朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、文献で確認できる限りでは、1593年に文禄・慶長の役に参加していたキリシタン大名小西行長の求めに応じて朝鮮に渡ったイエズス会司祭グレゴリオ・デ・セスペデスが最初である。しかし、彼の活動はあくまで日本軍の従軍司祭としての活動に限定されており、朝鮮の人々に布教をしたわけではなかった。しかし、この戦役において小西はジュリアおたあと呼ばれる朝鮮人養女を得ており、彼女は小西によって行き届いた教育を受け、養父にならって受洗した。よって、歴史上初の朝鮮人キリスト教徒(受洗者)は彼女であると考えられている。
朝鮮史上初のキリスト教礼拝所は北京で洗礼を受け、帰国した李承薫(イ・スンフン)が1784年に平壌で設立したものである。(wiki)
韓国国民の3割がキリスト教徒
キリスト教を初めて韓国に伝えたのは小西行長
なぜ、16世紀、ポルトガルやスペインの宣教>>14
単純に中華経由で美術品として流れてきただけだろ>>13
それは、初めて知った。面白い。
朝鮮半島に対する、中国文化の大きな影響を示すという意味では、意義があると思われる。
歴史的には、朝鮮の支配者であった中国人が持ち込んだとも考えれれ、土着の朝鮮人の文化ではなかったとも思われる。
現代のキリスト教との関連性は全くないと考えるべきであろう。
小西行長が伝えたキリスト教とは全く別のものである。相変わらず韓国人はバカだから勘違いしてる
ネトリウス派の景教は破門になった古代キリスト教でペルシア帝国に移動して唐朝の645年に長安に入った
当時宗教とは別に中央アジアに「ソグド人」が居てシルクロード貿易を担ってた
韓国にあるのはシルクロード貿易の中でソグド商人が持ってた商品or献上品だ
頼むから「東アジアのキリスト教の起源は韓国」とか頭の悪いことを言うなよ!バカ過ぎるから
韓国人はとにかくバカ過ぎる>>3
ローマ帝国もビックリ、驚愕の世界初w王が神の奴隷であるキリスト教なんて東洋の価値観に馴染む訳がない
この前提を忘れている朝鮮人が多すぎ>>13
景教ってネストリウス派だろ。
そんな異端をキリスト教と呼んでいいのか??>>13
宣教師が朝鮮半島に来たと信じてますか?w宇宙の創生も朝鮮人なら 宇宙人も朝鮮人だわな
>>23
なんだ、お前かよw
解散w法然や親鸞や日蓮も朝鮮人だったのだろうか?
最澄や空海はどうなのだろうか?ソグド人は日本に来たのか? ~天皇はどこから来たか~ (2)
ソグド人とはスキタイ人で金髪の瞳が青い白人だった
https://plaza.rakuten.co.jp/oo00wa00oo/diary/200704060000/
これから展開する話は、天皇は中央アジアからやって来たとする私のファンタジーである。
2007年4月6日の深夜にNHKで『シルクロード「消えた隊商の民 ~ソグド商人を探す~」』を再放送していた。ネットで調べてみると、この回は特にトンデモ話だったという話が出ている。私自身ソグド人については詳しくないので、この番組がトンデモだったかどうかは分からない。ただ確実なのは、私のこのシリーズのほうがもっとトンデモ話だということである。(笑)
ソグド人は、人種的にはイラン系らしい。そして、宗教はゾロアスター教である。これは拝火教とも言われるが、アフラ・マズダという光の神を信仰しているのだから、天照大神とも似た神を崇拝していたことになる。
さて、中央アジアにはヤグノブ人というソグド人の直系子孫が3000~4000人くらい住んでいるのだそうだ。テレビ番組に彼らが登場したが、ネットでは“自称ヤグノブ人”と言われ、検証がきちんとされていないと批判されていた。まあ、それはさておき、途中に通訳が何人も付いてかなり面倒なコミュニケーションになっていた。
テレビでは明確には分かりにくかったが、これはソグド人が質問したのだろうか? 「日本にもソグド人が住んでいるという話を聞いたことがあるんですけど」と向こうから質問していた。で、日本人スタッフは「それは初めて聞いた」というような答えをしていたが、ソグド人は「昔そんなような噂をしておりました。」と言っていた。
こういう話になると、がぜん私は調べてみたくなるのである。(^_^) もちろん、来日したのは奈良時代以前に違いない。
本当に彼ら自身が来たのかどうかはわからないが、少なくともソグド文字の刻印された香木が法隆寺や正倉院に残っているのだから、かなりありそうな気がする。
《パネルディスカッション 「シルクロードから正倉院へ」》《パネルディスカッション 「シルクロードから正倉院へ」》
――法隆寺にソグド文字を刻印した香木が残っているが、シルクロード交易を担ったソグド人について。
川本 楼蘭の遺跡で、313年に洛陽から出された手紙が見つかった。約100万人いた洛陽の人口が異民族侵入で激減、「ソグド人の商業ルートが破壊されたので対策を考えなければならない」ということが書かれていた。(イラン系の)ソグド人は幅広い商業活動をしており、交易のためにはキャラバンを組まなければならないが、自衛のため武力にもたけていた。
――そのソグド人が日本とつながる黄海沿いの港にいたかもしれないという線刻画が見つかっているが。
川本 30年ほど前に山東半島近くの青州で見つかった。6世紀後半の線刻画で、ラクダを連れて商売するソグド人が描かれている。法顕(337年ごろ~422年)はインドからセイロン(スリランカ)を経て山東半島へ海のルートで帰ってきたが、そのルートでもソグド人に関係のあるものが出土している。
私はソグド人は西域から華北にかけて商売をしていたと想像していたのだが、インドから中国への海の道でも商売をしていたということのようだ。そうすると、黄海から海をわたって日本へやって来ている可能性は十分にあるだろう。
さて、日本の仏教儀式もソグド人と関係があるのかもしれない。《未菜実(ゲストブック 2005年8月17日)》
盂蘭盆(うらぼん)は、従来、サンスクリット語の「ウランバナ」から来ているとされていましたが、近年、有力に待ってきている説に、ソグド語説があります。
ソグド人はシルクロードを取り仕切っていた民族で、正倉院にはソグド文字が書かれた香木など、ソグド人に関係するものがいくつか見つかっています。
彼らはゾロアスター教(拝火教)を信じていましたが、お盆の迎え火、送り火も、そのゾロアスター教の影響ではないかと言います。
《渡来人研究第1号》
。「ウラボン」(盂蘭盆)とは、今の「お盆」の起源でありますが、ペルシャ系のソグド語で「死者の霊魂」を意味する「ウラバン」から来ており、特にソグド人には、家に祖霊を迎え、共に供え物の風味を味わうという祭があったそうです。
ここまで来ると、「日本人はソグド人だった」説を立ててもおかしくないような・・・。(笑) ま、それは冗談としても、本来はインド仏教とは無関係といってもいいくらいの先祖信仰が日本仏教においては中心的儀礼になっている点を考えると、ソグド人の日本文化への影響が非常に大きかったかもしれないとは言えよう。
とすると、最初の盂蘭盆会が気になるところだ。以前に書いた記事から引用しておく。
漢字は違っているが、「盂蘭ぼん会」を斉明天皇3年(657年)7月に営んだとある。(『新編日本古典文学全集 日本書紀3』小学館 p.209) また、斉明天皇5年7月には、詔して諸寺に盂蘭盆経を講じさせている。(上掲書 p.228) もっとも、実際には推古天皇14年(606年)には「是の年より初めて、寺ごとに4月8日、7月15日に設斎す」(『日本書紀2』小学館 p.553)とあり、はじめて灌仏会と盂蘭盆がなされたことが伺われる。
……(中略)……
私にとってとくに興味深かったのは、斉明天皇3年7月3日に筑紫に漂泊していた覩貨羅トカラ国の人々を召したり、7月15日に盂蘭盆会を営んだ夕べに覩貨羅人を饗している点である。さて、この覩貨羅(アフガニスタン東部)の人物は、《サーサーン朝ペルシャ》最後の王のヤズダギルド3世の息子で661年に唐に亡命したペーローズ2世の使節団ではないかとも考えられている。アフガニスタンからインドを通って南ルートでやってきたとするならば、ソグド人が同行していたということも考えられる。サーサーン朝で鋳造された銀貨は、ソグド人などの中央ユーラシア社会における高額決裁などの基軸通貨として大変尊重されたからである。また、始祖アルダフシール(アルダシール1世)自身がゾロアスター教の神官階層から出ている点も、ソグド人との関連という意味で見逃せない。
《ソグドルート=シルクロードを伝わったヤマトの様子。(オリエントの都アスカへの道 「秘められた真実」列島古代史学 2007年1月27日)》
当時「佐富」という天皇家の女性がいたが、彼女との関係はどうなのだろう。
サフまたは薩保とは、唐ではソグド人の町の長や、ソグド人商業隊の長のことを意味する。
このころの天皇家の、厩戸の皇子の親戚筋にこの名前が見える。
ソグド人の情報網がヤマト朝廷の人脈とその政権の特徴がサーサーン朝ペルシャににたものであったことを知らせていたから。ペーローズの使節団と思われる一行が明日香に援軍を要請にやってきていたといえないだろうか。
はっきりとソグド人とは断定できないが、聖徳太子の時代あたりにソグド人が来日していた可能性は高いのではなかろうか。もう一人だけソグド人の可能性がある人物を挙げておく。それは鞍作止利である。
《紀・推古のツゥーリ/止利はソグド人=後のトカラ系の子孫 (オリエントの都アスカへの道 「秘められた真実」列島古代史学 2007年1月10日)》
推古朝のペルシャ系の人物、鞍作りのツーリは祖父のダルダー(司馬達等)(583年登場)に連れられてアスカに暮らした技術者である。彼は本邦初の金銅の仏像を飛鳥寺に納めた。その技法、「止利様式」は北魏式のイメージがあるようだ。……北魏のペルシャ語系の人々といえばソグド人である。
>>>>>>>>>>>>新羅人と日本の仁徳天皇と徳川家康もソグドの人だった。
ソグド人とはスキタイ人で金髪の瞳が青い白人だった
法隆寺の香木文字とソグド(法隆寺献納宝物 東京国立博物館蔵)韓国人の脳では正倉院のペルシア品を見たら日本人はペルシア人になるのだろう
解散>>32
藤原宇合(うまかひ)(694~737)=金髪の瞳が青い白人だった
「佐賀神埼」の記事を書いている最中、朝、手にした本からパラリと落ちて来たコピー。そこには「神埼西郷」という文字がありました。それは真鍋の本のコピーでした。
神崎に「西郷」がある?
地図を見ると、櫛田宮の西、城原川の対岸にありました。
コピーには「佐伯」「ソグド」「シルクロード」の文字も。それはずっと理解できないページでした。
ところがその夜、真鍋の本を手に取ってたまたま開いたページに「佐伯」の文字が。
こうして、バラバラに書かれていた内容が繋がった不思議な一日がありました。これが先日ちょっと書いた「渡来した人」のことです。今日はこれをブログに書くことにしました。
「西郷」
その地名はソグド人が「別所」を設けていた所だと真鍋は伝えています。
「別所」は記憶があいまいですが、確か「湊」だったと思います。
渡来人たちの足跡は湊からスタートします。渡来人ごとに棲み分けがあり、その名残が地名に残っているということです。それがいよいよ具体的に分かって来ました。
まずは、出て来たコピーの一部を紹介しましょう。
常陸国風土記 茨城郡の条に曰く
山の佐伯(さへき)、野の佐伯、自ら賊(あた)の長と為り、徒衆(ともがら)を引率(ひきい)て國中を横しまに行き、いたくかすめ殺しき。
>>藤原宇合(うまかひ)(694~737)の名文に成るこの記述は、近東のアンティオキヤから長安をへて、遂に石岡までのシルクロードを開拓したソグドの氏族の片鱗を窺わせる。
西条(さいじょう)の地名は播磨加古、備後比婆、安芸賀茂、阿波板野、伊予新居(にい)、三河幡豆(はづ)、安房安房(あわ)、安房長狭(ながさ)にみられる。これが倭人が翻訳翻案したシルクロードの道路(みちすじ)であった。
西郷の地名は摂津豊能(とよの)、伯耆東伯(とうはく)、隠岐周吉(すき)、筑前宗像、肥前神埼、肥前高来、大隅姶良、美濃本巣(もとす)、三河渥美(あつみ)、遠江小笠(おがさ)が挙げられ、もって佐伯の氏族の別所であった。 拾遺p167
要約すれば、ソグド人はシルクロードを開拓した氏族であり、日本では佐伯といい、茨城県石岡市まで足跡を伝えている。地名は「西条」別所は「西郷」という。
ということです。魏の曹氏, 佐伯氏, 物部氏, 仁徳天皇と徳川家康=金髪の瞳が青い白人だった
親魏倭王,卑弥呼=金髪の瞳が青い白人だった
日本に佐伯氏 白人の子孫が13000人 www
ウィキペディアには、
ソグド人は中央アジアに住んでいたイラン系の農耕民族で、かつてはシルクロードを経済的に支配していた、
と書かれています。
ソグド人は日本では佐伯という名で呼ばれていたので、風土記に書かれた佐伯はソグド人たちだったということになります。
「西条」(さいじょう)「西郷」(さいごう)の地名は佐伯(さいき)の拠点だったということです。いわゆるソグド人コロニ―です。
>>ウィキぺディアによると、ソグド人は中国では「康・安・米・史・何・曹・石・畢・羅・穆・翟」という姓を与えられ、それらを一括してソグド姓と呼んでいます。
「ソグド」は『魏書』では「粟特」(そくどく)と書かれています。それが日本では「粟の国」を連想させます。佐伯姓は瀬戸内海を中心に分布しています。
北内閣の技術提供者は佐伯氏なのか、物部氏なのか、あるいは共同作業があったのか、はたまた全く別の氏族の成果なのか、具体的な氏族名で考察できるようになって、かえって困惑していたのです。
胡人が日本に自由に渡来できた時代は燕(前1123~前222)代で終焉した。韓人が半島を占拠してからは、胡人は全く倭人と隔絶されて、日本はあたかも韓人の自由に往来できる別天地に変わった。
陸封された胡人の子孫が西の熊襲であり、東の佐伯であった。『儺の国の星拾遺』p177
ソグド人が日本に自由に渡来出来たのは弥生時代前期ごろまで。海北道が利用できなくなって佐伯は陸封されたとあります。しかし、彼らは南海道を使ってでも日本にやって来た。宮内庁,正倉院
宝物詳細画面
http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Treasure?id=0000010539
色氈 第6号
(しきせん)
分類:〈用途〉調度 〈技法〉染織
倉番:北倉 151
寸法:長212 幅109
材質・技法:羊毛 紫色
文様のない紫色の毛氈で、羊毛をフェルト状に縮絨させたもの。隅には苧麻の布箋が縫いつけられており、墨書の内容から新羅との交易品と考えられている。
新羅との交易?
新羅人は白人で,仁徳天皇が白人だったために国宝になったのだ。
新羅が韓半島に存在していたならば,羊毛のカーペットは作ることができなかった。
新羅は中央アジアのバクトリア王国だったし
倭人も白人だった>>35
もう誰も聞いてないから、デパスでも飲んで寝ろ。
君の精神衛生の為だ。宗教史を遡れは東西南北ユーラシアの複雑な分岐と統合は単純化は不可能。今の半島のキリスト教の流れは日本からの影響は少なくない。
紀元前の日本に遺跡を見れば国際都市のようである、半島にも多様構造があり変化が繰り返され流動性が高い時期もあった。
キリスト教勢力は北部が強かった、北朝鮮によって弾圧排除された、中国でも弾圧対象。個人の権利や人権を重視した平和な民主国家を作ろうと宣伝し、北朝鮮のような好戦的な人権無視の国になった。物質や科学を重視し、疑似科学の信仰へ進んだ。韓国ではキリスト教の進化が必要な時代だろうな、そうしないと世界の環境に対応できない。天平勝宝8歳(756)7月26日、光明皇后が屏風・花氈など、聖武天皇と自らの愛用品を東大寺大仏に追納した際の目録
光明皇后が、聖武天皇の遺品の数々を正倉院に納めた際の目録
続いて、7月26日には
屏風花氈等帳、
天平宝字二年(758年)6月1日の大小王真跡帳、天平宝字二年(758年)10月1日には藤原公真跡屏風帳がそれぞれ
収められた。
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%B1%E5%A4%A7%E5%AF%BA%E7%8C%AE%E7%89%A9%E5%B8%
聖武天皇
文武天皇の最初の皇子として生まれ,即位前は首皇子と呼ばれた。 7歳の時、父親である文武天皇が死亡して、母のミヤコ[宮子]は精神が衰え、皇太子の面倒を見られなかった。 それで首皇子が成長するまで祖母の元明天皇が即位して国の面倒を見た。 714年首皇子は成人式を行って正式に太子になったが、[立太子]、当時、病弱彼の姉が元正天皇[元正天皇]で代わりに即位した。 その後首皇子が24歳になった年に元正天皇から皇位を譲位されて聖武天皇に即位することになり、藤原家の光明子を皇后に迎えた。
聖武天皇,藤原家の光明子 皇后は金髪の瞳が青い白人だったwww
文武天皇=新羅の文武王,白人 www爆笑
中央アジアの白人の羊毛カフェット花氈 使用www>家康は源氏でもなにでもない。将軍になりたくて源氏だと言っただけ。そうしなければ関白留まりでしょ。
日本の南朝の明治天皇などの子孫を除いて日本の北朝の41代以降の天皇たちは白人だった
(新羅系の 物部氏=藤原氏と高句麗泉将軍の氏姓の連合)
40代 天武天皇=物部大海人(=泉 大海人)672-686 高句麗の 淵蓋蘇文
41代 持統天皇=新羅 中臣氏(藤原氏の娘)686-702
42代 文武天皇=物部軽(新羅 文武王=泉将軍の息子)702-707=束の間日本列島が新羅領土
45代 聖武天皇=石川君子724-749から>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
48代 称徳天皇=石川阿倍765-770まで
(百済 伴氏=和氏)クーデタで百済係が掌握,桓武天皇が新羅,高句麗係の和書たちを燃やした事件!
49代 光仁天皇=伴白壁770-781から
50代 桓武天皇=伴山部781-806
51代 平城天皇=伴安殿806-809まで
(新羅 藤原氏)
52代 嵯峨天皇=藤原神野809-823から
56代 清和天皇=藤原惟仁850-881>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
87代 四條天皇=藤原秀仁1232-1242まで
徳川家康の先祖>>松平家は少なくとも清康の時代から「新田氏支流世良田氏系統の清和源氏」であると自称していたがこの改姓に伴い家康は「本姓」を「藤原氏」とした (Wikipedia)
徳川家康の先祖は清和天皇で,56代 清和天皇の完全な名前は藤原惟仁である
徳川家康と先祖,物部氏, 藤原氏は金髪の瞳が青い白人だったという歴史的真実は証明された。>>40
「だから、韓国人はバカなのだ」というのは、結論という以前に前提条件だから生暖かく見守るのが吉。>>40
>>日本の〇〇は、青い目をした白人”と主張するのならば、
その記述が明確に記載されてる日本の一次資料を提示しろ。
仁徳天皇は,cranial deformation 変形頭蓋骨をした新羅人の韓国人だった。
物部,徳川家康,仁徳天皇はは金髪の瞳が青い白人だった
隼人(はやと)とは、=白人
物部の謎と『古事記』編算の一人である稗田阿礼、そして鎮魂祭について追っていたら、伏見稲荷大社にある「伏見神寶神社(ふしみかんだからじんじゃ)」にいった。するとそこで木の御札「「魔除渦巻お守」(隼人の盾黒朱の二重螺旋)」が販売されてある。伺ったところ、これは平城京から出土された「隼人の盾」だそう。なぜここに関係しているのか?それから、「隼人の謎」を追い求めている。
古代日本において、薩摩・大隅(現在の鹿児島県)に居住した人々。
「はやひと(はやびと)」、「はいと」とも呼ばれ、「隼(はやぶさ)のような人」の形容とも方位の象徴となる四神に関する言葉のなかから、南を示す「鳥隼」の「隼」の字によって名付けられたとも(あくまで隼人は大和側の呼称)。
風俗習慣を異にして、しばしば大和の政権に反抗した。やがてヤマト王権の支配下に組み込まれ、律令制に基づく官職のひとつとなった。
兵部省の被官、隼人司に属した。百官名のひとつとなり、東百官には、隼人助(はやとのすけ)がある。
古く熊襲(くまそ)と呼ばれた人々と同じといわれるが、「熊襲」という言葉は日本書紀の日本武尊物語などの伝説的記録に現れるのに対し、「隼人」は平安時代初頭までの歴史記録に多数現れる。
熊襲が反抗的に描かれるのに対し、隼人は仁徳紀には、天皇や王子の近習であったと早くから記されている。
隼人は五世紀以後、大和朝廷に服属した熊襲の後身である。つまり、大和朝廷に服属しなかったのが熊襲で、服属したのが隼人である。
https://ameblo.jp/taishi6764/entry-12141118802.html>>1
>朝鮮に初めてキリスト教の宣教師が足を踏み入れたのは、文献で確認できる限りでは
日本とオランダの文献で確認できる限りでは。に改めた方が良くないか?
日本にキリスト教宣教師が来た時代。彼等の本拠地は、インドのゴアだった。
彼等はそこから出港していろんな所へ行っていた。種子島へ漂着したのも、ゴアを出港した船の船員だ。
なので、朝鮮半島にも漂着した可能性は充分ある。
当時の朝鮮半島の王朝は鎖国政策を採っていたから、漂着しても出国や手紙を伝える手段がないと漂着自体が認知されない。それで文献に残らなかった可能性は充分ある。
1627年に朝鮮半島に漂着したヤン・ヤンセ・ウェルテフレー (Jan Janse de Weltevree)が、
朝鮮軍で、日本人や中国人からなる外国人部隊の隊長を務めていた。という事実からも、朝鮮国に「外国人を軍人にして使役するノウハウ」があったことが窺える歴史は兎も角、広まったのは朝鮮戦争以降らしいね。
戦争末期には敵味方が判らなくなるから枝でも箸でも十字架を作って掲げると米軍に保護されたとか何とか。下手に独立せずに米軍統治のままで良かった様な気がする。>>14
ん?どこの遺跡のもの?
遺跡として出土するくらいなら王家クラスの遺跡な筈だよね???
そしてキリスト教の遺物が王家から出てくるのであれば、それは新羅がキリスト教国家でなくてはいけないが?>>13
これについても同様
新羅はキリスト教国家だったわけ?
教典は?個人の行動記録ではなく、遺跡の出土をもって主張するなら、その重みも意味合いも、必要となる資料も比較にならない程必要になるでしょ
遺跡から出てきたのであれば、その宗教は国家宗教ということになるし、国家宗教であったほどのものが、突然消える筈もないので遺跡から出土したものが本当にキリスト教の遺物であるなら、朝鮮王朝の初期にも引き継がれているか、排除したのであれば民衆を滅ぼした記録が必要となるね>>2
>950年代の検討帝国時代に
>は既にキリスト教が存在したwww
最古の歴史書が12世紀w>>1
景教が7世紀には日本や朝鮮に伝わっていたという説があり、像や建造物にそれらしい痕跡はあるが、それだけだとシルクロード経由で物や技術が輸入されただけという可能性もある。宗教として伝わったかというとその証拠は無く、伝わっていたとしても、その教えは早々に断絶し16世紀にイエズス会が来るまでキリスト教が忘れられた存在であったのは厳然たる事実。>>14
피젯스피너?チョン君よ
放射性炭素年代測定しろ>>43
だから、何処に“白人という記述が明確にある資料”なのだ?
だから、お前を代表に韓国人はバカなんだよ。聖地巡礼してもらえ
その無駄な知識でウォン安を止めてみろ。
>>23
あ、なんだいつもの基地外だった宗教は他の信仰を混合させたものが多い。
地中海とインド各地の交易、海路陸路の複数の東西交易路は紀元前から盛ん。
古くはない初期仏教がキリスト教へ与えた影響、逆にヘレニズムのようなものもある。
大陸東西南北各地陸路や海路は網のよう。
絹の道は有名だけど各時代や地域で多様な道、道は動物の移動路にあるために険しい場所へ通り人間には危険で辛い場所もあり興味深い。
ルートは楽に見える場所を避け人間的にはありえないような場所もある、砂漠地域の場合は移動する湧き水の臭いなども関係するらしい。朝鮮のキリスト教徒は、朝鮮王朝末期にもいたが非合法、日韓併合後朝鮮総督庁ノ顧問のアメリカ人がキリスト教をひろめ、総督庁もキリストを合法化いたが、南長官が神社参拝を義務づけたので、キリスト教徒は親日から反日になった
韓国人は知らないこと
>>1
韓国人は寺内正毅のこの和歌知っとるの?
「小早川加藤小西がこの世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ」- 61名無し2021/12/22(Wed) 18:43:05(1/1)
このレスは削除されています
- 63名無し2021/12/27(Mon) 17:02:31(1/1)
このレスは削除されています
キリスト教を初めて韓国に伝えたのは小西行長
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