>>247
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=evZfipqI-tk&t=997s
このドラマでは9分から島津の姿が出ます。
2004年に出た不滅の李舜臣というドラマでは島津の分量はあまりないですね。>>80
織田信長は武将としても有名だけど楽市楽座などの経済改革を断行した政治家としても知られている。
戦をするには金がかかり、その金を押さえるにはやはり経済が発達しないとダメ。それに早くから気がついていたんだね。それまで半農だった武士を戦専門の武士団に作り替えたのも信長。それまでは田植え時期、収穫時期になると休戦になっていたのがこれ以降、季節を考慮しないで戦が行えるようになった。
こうした、戦自体には現れない目にはつかない改革者、としての一面も信長は持っていると思う。
源義経は信長よりも300年以上も前の人間だから単純に比較するのは可哀想だね。
「判官贔屓」という言葉が日本にはあるけどご存じかな?勝ち目の無い弱そうに見える方に同情して見方をすることを指すこと。「源九朗判官義経」のその人生の悲劇性故に出来た言葉。
義経は戦自体は巧かった。天才的な用兵で少数の兵を持って奇襲を仕掛ける戦を得意にしたので人気も高い。日本でも昔から軍神として人気が高かった。しかし、政治的な駆け引きや今で言う「空気を読む」「その場の雰囲気」を感じ取ることの出来ない人だったらしくそれが元で源頼朝から疎んじられて最後は殺される羽目になる。・・もう武士としては戦働きだけでは能無し扱いされる世の中がすぐそばまで来ていたのだろうと思う。>>76
兵員も船も多すぎて集中し難い。
上陸できる場所は限られてるんだから
狭い地域に大軍を集中させると渋滞し
身動きもままならなくなる。厳島の戦いがその典型的な失敗例。>>255
藤堂高虎の遺訓(遺言)ですね。
彼の残した遺訓(遺言)は200個ほどありますがとても子孫たちが全部覚えていたとは思えないw>>256
元均は島津の兵士に死んだのが正しいと思います。
元均は漆川梁で抜けて出て、ある島に上陸したが、そこで日本軍に殺されたことを知っています。
今回壬辰倭乱1592というドラマが出る前までは脇坂安治が露梁海戦で朝鮮、明の水軍と戦っていることが描写されました。 いざ脇坂安治は露梁海戦以前に朝鮮を抜けて出たんです。
不滅の李舜臣でも露梁海戦の日本軍指揮官に島津が出たが、記憶に残る場面は脇坂安治が率いる日本水軍と朝鮮水軍との接近戦でした。韓国では朝鮮軍鼻切って戦利品として持ち出した
加藤清正小西行長が代表的な武装で学んだ
そんなイルデムで最も有名な日本ではないかしら>>258
権慄が無理に出撃させなければ…。
と思ったけど元均の敗死がなければ李舜臣の復権は無かったか。なお島津は日本では強兵を持つ氏族として知られています。
具体例
・300人の味方で3000人の敵に勝つ(木崎原の戦い。なお自軍の戦死者は257人)
・5000人の味方18000人の敵に勝つ(沖田畷の戦い。敵の大将、有力家臣は全員戦死)
・持ち場から一歩でも下がったものは死刑、部隊長が戦死した時は仇を討つかその場で討ち死にさせるなど苛烈な軍令を出す。
・相対する敵のど真ん中を突き破り撤退する。(関ヶ原の戦い)
・火縄銃でロシアンルーレット(Russian roulette)をする。(度胸をつける目的。もちろん死ぬ者もいた)
・死刑囚の死体を複数で食いちぎり肝臓を食いちぎったものを一番とする競技があった(度胸をつける目的)>>250
役に立たないと思いますが一通り返答します
・日本語翻訳でも読みやすいか
翻訳、注釈共に良く考えられており読みやすいです。
・アマゾンレビュー2件しかないうえに韓国側の作者だがソースとして信頼できるか
江戸時代に日本人が懲毖録と日本側資料とで検証を行うなど
資料としても読む価値はあると思います
韓国人が語る文禄・慶長の役を理解するためにも共通の資料を読むのは良いことです。
・これ読めばカイカイで論争参戦可能か
少なくとも論争を行いたいなら最低限の知識は必要でしょう。
質問者を否定する形になるので気分を害すると思いますが
私は相手と論争する目的で学ぶ行為は正しいとは思えません。
・他お勧めな本があれば
お勧めは色々な本を読むことです、頑張ってください。
※ここよりカテゴリ『質問 - 질문』で質問したほうがいいですよ>>263
武田信玄の重臣であり、おホモ達ですね。>>266
そうそう、“逃げ弾正”ね。現代語で言えば“逃げ将軍”という感じかな。
物事は起こす者より、収束させる方が遥かに難しい。
喧嘩も仕掛けるのは簡単、誰でも出来る。
でも、喧嘩を上手く納める者は、なかなかいない。
喧嘩を上手く納める者は喧嘩も上手い。
恋愛も同じ。別れ方が上手い者は、女性を落とすのも上手い。
戦争の退き方を知ってる者は、戦争を仕掛けるのも上手いという事。韓国では立花宗茂の評価はどう?なんだろうね
島津と同じでタブーなんか?>>269
立花宗茂は朝鮮で最も多くの戦果を上げた大名だが、韓国では島津義弘よりももっと分かっていません。
認知度で言えば、このような順位。
1.小西行長、加藤清正、脇坂安治
2.宇喜多秀家、來島通總、藤堂高虎、
3.小早川隆景、黒田長政、九鬼嘉隆、島津義弘
4.立花宗茂、福島正則、毛利勝信なぜ韓国では脇坂安治の知名度が高いんだろう…
日本だとそのメンバーの中だと地味なほうだよね脇坂安治は水軍の将として李舜臣と戦っていたので知名度があるようです
それでも小西行長、加藤清正に並ぶ知名度は凄いですね한국에서 가장 지명도가 높은 일본 장수는
도요토미 히데요시
도쿠가와 이에야스
오다 노부나가
고니시 유키나가
가토 기요마사
이정도가 일반인이 아는 수준
나머지는 잘 모른다>>252
六角定頼の『楽市令』を参考にして最初に『楽市楽座』を実施した考案者は『今川氏真』です。>>80
義経は神格化されてます。
ただし現在の学校教育は政治史中心なので、文化的な日本史上の著名人はあまり登場しません。
学校教科書、少年マンガやゲームやテレビで登場するのが信長。
古典文学、能や歌舞伎の演目、歴史史跡、柔術流派の始祖、地域伝承などで日本を代表する存在なのが義経です。>>1
すごい韓国の男の人と韓国の女との仲が良くない今が機会だよ! 前進だ!
>>278
早く、漢字混じりのハングルを見せてくれよ!>>278
朝鮮人の思い出は上長とのジングルベル。
カレーを食べながらジングルベルを聴くと、嘔吐するらしい。>>278
ゲイに蹂躙された李氏朝鮮ですか?
ゲイよりも弱兵、朝鮮軍「日本人でもここまで…」 韓国国立中央博物館の「武士」に関する説明文が秀逸すぎると話題に「日本人以上に分かってそう」
韓国国立中央博物館(ソウル特別市龍山区)の展示物の日本語説明文がSNS上で大きな注目を集めている。
「平安時代、貴族の雇われ人に過ぎなかった武士は、武力を必要とする情勢を追い風に中央朝廷における影響力を拡大する一方、次第に勢力を広げ幕府体制を樹立することで、支配階級となった。
しかし、武士たちは武力だけを前面に出した支配者ではなかった。日本の文化と芸術を後援し、各時代を代表する文化思潮の形成においても中核的な役割を果たした。以前の支配階級であった貴族たちと異なる独特の美意識で伝統芸能や茶道、絵画、工芸、陶磁器などの分野で、独自の芸術を創り出した。このような芸術は武士が 『戦士』としての自我を保っていながらも、『統治者』という新たなアイデンティティを確立する上に大きな役割を果たしたのである。
世界文化館の日本室は、文化と芸術の発展に貢献した武士の新しい断面に焦点を当てた展示を行う。
刀を持った戦士であると同時に、 教養を備えた文化人であり統治者だった武士を理解することは、近くて遠い隣国である日本を正しく理解する第一歩になるだろう。」
https://www.museum.go.kr/>>98
其れなら中国人が三国志や水滸伝の武将や豪傑などを美化したり韓国人が李舜臣を英雄視したりアメリカ人がカウボーイを理想化するのと似た様な傾向だと言っても過言ではないです✨
戦国武将はどれも魅力的で変わり兜や陣羽織や拵や軍旗などは今でも現代人に対して畏敬の念を彷彿とさせるのではないのでしょうか?>>273
朝鮮出兵がらみの戦国武将だね。
だったら島津義弘は知ってなきゃいかん。>>48
文禄・慶長の役や元寇などを言及するなら、三韓征伐、倭・高句麗戦争、白村江の戦い、江華島事件なども言及する気なのでしょうか?
とはいえ、戦国武将は北は北海道、南は九州に至るまで、全国に分布していたみたいで、松前慶大、津軽為信、南部信直、直江兼続、上杉謙信と景勝、前田利家と慶次、北条家、徳川家康、酒井忠次、榊原康政、井伊直政、本多忠勝、結城秀康、徳川秀忠、松平忠輝、徳川義直、徳川頼宣、松平忠直、松平直政、松平直基、松平忠明、牧野忠成、柳生一族、水野勝成、戸田氏鉄、大久保彦左衛門、小笠原忠真、奥平信昌、蜂須賀家政、山内一豊、毛利三兄弟、島津四兄弟、立花宗茂、福島正則、黒田長政、細川忠興、藤堂高虎、加藤嘉明、宗義智、加藤清正、豊臣秀吉、織田信長、武田信玄、滝川益代、柴田勝家、明智光秀、大友宗麟、真田親子、鍋島親子、斎藤道三、浅井長政、朝倉能景、寺沢広高、有馬晴信、池田輝政、堀尾吉晴など、幾千幾許の兵どもがいました!!>>282
親日派が書いた文章だね武士は日本人の自由意志を抑圧した存在だったニダッ!
>>288
江戸時代が無かったら明治維新は無かったと江戸時代を再評価している傾向があります。
現代日本は武士から日本軍、日本軍から自衛隊へと様変わりしているみたいです!!>>289
武士は古来から自分の領地をより良いものにすることに懸命だったぞ。
領民が逃げたりしたら元も子もないからな。
特に江戸時代になってからは、江戸大阪でも売れるような商品開発を促進したり、大都市から持ち帰った文物を地方に広めてたのも武士。
優秀な子供なら町人農民に関わらず、武士の私塾にも行けたし、有能なら藩でも召し上げることもあった。
実際、武士としてだけではなく、自分の畑を持って農民と同じように農業をしてた武士も多いからな。>>289
武士が支配者であった日本は、戦乱も続きましたが、
世界的にも平和で安定し、経済や文化が振興した江戸時代を作ったのも、武士でした>>289
それは現代の価値観だな。
江戸時代と李氏朝鮮時代ともに身分制度はあったが、
日本には奴隷制度はなかった。
日本の民衆はサムライの支配を受けてはいたが、
文化的な楽しみは許されていた。
今の日本料理は武士の料理ではなく大衆料理だ。
歌舞伎や相撲、浮世絵、書籍も大衆文化から生まれたものだ。
花見、祭り、花火も大衆文化だ。
武士は民衆がそれらを楽しむことを許していた。
武士も無条件で民衆を切り捨てることはできなかった。
武士が民衆を切ることができたのは、民衆が明らかな無礼を
した時のみであり、無礼を目撃して立証できなければ武士も罰せられた。>>289
もっと勉強しよう>>289
経済発展に必須条件には、個人の権利(資産、思想)が保障されないと発展しない。
武士の領地は世襲していた為に、領主は領民から収奪して蓄財するよりも、産業育成(果樹園、漆器製品、蝋燭製造、織物産業、酒造、砂糖生産、等々)をして、その収益で領主は蓄財を目指した。
武士が支配した領地内では、やがて商人や農民の資産も認められて、武士よりも豊かになっていった。
一方、李氏朝鮮では、個人の権利は認められず、【国民の土地と生命は全て国王のもの】。
両班は収賄により任官を得て、任期まで領主として派遣され、任期期間はその収賄に使った資金を回収する為に領民を収奪して蓄財をして中央に帰っていった。
下級両班も領民が少しでも豊かになったと噂があれば、収奪した。
その結果、朝鮮には原始的な産業(農業、商業)しか存在しなかった。
この影響は現在の韓国人も、日本に旅行に来た時に感じてるだろう?
日本には韓国よりも多様な伝統祭、伝統料理、伝統工芸品、お土産品(特に菓子類)が存在している。それは、この武士による世襲統治の頃の影響が現在も残ってる為。
統治体制の違いが、日本と韓国の観光資源の差になっている。>>291
ワキ差しニダ>>299
義経がジンギス・カンと名乗る前は「テムジン」と名乗っていた。
つまり義経は最初は「天神(テンジン)」と名乗っていたのだ。
またジンギス・カンは漢字では「成吉思汗(ジンギスカン)」と書く。
この漢字はジンギス・カンが自ら書いたと言われている。
兄の頼朝に追われた義経は奈良の吉野山で、一緒に逃亡していた「静御前(しずかごぜん)」と別れた。
その時に義経は「静御前(しずかごぜん)」に必ず天下を取ってお前を迎えに行くと誓った。
「成吉思汗(ジンギスカン)」の「汗」という漢字は「水・干」という字に分けることが出来る。
「水干(すいかん)」というのは当時の白拍子が着ていた着物のことで、つまり「静御前(しずかごぜん)」のことを表している。
つまり「成吉思汗(ジンギスカン)」とは、「吉野山の誓いが成って、いま静御前を思っている」という意味なのだ。
日本の武士
300
ツイートLINEお気に入り
21583