- 三国遺事 
 「第十七那密王即位三十六年庚寅(391年)。倭王遣使來朝曰「寡君聞大王之神聖、使臣等以告百濟之罪於大王也。願大王遣一王子表誠心於寡君也」。於是、王使第三子美海(一作末吐喜)以聘於倭。美海年十歳。言辭動止猶未備具、故以内臣朴娑覽為副使而遣之。倭王留而不送三十年。」
 翻訳「390年 第十七代、那密王即位三十六年に、倭王の使者が来朝して「わが王が大王の神聖であられることを聞いて、臣に百済の罪を大王にあげるようにといわれました。願わくば大王の王子お一人をつかわせて、わが君に誠意を御示しくださいませんか」と言った。そこで王は三男の美海を送った。美海の年は十歳で、言葉や動作も未熟であったので、内臣の朴娑覧を福使として付き添わせた。倭王は彼らを抑留し、三十年も帰さなかった。」
 翻訳2「寡君は大王の神聖なることを聞きて、使臣らをして以って百済の罪を大王に告げしむるなり。願わくは大王、一王子を遣わして、誠心を寡君に表したまへ」
 この「百濟之罪」とはどういう意味なんでしょうか?
 百済の罪を倭王が新羅王に話すというのが当時の状況がよくわからないですね
 もちろんそれで人質を出すというのも
三国遺事に関する真剣な歴史の質問 (荒らし冷やかし来ないで!)
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