1/1)
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遣唐使.遣隋使はあるのに遣新羅使,遣百済使はないの?
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