>>99
普通に考えれば、韓国よりも国土が広く
農産物の栽培に適した日本に拠点を移したって感じかな?
どうでもいい話だけど。>>1
でも、任那はいりませんw
今の時代、民族浄化をやると国際的に批判されるし、負担ばかり大きくメリットが無いことはすべきでは有りません。- 103名無し2019/05/19(Sun) 01:50:19(1/1)
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>>99
加羅地域で鉄を産して鉄挺にしていただろ。倭としては何がなんでもそこに執着する理由があった。
その後に誕生した日本刀は主に砂鉄から作られるが、砂鉄や鉄鉱石を使う「たたら製鉄」が白村江で負けた後の日本での製鉄のやり方になっている。
日本史を見るとき朝鮮半島だけじゃなくて中国大陸やアジア南方を含めて見ないと駄目だよ。アジア北方もね。任那は字句の通り福岡周辺にあった那国に任された地域と言う意味だろうけど、鉄挺の入り口だったその辺り(那国周辺)は常に緊張していた地域だよね。
>また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致
邪馬台国の卑弥呼女王と1代 南扶余王, 解夫婁の息子,百済(南扶余=東扶余)の仇台が結婚同盟をして高句麗を侵攻したからである。邪馬台国は日本列島ではなく,中央アジアに存在した北倭だった
魏志倭人伝中の親魏倭王という称号は卑弥呼女王の倭と魏は金髪の瞳が青い白人の同族だったという証拠だった.倭という称号は小魏,字典の記録によればスリランカの 倭は 小魏だったと記録する
その白人同族が百済(南扶余=東扶余)の仇台と連合して中央アジアから高句麗を侵攻したのだ
インド人白人だった vijaya王(bc543年)はスリランカを占領して
12王子を生んだが,彼らがスリランカで任那(伽揶)12王国を建国した。
タミル出身の二番目王妃だった yashodharaが生んだ 12王子の名前は 12王国の名前とまったく同じだ。
(加羅国,安羅国,古嵯国,多羅国,稔礼国,斯二岐国,卒麻国,子他国,散半下国,乞〓国,卓淳国,啄己呑国 )
日本が 369年から 562年まで占領したと主張する任那日本府,彌摩那は
スリランカの地名だった Mimana(=mannar), Eemna(=Demna)とまったく同じだ。
日本の 卑弥呼女王はインド人白人だった 魏人だったし,彼らは黒人スリランカ 倭-人を統治した。
卑弥呼が占領した任那日本府は東南アジアスリランカだったし
黒潮暖流に乗って来て韓半島と日本に定着しただけだ。
字典の記録によればスリランカの 倭は 小魏だったと記録する。
その後に 卑弥呼女王の勢力は百済大和(モンゴロイド)の繼体天皇に政権を奪われた。
★くれはとり呉服, からかぬち韓鉄→くれはとり呉服は大陸百済が統治した中国の三国志の 呉王朝の服で
百済の焼く土器横穴式 墓が証拠。大陸の百済だった 呉王朝はバビルロニアの白人王朝だった魏(新羅)の攻撃を受けて日本に逃げた。それが現在の日本の着物と 呉服だ。
からかぬち韓鉄は 韓(kara)の意味, すなわち,インド人,スリランカの語源で 倭と呼ぶ。
すなわち現在の 倭は日本列島ではなくインド人,スリランカの 倭人を意味する。>>107
大いに関係がある。「倭国=「日本」と中国の研究家は認識している。
「倭国」から「日本」に改称して 中国に認められたのは おっしゃる通り7世紀からである。
「倭国」の首長を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織は3世紀からある。
この日本の有力者の墓である「前方後円墳」が造営された時代を日本では「古墳時代」と呼んでいる。
韓国の地には日本の有力者の墓である「前方後円墳」の墓が多数存在する。任那については中華の書物と日本の書物が一致して日本の領土と記載しているね
ついでに高句麗好太王碑の記述もそうなっている。
その場合は普通は議論の余地なんてないのだけれど、イデオロギーで無かったことに
したい輩がいるってだけなのよね。>>107
「670年 十二月 倭国が国号を日本と改めた。自ら言うところでは、日の出る所に近いから、これをもって名としたとの事である。」
『三国史記 新羅本紀』>>46
お前たちがノーベル賞1つとれない嘘吐きバカ民族だということがよくわかったよw>>116
長江流域(中国大陸)
↓
日本列島
↓
朝鮮半島
勿論この形での移動もあっただろう。
ここで明確にしておくべき点は、三国時代の朝鮮半島から渡来人が日本列島を訪れる以前より、列島には倭人(※)による勢力が既に確立していたという事だ。
※ ここでの倭人とは、縄文人と大陸系弥生人との混血人種だと捉えるべきだろう。
YouTubehttps://youtu.be/HBZlEtRlG-8>>120
文盲か。
構って悪かった。>>119
倭と燕と魏は ギリシアのサカイ(Sakai)
>次に昔氏はインドのシャキィ族の子孫です。
「シャキィ族の殷が海路満州に渡来して、その地に穢国をたてた」とありますが、
その王が中国史の穢君南呂峠(ナロン)で文郎国の子孫です。
シヤキィ族はいにしえバビロン南部のアル・ウカイルにいてジッグラトを作りました。
シャキィ族は、インドから渡来して新バビロニア帝国の亡命者と共に北支の中山国の支配者になり
シャキィ族(=サカ族 Saka)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。また、中国の史書では塞(そく[1])と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある
アケメネス朝の『ベヒストゥン碑文』ではサカ、古代ギリシアの歴史書ではサカイと記された民族は、古代ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族のペルシア側の呼び名であると、ヘロドトスは言う。この民族はアケメネス朝の支配を受け、ペルシア戦争に参加するなど、アケメネス朝では強力な部隊として活躍した。また、ストラボン『地理誌』によると、
サカと呼ばれる遊牧民のうち、特に有名なのがヤクサルテス川(シル川)のかなたからやって来て
ギリシア人からバクトリアを奪ったアシイ、パシアニ、トカリ、サカラウリであると記す。
この同じ事件を古代中国でも記しており、匈奴に撃退され、パミールを越えてアム川北に移動し、大夏国を征服した月氏の西遷、あるいは塞族の南遷がそうであるとされるが、塞族の存在については否定的な意見もあるため、慎重的な見方をしなければならない。[3]
11世紀に作られた「シャー・ナーメ」の主人公の一人ロスタムはサカ人だったという説[4]がある
やはり彼らは金髪の瞳が青いアレクサンダー大王の子孫であるという証拠だった>>123
[誤]黒人
[正]古モンゴロイド任那という漢字名は、高句麗の広開土王碑(414年建立)に「任那加羅」と見えるのが最も古い例で…。(中略)
現地朝鮮では「任那加羅」が細細ながらそのまま伝えられるとともに、「加羅」が分化して、五伽耶とか六伽耶とかいう総称名詞がうまれた(三国遺事)。
(中略)このように名辞の変遷は彼我相違するが、それぞれが広狭二義あることは、同じ根底、即ち同一の歴史的事実に基づくものである。同一の歴史的事実とは加羅諸国の連合、すなわち加羅諸国が共通の歴史的状況下に置かれたことである。
共通の歴史的状況下というのは、日本の一括支配下に立ったことを意味する。即ちこれが任那の成立である。
「日本書紀」〈1〉 (岩波文庫) P417 補注(巻第五)なんで韓国は頑なに任那を否定するのかといえば、日本に文明なんて存在せず自分達が教えてやったというブロパガンダが崩れてしまうからじゃないの?
これだけ史料や遺跡があるのにそれを否定するのは愚かなこと、敢えて云うけど歴史をみない者に未来なんてないよw韓国は古代から現代まで文明の恩恵を日本から受けたのに、利益だけを受けて全く感謝をしない国
最古の歴史書が中世の朝鮮が、古代史を語るなんて烏滸がましいわ。
>>120
証拠を出せと言われて、自分の妄想を証拠だと主張する韓国人のレベル。
『韓国人には証拠というものが理解できない』
韓国人は人類でも最も低質な愚民である。>>120
中東→有色人種。
ソロモンとシバの女王あたりがdとeのヤップという遺伝子挿入部の鍵ではないかな。>>120
蘇我氏=ミトラ>>118
日本人と契丹人の共通の祖先である「カラ族(クル族=シウカラ)」の歴史は、エジプト、シュメール、インダス、黄河の地を次々に侵略してきたアッシリヤ人、つまり、支那で漢人(あやひと)として知られる欧米系アーリヤ人の手で抹殺、改竄されてきたと考えられます。
徳川家が金髪だと勘違いする理由はそこにあるのでは?
中世ヨーロッパで使われていた日本を天国とする地図は我らがウラルツゥ王朝の民が遠い先祖の住む地を目指した名残りだと思っています。
旅の途中、国を造ったりしながら1500年の時を経て帰ってきたわけですから
色んな呼び名で呼ばれていますし混乱もあると思います。>>1
「府」ってついてる時点で任那は日本の行政権のある土地だったんだろうね。
日本府って書き方が今まで紛らわしい見解を生んできたんだろうな。>>1
日本と交易が有ったんじゃなくて日本領が有った印。
『韓国の古墳から大量の日本製矢尻発見 研究者「伽耶と日本の交易が活発だった証拠」』
http://gensen2ch.com/archives/82269213.html前方後円墳や倭系の鎧があった時代は、
明らかに日本の統治下だったのでしょう。
統治の度合いはわからないけど、
少なくともそこそこ大きな古墳を作るという時点で「他国内」とは考えられない。
その事実を朝鮮人は受け入れないと、
学術的な会話が成立しないよね。
ということが理解できないからこそ朝鮮人は軽蔑される人種ということ。任耶、日本庁、そんなもの、無かった。伽耶が親日だっただけ
日本庁などない
>>1
日本書紀(上)全現代語訳より部分抜粋:
「日本の天皇の意志は、もっぱら任那の回復を図りたいということである。どんな策によって任那を再建できるだろうか。皆が忠を尽くして御心を安じようではないか」
「先に再三新羅とは話し合いましたが、まだ返事もありません。また相談したことを新羅に告げても、回答することもないでしょう。今皆で使いを遣わして、天皇に申しあげましょう。任那を復興しようということの大王のお考えに異議はございません。しかし任那は新羅に国境を接していますので、恐れることは卓淳らと同じ滅亡の運命にさらされないかということです」
これだけ明確に記述されているのですから、日本が統治した「任那」が存在したと考えるのが自然でしょうね。
中国外務省HPにも「5世紀はじめ、大和国が隆盛した時期にその勢力が朝鮮半島の南部にまで拡大した」と書かれていました。大東亜戦争以前の日本史に関する記述を、K国の抗議によって何故か削除されてしまいましたが(笑)
そもそもK国が調べようにも、「三国史記」が最古の史料です。K国に都合の良い所だけ「日本書紀」を参照して、都合の悪い所は全否定。コリエイトも大概にしてもらわねば困りますね(笑)>>1
??????????????????????
https://kaikai.ch/board/43807/何が何でも朝鮮人は日本が占領していた歴史を書き換えたいんだよな。歴史変更主義者め。
『【書籍】 「任那は伽耶が日本の岡山に作った小国」…在日研究者の著書「北朝鮮学界の伽耶史研究」』
http://kimsoku.com/archives/10311195.html
2(日本・中国)対1(朝鮮)で日本説の勝ち。韓国の東亜日報は、朝鮮半島の遺跡で初めて、日本の古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)を代表する遺物、人物埴輪(はにわ)が出土したと報じた。
記事によると、出土したのは全羅南道(チョルラナムド)咸平(ハムピョン)郡にある金山里(クムサンリ)方台形古墳(5世紀末~6世紀中頃。馬韓の支配層の墓と推定される)で、馬形埴輪1点も同時に見つかった。
同古墳では2014年にも、鶏などをかたどった形象埴輪が出土している。
人物埴輪の形は鳥取県で出土したものに類似しているといい、
発掘調査を行っている全羅南道文化観光財団の全羅南道文化財研究所は「古代日韓関係史の研究における新たな契機になる」と評している。
今回の出土の背景については「6世紀まで百済の勢力圏に吸収されることなく、朝鮮半島南部で独自の影響力を行使した馬韓の勢力が、活発に国際交流を行っていたことを示す痕跡だ」と説明している。
また同研究所の所長は、古代朝鮮半島南部の「任那(みまな)」に日本の統治機関があったとする「任那日本府」説を日本の一部学界が主張していることにも触れた上で、
「統治権力を示す遺物や古墳群などが見つかっておらず、考古学的証拠は皆無だ」とコメントしている。
↑
⁉︎いや!その埴輪や前方後円墳こそが正に『任那日本府』の疑いようの無い証拠だろ。韓国の考古学者って…馬鹿なの?韓国人の馬鹿学者がどんな主張をしようと構わないけど、
世界中の同業者がら馬鹿扱いがオーバードライブするというのみ。
自業自得。>>145
任那のことをとっても、日本人は「接」ではなく、存在したかという証拠を追求する。韓国は「接」の用法を追求し、海に面した用例を見つけにいく。
素直に考えて、優先順位は「存在」の証拠を追求すべきじゃないかな。用語の追求を否定はしないけど。朝鮮人必死。半島南西部だけだから安心しろ、朝鮮人よ。
『【朝鮮半島日本語学説】韓国人「韓国語の起源についての最新学説がこちら‥」朝鮮半島では昔古代日本語が話されていた?』
http://blog.livedoor.jp/sekai minzoku/archives/55426040.html(スペース削除)一時期教科書から省かれていたから復活したのは重畳。
『韓国人「日本の歴史教科書、最初のページから韓国だった…」』
http://kankokuno hannou.org/blog-entry-16356.html(スペース削除)
任那 日本領
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