当時タイ北部国境のクンユアム周辺でも、ミャンマーへ通じる道路整備が行われ、タイ人のほか外国人労働者も多く動員されていた。しかし、チューチャイ氏が聞き取った話の中に、カンチャナブリのような悲劇的な話はない。
そこには、日本兵と村人たちとの友情や日本兵とタイ人女性との悲恋や心の触れ合いが多く語られている。しかし、こうした話は残念ながら現在に至るまでほとんどの日本人は知らない。そして、その記録を後世に残すことに生涯をかけた一人のタイ人がいたこともだ。
現在、チューチャイ氏の著書はアマゾンなどでも購入できるので、ぜひご一読いただければと思う。そこに何を思い至るのかは、読者の判断に委ねるのみだが、そこには、紛れもなく日本人が知るべき歴史の真実があることを、少しでも多くの日本人に知ってもらいたいとの願いが込められている。
なお、現在クンユアムに設立されているタイ日友好記念館は、チューチャイ氏が集めた遺品の数々が展示されているものの、氏が伝えたかった趣旨とは遠く離れたものとなっている。このためチューチャイ氏は生前、今一度チェンマイの地に戦争博物館を設立したいと奔走していた。
しかし、その志半ば2016年1月18日に逝去されてしまった。私は幸いにも、生前のチューチャイ氏にインタビューし、直接お話を聞く機会を得ることができた一人として、その思いを伝えるべく本稿を執筆している。そして今後も、折に触れチューチャイ氏が書き残した想いを書き伝えていきたいと思う。
http://www.globalnewsasia.com/article.php?id=5841&&country=2&&p=3#photo第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出
https://www.amazon.co.jp/dp/B07RP6FJ81
Kindle Unlimitedなら無料で読めます。>>1
2019年8月15日の終戦記念日、毎年タイ各地にある慰霊塔でも追悼法要が営まれ、戦火に散った英霊を弔う。戦時中に旧日本軍が実質的に支配したここタイでも北部チェンマイなどで法要が営まれている。かつてそこに参列したタイ人の中に、当時の記憶と記録を後世に残すことに生涯を捧げたタイ人元警察署長がいたことは人々の記憶から忘れられつつある。
チューチャイ・チョムタワット元警察中佐が、1995年(平成7年)から警察署長として赴任したタイ北部ミャンマーと国境を接するメーホンソン県のクンユアムは、悪名高きインパール作戦の出発基地であり、作戦失敗後の白骨街道の帰結地であった。チューチャイ氏は、同地に赴任してすぐに各家に日本兵たちの遺品がたくさん保管されていることに気がついた。
村人たちの話を聞いているうちに興味を掻き立てられた氏は、やがて遺品を集め、村人たちの話を書き留めて膨大な資料を収集した。そして集められた遺品はやがて、日本人有志の賛同も得て旧日本軍博物館として展示された。村人たちから聞き取り集められた話の数々は「第二次世界大戦でのクンユアムの人々の日本の兵隊さんの思い出」として一冊にまとめられた。
そこには、同じタイ国内カンチャナブリでの泰緬鉄道建設にまつわる旧日本軍の所業として、世界中に喧伝され、日本人ですら刷り込まれている戦時中の日本の姿とは全く違うストーリーが書き記されている。ww2を実際に生き抜いた東南アジアの人々が「酷い事をした連中は日本人じゃない日本兵だった」と言う証言に対して朝鮮人は何を思うか。
- 5去年まではチベスナ(8月15日は「月遅れ盆」お盆にも利権問題がありまして、元は陰陽寮管轄だったのが江戸初期に不祥事突かれて寺社奉行に管轄権を奪われたとか。生臭い話でした)2019/08/15(Thu) 09:44:16ID:UwOTE0NDU(1/1)NG報告
メーホンソーン方面の街だっけ?
タイーミャンマー国境は面白くって、何度か不法入出国(きっともう時効成立!)をしたことがあるけど、生憎とメーホンソーン方面には行ったことは無いの。
タイ国境の町の路地歩いてたらいつの間にやらミャンマーに!なんてこともあって、初めての時はすごく慌てちゃった。
カンチャナブリは悲劇みたいに言われるけどさ、映画「戦場にかける橋」なんかの影響が大きいんじゃないかな。当時のUS軍にしたら悲惨だろうし。
クンユアムの話は知らなかったよ。機会があったら行ってみたいと思うな。 「日本兵のほぼ全員が死んだペリリューの戦い・・・」
http://www.gekiyaku.com/archives/47632495.html
ペリリューの戦い
太平洋戦争中の1944年(昭和19年)9月15日から1944年11月25日にかけペリリュー島(現在のパラオ共和国)で行われた日本軍守備隊(守備隊長:中川州男陸軍大佐)とアメリカ軍(第1海兵師団長:ウィリアム・リュパータス海兵少将、第81歩兵師団長:ポール・ミュラー陸軍少将)の陸上戦闘をいう。
要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法を用いるという日本軍が見せた組織的な抵抗、戦術は、後の硫黄島の戦いへと引き継がれていくことになる。
損害
日本軍
戦死者 10,695名
捕虜 202名
最後まで戦って生き残った者34名
アメリカ軍
戦死者 2,336名
戦傷者 8,450名 ※この他に精神に異常をきたした者が数千名いた。(陸軍歩兵第81師団だけで2,500名)
一般人民
陣地構築に徴用されていたが、日本軍が戦闘前に強制退避させたため死者・負傷者ともに0名とされる。
ある老人が若い頃日本兵と仲良くなり、戦況が日本に不利となった時「一緒に戦わせて欲しい」と日本兵隊長に進言したが「帝国軍人が貴様らなどと戦えるか!」と激昂され、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、島を離れる船に乗り込んだ。が、船が島を離れた瞬間その隊長を含め日本兵が手を振って浜へ走り出てきた。老人はその時、隊長が激昂したのは自分達を救う為だったと悟ったという。今から50年前、私は中学生だった。まだ田中角栄が日中国交回復を果たす前だった。その中学校の吹奏楽部がスーザーのマーチを演奏して賞を獲得した。星条旗よ永遠なれ、だった。何故星条旗?これを先生に聞くことはタブーだった。今考えると、自虐史観教育の延長だったのだろう。
中学生の頃、戦争中の国民が英霊を讃えるために海行かばを歌う場面があった。清らかで胸に迫ってくる歌だと思い、何故戦後の今歌われないのか不思議に思っていた。それらは軍国主義の名の下に排除されたのだ。
現代の今、日本軍について見直されていくのはいいことだと思う。こういう埋もれていた歴史が掘り起こされるのは更にいいことだ。
戦没者追悼式で国民がまた海行かばを歌えるようになってもらいたいと思う。>>7
다나카 가쿠에이wwww 제가 태어나기 무려 25년 전의 일본 총리네요. 할아버지 안녕하세요>>8
相手に敬意を持って接すると言う当たり前の事が出来るか出来ないかの話だよな。
9の様な未開な民族には理解出来ないだろうが。
【タイ】北部国境に埋もれた「日本兵とタイ人の友好」を後世に伝えた元警察署長
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