属国を自慢する小中華の韓国人w
元のフビライくらいか?
日本側は使者を切り殺しちゃってるよね。「魏志倭人伝」
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm
『其八年太守王頎到官 倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢 拝假難升米 為檄告喩之』
現代語訳
『 正始八年(247)、帯方郡太守の王頎が着任した。
倭女王の卑弥呼は狗奴国の男王、卑弥弓呼素と和せず、
倭の載斯烏越等を派遣して、帯方郡に至り、戦争状態であることを説明した。
(王頎は)塞曹掾史の張政等を派遣し、張政は詔書、黄幢をもたらして難升米に授け、
檄文をつくり、これを告げて諭した。』
帯方郡の太守王頎が 倭の女王卑弥呼に 塞曹掾史の張政等を派遣した。
これが文献にみられる最初の例。
中国本土ではなく 帯方郡とコンタクトをとっている。遣隋使の返礼使の裴世清が有名だね。
小中華は人民元と連動し急落中
さすが属国w唐の「郭 務悰」が3or4回 日本に来ているのが有名です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/郭務ソウ
皇帝の勅使ではなく官僚なので、格は下だけど国の大きさの違いを考えれば妥当でしょうね。
当時は、日本(大和)も、中国(唐)もトラブルが多かった時期なので、大きな成果は残せなかったけど、両国の交易基盤を造る基礎になったかもしれません。>>6 次に出てくるのは 「日本書紀 舒明天皇」https://nihonsinwa.com/page/1975.html
四年秋八月、大唐遣高表仁送三田耜、共泊于對馬。是時、學問僧靈雲・僧旻・及勝鳥養・新羅送使等、從之。冬十月辛亥朔甲寅、唐国使人高表仁等泊于難波津、則遣大伴連馬養迎於江口、船卅二艘及鼓吹旗幟皆具整飾、便告高表仁等曰「聞天子所命之使到于天皇朝、迎之。」時、高表仁對曰「風寒之日、飾整船艘以賜迎之、歡愧也。」於是、令難波吉士小槻・大河內直矢伏爲導者、到干館前。乃遣伊岐史乙等・難波吉士八牛、引客等入於館。卽日、給神酒。
現代語訳
位4年秋8月。大唐は 高表仁を派遣して三田耜を送らせました。
ともに対馬に宿泊しました。
この時に学問僧の霊雲・僧旻と勝鳥養、新羅の送使なども従って来ました。
冬10月4日。
唐国の使者の高表仁たちは難波津に宿泊しました。
すぐに大伴連馬養を派遣して江口に迎えに行かせました。
船は32艘、および鼓・笛・旗織は皆、整い飾られていました。
高表仁阿智に 告げて言いました。
「天子の命令を賜っている使者。天皇の朝廷に到着したと聞いて迎えに来ました」
高表仁は答えて言いました。
「風が寒く凄まじい日、船を飾り整えて、迎えてくれたこと、喜び、またかしこまります」
難波吉士小槻・大河内直矢伏に命令して 導者として館の前に到着しました。
すぐに伊岐史乙等・難波吉士八牛を派遣して客人たちを引率して館に入らせました。
その日に神酒を与えました。>>10
天子の使者を 天皇の朝廷に迎えると言っており、
唐の冊封体制に入ることを要求されたが、
朝廷が 拒否したことをうかがわせる。>>7
そうか。裴世淸の方が先だったか。
「日本書紀 推古天皇」https://nihonsinwa.com/page/1866.html
十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐国號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。
即位16年夏4月。小野臣妹子(オノノオミイモコ)は大唐(モロコシ)から到着しました。唐国(モロコシノクニ)は妹子臣(イモコノオミ)に蘇因高(ソインコウ)と名付けました。大唐の使者の裴世清(ハイセイセイ)と下客(シモベ=下僕)12人を妹子臣に従って、筑紫に到着しました。難波吉士雄成(ナニワノキシオナリ)を派遣して、大唐からの客人の裴世清たちを呼び寄せました。唐の客人のために、新しい館(ムロツミ)を難波の高麗館(コマノムロツミ)のそばに造りました。
6月15日。客人たちは難波津に宿泊しました。
この日に飾船の30艘で 客人たちを江口で出迎えて、新しい館に滞在させました。
中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平を
掌客(客人の担当役人)としました。
これは 中国側の「隋書」にも同じ記事があるので、間違えない。>>13
当時 日本海を渡るのは命がけだからね。
もう少しあとになるが 唐の鑑真は5回も渡航に失敗して、
6回目にようやく日本に渡ることができた。
海南島に漂着したり、ベトナムまで行ってしまったり。
沖縄についたり。
当時 中国から日本へ来るのがどれほど大変だったか。
鑑真の話は 井上靖の小説となり、映画化された。
「天平の甍」
デジタル化前だからか ネットで見つけることができなかったが、
面白かった記憶がある。>>4
これねw大清国第12代にして最後の皇帝 愛新覚羅溥儀が1935年に来日した
朝鮮人って人に頼む時だけ低姿勢w
真面目にレスしなくて良かった。ソースを貼っても、韓国人は漢字を読めないのにw
ここのサイトにも沢山いるよね
捏造歴史を信じて、全然関係ない中国の文献を出してきて
「これが証拠だ!」とw
日本人は漢字が読めるから、騙さないよw
本当に全然関係ないことが書いてあるのに、どうして信じたのか
読めないのに、どうして信じたのか
不思議だよw
逆に教えてほしいですwそういえば最近炉痢痕野郎見た人居るかな?
>>21あの、下関条約は1885年ではなく1895年だったと思いますが・・・
>>1
過去の王朝の話なんかしてもな。連続性もないのに>>1
自分で調べたら?ざっと見たけど出ていないようなので、(結構、有名な話だと、個人的には、思っていた。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/日中関係史
1368年に洪武帝が明を建国。海禁政策によって朝貢貿易のみを許可することとした。
洪武帝は日本に倭寇討伐の要請をするため、南朝の懐良親王に使者を派遣。
しかし、その後九州探題の今川貞世により九州の南朝勢力が駆逐され、
1368年、第3代将軍の足利義満の時に南北両朝廷は和睦を結び、
1392年には南北朝が合一するため、洪武帝は日本との冊封関係を結べなかった。
= = = = = = = = = = = = = = = = = = = =
1401年に義満が僧の祖阿・商人の肥富を遣明船で明に派遣すると、
靖難の変で即位した永楽帝は1404年に足利将軍を「日本国王」として冊封。
永楽帝は義満を評価しており、義満の死の翌年に「弔問使」を日本につかわし
「恭献」という諡を送っている。
日本人で外国から謚号を贈られたのは義満が最初で最後である。
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この関係は義満の跡を継いだ足利義持が1411年に明の使者を追い返すまで続いていた。
室町幕府は明皇帝に対して朝貢する形式で日明貿易を限定的に開始する。
1404年以降は、日本に対して交付される貿易許可証である勘合符を遣明使船に所持させる
勘合貿易の導入で倭寇の取締りが容易になった。
1411年、朝貢形式は屈辱的として、足利義持が日明貿易を停止。
1432年、足利義教が貿易を再開させて、1549年まで19回、行われる。>>1
・徐福
https://ja.wikipedia.org/wiki/徐福
・漢字
https://ja.wikipedia.org/wiki/漢字
使節と言えるかどうかは疑問ですが。
・張政
https://ja.wikipedia.org/wiki/張政
これが最初なのでは
>>6
もこの事を書いている。ラーメンマン
중국 사신들이 일본에 방문한적 있습니까?
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