日本政府が用意した専用機で各地より羽田空港に来日し、政府が用意した東京都内の専用宿舎に滞在した。各宿舎での料理の提供などは帝国ホテルが担当する。
この会議は、近代史上初めて有色人種のみが一堂に会して行われている首脳会議であった。
当時の日本やその同盟国がイギリスやアメリカなどの旧宗主国を放逐したことにより独立を果たしたアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われ、「それまでの植民地対宗主国の主従関係にとらわれたものでなかったため会議はきわめて和やかに進められ、一家族の集会のようであった」という回顧がある。
また「大東亜共同宣言はイギリスとアメリカが提唱した大西洋憲章に対抗することを目指していた」という評価もある。
日本の重光葵外相には和平や戦後構想にむけて、長年欧米諸国の植民地として搾取されていた各国の独立構想があったとされる。
会議開催に先立ち日本によるビルマの独立承認(8月1日)、フィリピンの独立承認(10月14日)、大東亜省の設置(11月1日)が行われている。
【参加国】
・中華民国(南京)国民政府:汪兆銘行政院長
・満州国:張景恵国務総理大臣
・フィリピン共和国:ホセ・ラウレル大統領
・ビルマ国:バー・モウ内閣総理大臣
・タイ王国:ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)
・インド:オブザーバーとして参加(チャンドラ・ボース)イギリスの植民地支配下にあったインドは、日本と協力しインド全土のイギリスからの完全独立を目指していた。
・インドネシア:日本と友好関係にあるフランスのヴィシー政権の植民地のままであったため参加していない。
・その後、日本による、インドネシアの独立承認、ベトナムの独立承認、ラオスの独立承認が行われているが、日本敗戦により、旧宗主国のフランスにより接収された。
【大東亜共同宣言】アジア諸国による宣言は 2以降。>>8
韓国人は、第19師団 20師団だったろ。
中国攻略で活躍してたろ。天皇=在日100世
なんてさことだ
当時の、朝鮮軍なんて、
ぜんぜん、日本とアジアの役に
なってなかったろ(笑)もう少し時間があったら、アメリカと戦うことができたかもね
日本とアジアが一つになってたらな
中国戦に手間どったのが悪かった。>>1
張景恵って張作霖の右腕じゃね。
錚々たる顔ぶれだ。
満洲イスラム教徒騎兵団ってなに(ノ゚ο゚)ノ
白系ロシアぎゆうぐん??
インド国民軍がおる。
すげえなマジで。>>8
あんたは主催者側だ。
重要なポストだ面白いんだから
誰か語れ。
自分で調べるのは少々めんどくさいので戦後の韓国を見ろよ。
すっかり中国の歴史感に染まって
中国と一緒に日本は悪だからな…
韓国は、歴史を金で買ってるゲスな国だよ。
なぜ、他のアジアの国々が日本を責めないのか不思議で仕方ないようだ。
多くのアジアの義勇軍が日本と共にあった事実も知らない。
どっちが歴史を忘れてんだよ?これはなかなか・・・
中国の回教徒人口は正式発表と十倍ほどの開きがあるそう。
満州はムスリムがいたのか。奉天などはかなり歴史の長い都市だから、
シルクロード時代以来の西域人が数多いたと考えられるそう。
どうりで。軍閥時代に抗日軍が回族軍閥と戦闘したりしてるのだが、利害関係がわからなかった。
大陸派は必ずしも日帝側とは限らず"義"に通じて戦った。
かつて日本は英国要請でモンゴル支援を途中で停止。その際に多くの者が離脱してモンゴル支援に残った。
さらに抗日東北義勇軍の創設頭目は日本人馬賊で、実はその軍歌が今の中国の国歌になっている。そして半島の戦争で米軍に猛反撃をした中国側の軍というのも、実は漢族軍ではなく上述の系譜となる。
ここの軍区はいまでも背景に日本の後援があると言われている。
やっぱスケールが違うな。>>18
ですよね。
どんな教育をうけてるんだろうなぁと思います。どっちかというと東北義勇軍が腰を落ち着けたのは北朝鮮だからな。
東北聯軍という共産系の軍もあったのでこっちが主体かも。
ここでは本当に東洋の戦さの延長であって、
元々は絶対善悪論で事を構えたりはしていなかった。
欧米思想の介入で憎悪のぶつけ合いになってしまった。ダイナミックな歴史を単純にしたのが韓国だからな。
戦争にまけた=悪
戦争に勝った=善
韓国にとって日本は永遠に
悪でなければならないない表立って反抗した北側と違って、
対日協力者側と判断されれば戦犯の訴追を受ける可能性もあるからだろう。
そういう意味では戦時中から抗日運動で名が知られた金日成は、
北では必要不可欠な存在だったんだな。別人説あるけど。
だが満州付近の勢力なんて満人や漢人で日本側の者もいれば、逆もいる。
朝鮮人も日本側にたくさんいただろう。
そのことの批判が怖いんだろうね。【同盟国】 中華民国(南京)国民政府について
1940年に重慶の蒋介石政権に対抗して汪兆銘が南京に立てた政権について説明します。
汪兆銘政権(おうちょうめいせいけん)は1940年から1945年にかけて中国に存在した中華民国の政権。行政院長(首相)は汪兆銘。首都を南京としていたことから、当時の日本では南京国民政府(なんきんこくみんせいふ)とも呼んでいます。
汪兆銘は日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日には蒋介石とは別個の国民政府を南京に樹立。
自らの政府を国民党の正統政府であるとして、政府の発足式を「国民政府が南京に戻った」という意味を込めて「還都式」を宣誓する。
政府発足後 ドイツ、イタリアやタイ、フランスのヴィシー政権や満州国などの枢軸国やバチカン、ハンガリー、ルーマニア、スロバキア、スペイン、クロアチア、ブルガリアなどが国家として承認した。
【参戦と「主権の回復」】
1943年1月9日、独立政府としての実力を整えた汪兆銘政権は米英に対して宣戦を布告し、
同時に日本との間に日本が中国で保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃に関する協定を締結。
さらに、イタリア政府は1月14日に自国が保持していた専管租界の返還と治外法権の撤廃を宣言し、
フランスのヴィシー政府は翌2月23日に自国が保持していた4ヵ所の専管租界の返還と治外法権の撤廃を声明した。
これにより辛亥革命以来、中国の開放に不可欠な要件とされた不平等条約の中核である「治外法権の撤廃」と「租界の回収」が実現し、中国による完全なる独立が現実のものとなった。(日本、その他の同盟国が、正式に中国に領土を返還をする協定がなる)
【消滅】
だが、日本政府は日本軍の戦況悪化と共に重慶政府(蒋介石政権)との和平を目指すようになり、
さらに中国民衆の支持も得られなかったことから中華民国は孤立。
日本がポツダム宣言を受諾して間もない1945年8月16日に中華民国は消滅・壊滅した。
【中華民国の軍事的動き】
汪兆銘政府の軍隊は、日本から物質的支援を受けていたものの日本軍とは全く協力せず、
重慶の蒋介石政権と共通の敵であった毛沢東が率いる共産ゲリラに対して攻撃していたという。
そのため日本軍からすると軍事的価値は少なかったと言われている。【日本による支援を受けた組織(中国)】
石家荘白系ロシア人義勇軍(元、ソ連軍軍人によるパルチザン部隊)
1917年のロシア革命とそれに続くロシア内戦により本国を離れ、
満州国内に居住していた白系ロシア人(白系露人)組織。
1941年の関特演の際、白系露人事務局長アレクセイ・バクシェーエフ(ロシア語版)(元白衛軍中将)が、祖国復興を熱望する青年約100名を自主的に動員し関東軍に協力を申し出た。
日ソ開戦場合に西(北)方面では一部兵力で持久し、東正面において日本軍主力で攻勢をとり沿海州のソ連軍を無力化、その後西(北)方面に兵力を移しソ連軍主力と大持久戦を行うという計画。(白人ロシア兵によるゲリラ戦)
情報部ハイラル支部は威力謀略要員として、約3週間の特別教育を施した。
ロシア内戦時にパルチザン隊を組織して戦ったコサック大尉I・A・ペシュコフを隊長とし、陸軍中野学校出身の久保盛太大尉と下士官1名が付いて指導を行う。
ハイラル支部は情報部長の許可を得てこの隊をコサック警察予備隊とし、松花江の浅野部隊から馬を約80頭無償で保管転換を受け、兵器は日本軍から融通した。服装はザバイカル・コサックのズボンとルパシカ、軍帽を作り、1942年には兵舎が完成、軍旗も制定する。
1944年9月、元コサック大佐ヤコフ・スミルノフを満州国軍上校に特別任用して隊長とした。
スミルノフ上校以下、幹部全員が白系ロシア人軍官となり、情報部から中野学校出身の将校・下士官が教育・錬成・管理全般の指導顧問として派遣される仕組みとなった。兵士は一般満州国軍と同様に志願者から採用。
1945年4月、日本は内外の情勢に鑑み、緊急措置の一環として白系ロシア人部隊を解散するよう指示。
同年8月、石家荘白系ロシア人義勇軍はソ連の対日参戦にあたり、ハイラルでかつての一部が集結して、白系コサック部隊としてソ連軍の背後で遊撃戦を展開。(連絡の不備と誤解した現地日本軍の攻撃を受け隊長以下がその犠牲となった(日露による同士討ち)
ソ連対日参戦により消滅。皇協維新軍、中華民国臨時政府軍、皇協新中華救国民軍(中国)
【皇協軍基本】
皇協軍とは日本軍に投降・帰順した、中国人の武装部隊。
皇協軍の指揮権は、すべて日本軍が掌握していた、主に抗日組織の壊滅を目指す。
傀儡軍とも呼ばれ、前期には、ゴロツキやニートなどが大量に参加。
(元抗日軍と末端の庶民の構成のため戦闘力は弱く戦力にならなかった)
そのため、日本は傀儡軍を治安維持部隊(北方警察や警備員)とした。
中期になると、皇協軍は中華民国(南京)国民政府に編成され、日本軍と協同で国民党、八路軍と戦うことになった。
日本と中華民国(南京)国民政府の支配地域が拡大すると、優秀な将軍などの投降もあり、国民党や八路軍を苦しめることになる。
日本の「大陸打通作戦」開始により、手薄となった日本軍の隙をみて、八路軍が中国北部の中華民国(南京)国民政府領に猛攻を開始する。
傀儡軍(皇協軍)は国民党や八路軍に投降、離反を繰り返し勢力を弱体化し消滅していく。
戦後、傀儡軍は、国民党と八路軍に編成され中共内戦に突入していく。【朝鮮軍】
「二鬼子れ二本」特に日本の中国侵略戦争の期間に中国人から呼ばれた朝鮮人の蔑称。
韓国戦争(朝鮮戦争)の時期に、中国軍は韓国の李承晩軍を「李傀儡軍」と呼んだ。>>25
なんかそれだけみると、
まるで悲願だった西欧追放を成し遂げた日本の協同する政府が淘汰されて、
中国に西欧を介入させる政府が生き残ったようにみえるな。
ソ連による共産化で図らずも西側諸国は追い出されたわけだが、
そうでなければ今でも租界だらけだったかもしれないのか。【満州】
1912年の清朝滅亡後は中華民国が清朝領土の継承を主張していたが中華民国中央政府(北京政府)の満洲での権力は極めて微力で、1928年12月29日に張作霖率いる奉天軍閥が国民政府に帰順(易幟)した事により、(実質的には中華民国の支配は継続していた)が満洲に青天白日満地紅旗が掲げられた。
1931年9月18日、柳条湖事件に端を発して満洲事変が勃発、関東軍により満洲全土が占領される。
その後、関東軍主導の下に同地域は中華民国からの独立を宣言。
元首として清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀を満洲国執政、国務総理大臣(国務院総理から改称)には鄭孝胥(後に張景恵)が就任する。(建国理念として五族協和と王道楽土を掲げた。)
ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国、そしてスペインなどの枢軸寄りの中立国も満洲国を承認し、国境紛争をしばしば引き起こしていたソビエト連邦をも領土不可侵を約束して公館を設置する。
また、アメリカやイギリス、フランスなど国交を結んでいなかった国も、国営企業や大企業の支店を構えるなど、人的交流や交易をおこない、当時の独立国の3分の1以上と国交を結んで独立国として安定した状態に置かれ、満州は経済大国の道を歩み始めた。
1941年12月4日、日本の方針で満州を参戦させないことに決定、かわりに米英仏蘭の大使館の閉鎖させた、このため、満洲国は国際法上の交戦国とはならず、満洲国軍が日本軍に協力して南方や太平洋方面に進出するということも無かった。
1944年の7月29日、日本の劣勢により、鞍山など重要な工業基地が、米英による無差別爆撃をうける。
工場の稼働率は全般に「等しい低下を示し」(1944年当時の稼動状況記録文書より)たとしている。
1945年(康徳12年)、日ソ中立条約を一方的に破棄した赤軍(ソ連軍)による満洲侵攻。
ソ連は満洲国に対して宣戦布告をせず、3方向から侵攻を開始。
満洲国は満洲国防衛法を発動して戦時体制へ移行したが、混乱などにより最後まで満洲国側からの対ソ宣戦は行われなかった。
満洲国を防衛する日本の関東軍は、南方戦線などへ戦力を抽出されて十分な戦力を持っていなかったため、国境付近で多くの部隊が全滅。
日本の太平洋戦争敗戦により、8月18日に満洲国皇帝・溥儀が退位して満洲国は滅亡する。【満州開拓民】
ソ連侵攻で関東軍首脳は撤退を決定し、新京の関東軍関係者は8月10日、憲兵の護衛付き特別列車で脱出したため、ソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、主に満蒙開拓移民をはじめとする日本人居留民たちであった。
ソ連軍の侵攻を中国人や蒙古人の中には「解放」と捉える人もおり、ソ連軍を解放軍として迎え、当初関東軍と共にソ連軍と戦っていた満洲国軍や関東軍の朝鮮人・漢人・蒙古人兵士らのソ連側への離反が一部で起こったため、結果として関東軍の作戦計画を妨害することになった。
通化への司令部移動の際に民間人の移動も関東軍の一部では考えられたが、軍事的な面から民間人の大規模な移動は「全軍的意図の(ソ連への)暴露」にあたること、邦人130万余名の輸送作戦に必要な資材、時間もなく、東京の開拓総局にも拒絶され、結果、彼らは置き去りにされ、満洲領に攻め込んだソ連軍の侵略に直面する結果になった。
ソ連軍は規律が整っておらず、兵士による数多くの殺傷・強姦・略奪事件が発生した。
8月14日には葛根廟事件が起こった。
日本人の強引な土地収奪などから開拓団に恨みを持つ漢族による殺害事件もあり、多くの開拓者が南方へ避難した。しかし脱出不能との判断から、集団自決により命を失った者も多数にのぼった。中には、シベリアや外蒙古、中央アジア等に連行・抑留された者もいる。>>32
満州はユーラシアの安全地帯だった。
中央の中華を嫌い、古くからロシア人モンゴル人トルコ人ペルシャ人など、多くの諸民族と関わった。
アメリカはなにもわかってなかった。
日本から瀋陽(奉天)に上陸すると50km北上するだけで(内)モンゴルとなる。そこから北の壮大な大地が広がる。>>31
アジアの解放以外、他になにがある。
どんな"やりたい事"があるんだ。
逆に聞きたいが、そんないつも他人の資産を羨んで、
充実した人生よりも卑怯な財産獲得の方がやりたいのか?
日本がアジアの自由の象徴になる、なんて誰でも素晴らしいと思うだろう。
永遠の英雄になるのと、国の植民地運営で運が良ければ少し貯蓄が増えるのとどっちがいい。>>31
ベトナム、ラオス、カンボジア も戦時中に独立させてる。
また、インドネシアも独立準備中
だったが、戦後2日後に独立した。日本の敗戦後も東南アジアに帝国軍を除隊した日本人が義勇兵として残って独立を支援している。
人の善意も利己心とかご機嫌取りとしか理解が及ばない朝鮮人は世界平和とか協調など思考できない小者ばかりか。【蒙古自治邦政府】
蒙古自治邦政府は、ソ連、中国の共産主義に対抗する。
盧溝橋事件の後に日本は内蒙古方面へ本格的に出兵し、10月17日に包頭を占領。ユンデン・ワンチュク(雲王)・デムチュクドンロブ(德王)・李守信がこれに応じる形で10月28日に厚和(帰綏を改称)にて蒙古聯盟自治政府を樹立した。
蒙疆地区には1937年、蒙古聯盟・察南・晋北の3自治政府が設立されたが、利害関係を調整して活動の円滑化を図るため、1937年11月22日、3自治政府によって蒙疆聯合委員会が設立された。
1939年9月1日、駐蒙日本軍の主導のもとで、3自治政府が統合して蒙古聯合自治政府が樹立され、初代の主席にはデムチュクドンロブ(徳穆楚克棟魯普、徳王)が就任した。この統合により総人口525万4833人のうち漢民族が9割の501万9987人に対してモンゴル族は15万4203人となった。
デムチュクドンロブ(徳王)は就任宣言において「防共協和および厚生に最善の努力を行使」と謳った。
内蒙軍は全て騎兵であった。これを支援する小規模の重装備部隊が日本人によって運用されていた。
内蒙軍は総兵力が20000人ほどの8個の小規模な師団に再編制され、日中戦争の開戦初頭には、綏遠省の攻撃(チャハル作戦)に参加した。その後これらの兵力は太原作戦にも参加した。
1944年には日本軍はこれを察哈爾守備隊として4個師団8000人体制に再編制した。終戦時には、内蒙古政府は2個歩兵師団と4個騎兵師団、3個中国人独立旅団と1個警備連隊を保有していた。
1945年8月9日のソ連対日参戦と日本の敗戦によって崩壊。
中華人民共和国に吸収された。【ローマ法王と日本帝国】
中国の内戦に巻き込まれたかたちで、中国内部に足を踏み入れた日本軍は、そこが共産主義国家になってしまうのを防ぐため、多大な尽力をすることになる。
日中戦争(支那事変)が始まった年である、
1937年、10月に、当時のローマ法王、平和主義者として知られていた、
ピオ一 一世(在位1922-39)は、この日本の行動に理解を示し、全世界のカトリック教徒に対して日本軍への協力を呼びかけました。
法王は、「日本の行動は、侵略ではない。日本は中国(支那)を守ろうとしているのである。日本は共産主義を排除するために戦っている。共産主義が存在する限り、全世界のカトリック教会、信徒は、遠慮なく日本軍に協力せよ」といった内容の声明を出す。
この声明は当時の日本や韓国、台湾でも報道されました(「東京朝日新聞」夕刊、昭和12年10月16日および一七日)。
新聞は、「これこそは、わが国の対支那政策の根本を諒解(りょうかい)するものであり、知己(ちき。事情をよく理解している人)の言葉として、百万の援兵にも比すべきである。英米諸国における認識不足の反日論を相殺して、なお余りあるというべきである」と歓迎の意を表す。
ローマ法王がこのように日本の行動に賛意を表してくれたことは、日本という枠に住む庶民にとって、非常にうれしいことでした。
1939年にローマ法王は世を去ってしまう。
そのため、日米戦争勃発を防ぐまでには至らなかったといわれています。【満洲イスラム教徒騎兵団】
中国人による差別…回漢対立の激化である。
イスラム教徒が多く分布する地方で、イスラム教徒と漢人が、武器を持って衝突する所謂「械闘」が頻発した。
社会の貧困化と混乱は、地方社会の一般人の武装化をもたらした。
地方社会全般に暴力的な風潮が強まっていた。
従来より回漢の反目が存在していた上に、社会の貧困化と混乱の進行に伴い、両者の対立は先鋭化し、その際に、漢人官僚が回民に不利な裁定を下しがちであったことも、回民の不満を高めた。
このような状況を背景に小規模な回漢の衝突が中国に対する大反乱に発展して行く。
そんな中で、蒋介石は、実質的には、漢民族中心の「中華民族」という概念を打ち出す。
これによれば、回民は、漢民族とは別の民族ではなく、イスラム教を信仰する「中華民族」の一員ということになる。
言い換えれば、回民は中国のなかの少数民族ではなく、「中華民族」の内のイスラム教徒ということである。
満族、蒙族、蔵族も、居住地域や風俗習慣が違うだけで、「中華民族」の一員であって、固有の民族ではないということになる。
「私達は漢人ではない」1943年、ウイグル独立戦争勃発。
1930年代と1940年代の二次に渡って、ウイグルで民族独立運動が顕在化する。
日本の支援を受けた、満洲イスラム教徒騎兵団とロシア人義勇軍は援軍としてウイグルへ向かう。
一度は独立を果たすかにみえたものの中国の猛攻に会い撤退を余儀なくされる。
撤退の途中で東北義勇軍に遭遇、激戦のすえ壊滅。
戦後、満州回族は中国政府により強制移住させられ消滅した。
ウイグルは現在も独立が成らず、中華人民共和国に自治区として併合されている。何かに取り組んでいるのでしょう?
>>31
ロームシャには東南アジアの現地人だけでなくてイギリス、オランダ、アメリカ、オーストラリアなどの捕虜や日本軍の軍人・軍属などもいた事が確認されているみたいです。
日本軍がハイパーインフレを引き起こした事もありますけど、少なくとも東南アジアの人達に独立する機運を芽生えさせたみたいです。
日本が悪者扱いされるなら欧米諸国や中華や大韓民国なども悪者扱いして貰わないと釣り合いが取れ無いと考えている次第なのです。- 43名無し2023/08/13(Sun) 11:12:26(1/5)
このレスは削除されています
- 45名無し2023/08/13(Sun) 11:36:47(2/5)
このレスは削除されています
- 46名無し2023/08/13(Sun) 11:37:25(3/5)
このレスは削除されています
20世紀を代表するイギリスの歴史学者のアーノルド・トインビーは「イギリスの軍艦のプリンス・オブ・ウェールズが撃沈された事は欧米列強が絶対ではないと云う事を世に知らしめた。」や「日本は帝国主義を二百年早く終わらせた。」と総括したりダグラス・マッカーサーも「東京裁判は誤りだった。」や「日本は資源がないので海外に活路を見出す為に戦争をしたのは当たり前の行いだった。」と証言しているみたいですので信憑性が高いのです。
皮肉な事に日本と対峙した欧米諸国の歴史学者や大学教授や軍人などが日本のした戦争を評価しているのですから複雑な気持ちです😐
とはいえアメリカ人がネイティブアメリカンに土地を返還してヨーロッパ諸国に帰国するまではまだ帝国主義は終わっていないと思います。- 50名無し2023/08/13(Sun) 11:59:32(4/5)
>>50
良かったな。クソ両班の奴婢から解放されて、日本人になったおかげで平穏無事に暮らせたようだ。- 52名無し2023/08/13(Sun) 12:02:06(1/1)
このレスは削除されています
>>47
ご指摘通り、私も人間のする事ですから日本のした行いが100%良かったとは思って居ませんけど、少なくともネイティブアメリカンを大量虐殺したアメリカンや少数民族を弾圧している北京政府やベトナムでの蛮行に対して見猿言わ猿聞か猿を決め込んでいる大韓民国などに日本を批判する資格はないと思います!
自分達の事は棚上げしときながらどの口が言うのが日本国民の民意だと考えているのです。- 54名無し2023/08/13(Sun) 12:22:04(5/5)
>>54
その子と結婚してりゃ日本人になれたのにね。>>47
日本統治時代の朝鮮が暗黒時代だったと韓国が主張するなら台湾や太平洋島嶼国などの親日ぶりや知日ぶりなどをどう説明するのですか?
抑、ベトナムでの蛮行に対して見猿言わ猿聞か猿を決め込んでいる韓国に日本を批判する資格はないと言っても過言ではないのです。>>54
爺が幼児キャラはキツイ
ロリくん 少し冷静に物事を見てみようか?
いい歳したおじさんがパソコンの前で
幼児アニメを検索しているとこを
俯瞰で見てみなさい
もう気持ち悪いとしか言えんでしょ?
【1943年5月31日】大東亜会議が開催される!
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