皆さん、家庭内に戦争経験者がいる場合、積極的にいろんな話しました?
祖父が海軍将校で中佐で終戦を迎えてました。一緒に暮らしてましたが、残念ながら、生前に戦争の話はほとんどしてません。なんとなく、タブーな空気がありました。
遺品のアルバム、日記などをみて思いを馳せる今日ですが、みんなは家庭で戦争の話とかしてました?
ベトナム戦争経験者とかまだ若いから、話を聞くチャンスはたくさんあるでしょう。
南京の話や、慰安婦、ライダイハン等々。
私は祖父からほとんど話を聞けてないので、本やネットで知るしかないのですが、皆さんの環境はどうですか?>>83
>当時の人命軽視の作戦だって、後からならいくらでも言えるだろうけど当時は負ければ植民地。アジア全土が白人支配の元、奴隷として生きる以外の余地はなかっただろ。
実際、奴隷になったか?「余地」があったのだから、君の意見は嘘だね。
実際にそれが事実だとしても、負けが確定してかつ戦力を残した状態で有利な停戦に持ち込むのが最善
沈没した戦艦をまだあるように装って、昭和天皇陛下まで騙したんだろ。
そいつら全員、東京裁判と関係なく死刑で当然だ。
そいつらのせいで、無駄な犠牲者を出したわけだ。
結局、戦争を長引かせたのはそいつらの保身のためだったということだ。
そもそも、満州事変からして関東軍の独断暴走だろ。
なに、下手な言い訳を並べているのやらそもそもこのスレってそんな話をする場所じゃないよね?
>>86
>満州事変云々も、通州事件などがある時点で暴走とは言えんね。
バカ発見、
1937年(昭和12年)7月29日 通州事件
それまでに、
1928年(昭和3年、民国17年)6月4日 張作霖爆殺事件(でっち上げ暗殺)
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日 柳条湖事件(でっち上げで満州侵略)
1932年 熱河作戦(万里の長城を超えて侵略)
やっているよね。
一体何人殺害した?
なんで、1937年のことが1931年の満州事変の口実になるのかね
時空を超越した馬鹿だねー>>92
同じ穴の狢どころか、虎の威を借る狐だよ
朝鮮人は基本的に卑怯者が多い>>1
品位のないネトウヨは嫌われている。
https://kaikai.ch/board/66703/
のスレッドで懲りたのか、と思いきや、
https://kaikai.ch/board/66841/19
を見る限り是正はない。
まーた、
スレッド主を例外や裁判官の立場に置いての、
気に食わない奴を「ネット右翼認定」し、
皆にそれを叩かせたい
そんな意図や目的ありきの、ペテンや詐欺を疑う。
違うなら違うようになるよう努めてくれ。
うち?戦地で死んだから体験談なんかねぇよ!
米国や日本ですら左翼が、軍人を人頃しとして、叩いて喜んでたご時世に、元日本軍人が弁明すら語れるわけないだろ。
反日に狂ってる韓国も同様だろ。
体験談?語れば社会的に殺傷したろ。
今ですら、どんだけ日本の政治家が、韓国の非難や左翼の扇動で職を辞したりしたか。反吐が出る。
米国が韓国を植民地開放したのが善で、日本が列強の植民地を開放したのが悪とする歪曲を米国に指摘したら、歴史修正主義者呼ばわりを受けるのは明らかに間違いだ。
日本が悪なら、米国が悪でないとなぜ言える?
右翼の美化が悪なら、左翼の美化は悪でないとなぜ言える?
時代が違えば善悪常識は変化するのに当時に無いもので裁くのか?
自虐なら善か?ネトウヨ認定したものを叩けば善か?君を叩けば悪か?>>92
歴史を知らずに、何を責任転嫁しているのかね。
アメリカの植民地であるフィリピンは、1944年に独立が約束されていた。
日本が大東亜戦争をする前に時代は変わっているのだよ
だから、日本も植民地にならなかったんだねー
wiki フィリピンの歴史
1934年に民主党フランクリン・ルーズヴェルト政権下で将来の独立を認めるフィリピン独立法=タイディングス・マクダフィー法が議会で可決、10年後のフィリピン独立を承認。1935年5月には憲法が批准され、同年9月に行われた選挙によってマヌエル・ケソンを大統領とした米自治領政府(独立準備政府)フィリピン・コモンウェルスが成立した。
wiki フィリピン・コモンウェルス
1935年から1946年のうち、太平洋戦争による日本占領時に政府が亡命していた期間を除いた時期にフィリピンに存在した政治体制である。1935年施行のフィリピン独立法によってアメリカ合衆国の海外領土の政庁だったフィリピン群島政府(英語版)に取ってかわった。コモンウェルスはフィリピンの完全な独立のための準備をする暫定政府と位置づけられており[10]、現在のフィリピン共和国政府の直接の前身となる組織である。
この政府の元では、行政の権力が強く、また最高裁判所があった。国民党(英語版)が多数派を占めていた国会は当初一院制だったが、後に両院制となった。1937年、政府はマニラとその周辺で話されていたタガログ語を国語であるフィリピン語に指定したが、それが広まるのには時間がかかった。また、婦人参政権が実現し、経済(英語版)は1942年に日本が占領する前に世界恐慌前の水準にまで戻った。結果論から日本が愚かで悪だったと規定するのも過ちだと思うがね。
米国ではなく、ソ連に敗北して占拠されるとしたら?
戦わずに陵辱と虐殺と略奪を受け入れるかね?
米国様には、逆らわず屈するのがクレバーと言い張る奴は、
後付正当化してるに過ぎん。
同じ事を、ソ連や中国や北朝鮮にも言うつもりかね?
そういう意味では、韓国人のテロ行為や捏造や犯罪の美化には軽蔑を送るが、
朝鮮人の地位向上活動や、独立運動自体については、否定する気は無い。
李氏朝鮮から生活水準があがったんだし、独立する名分もないんだから、せめて独立独歩できる自力を身に着けてからにしろよとは思うが。
未だに独立出来てない気分満載で日米どころか中国にすら、属国気取りでねだって回るのは無様すぎる。>>91
朝鮮人は世界の歴史に関係ない。>>89
朝鮮人が世界の歴史を語るなよ。過去も未来も世界の歴史に朝鮮人は関係ないからね。>>41
アメリカか負けて撤退したけれど、
東南アジアは赤化しなかったじゃないか?
名分はどうあれ、
現実はアメリカ帝国主義によるベトナム内政介入だよ。
朝鮮戦争も同じ。
アメリカは日本に落とした爆薬の3倍を朝鮮半島に投下して、
朝鮮全土を焦土にした。
日本防衛のために 朝鮮が必要だったからだ。>>91
だから朝鮮は 日本と戦わずに、国を捧げたのか?
そのせいで 100年経っても劣等感に悩み、
歴史を修正しようとしているのに?
君の論理なら アメリカが朝鮮戦争に介入しなければ、
朝鮮半島に大きな被害はなかっただろう。>>103
親日派辞典に4000人の名前があるけど、独立運動家は何人いたのかな?
どっちが主流か考えなさい。
王まで参加した新日か。
国外に逃亡して何もしていない臨時政府か。>>97
>結果論から日本が愚かで悪だったと規定するのも過ちだと思うがね。
結果論?
関東軍が柳条湖事件で自作自演のテロを起こして、何が結果論だ。
原因が間違ているんだよ。
内閣も昭和天皇陛下も不拡大方針だった。
↓
原田熊雄日記
十九日の朝、新聞で奉天の郊外に於ける鉄道爆破の事件を読んだ瞬間、自分は直覚的に、愈々やつたな、と思つた。―というふのは、五日前の十四日に―つまり陸軍大臣が御殿場から帰つた日に、直ぐ建川少将を以て、関東軍司令官に親展書を持たしてやつた。その内容は、十一日に陛下の御召があつて、陛下から軍規に関して御注意があり、殊に満蒙に於ける軍隊の行動に就ては、更に一層慎重なる可きことを言はれたので、其聖旨を関東軍司令官に伝へて、満蒙に於ける陸軍の種々の画策をやめさせたいと考へて、抑へる意味の手紙だつたのだ。その時相談に与つてゐた軍務局長が、この使は、建川を以てしなければ治らん、と陸軍大臣に言つたさうだが、当時各種策動の糸を引いてゐたのは、矢張り建川と、軍務局長だつたからであらう。
略
自分は、「張作霖の事件があつて未だ幾年も経たない今日、日本人が襲へば、外国人は、又日本の陸軍が陰謀をやつたな、と思ふのも当然のことであつて、あの時の張作霖爆破の張本人である参謀を、軍律に依つて処罰し得ず、今日尚ほ満洲にやつて働かせてゐると云ふ事実を以て見ても、貴下の弁解は到底成り立たんと思ふ。それで、今度のことは陸軍の策動ではないだらうと自分は思ふけれども、然し多くの人の、又やつたな、と云ふ感じは覆ふべくもないのだから、陛下の幕僚長である貴下は、陛下の軍隊の為に、余程厳格になすつて、苟も脱線などないやうに注意されなければいかん」と云ふことを言つて、「公爵の御心配も其処にあるのです」と附加へて置いた。>>101
机上の空論を語らずに、当時の日記をしらべればいいんだね。
簡単だ。
招集から始まって南京戦以降も毎日書かれている。
山本武の「陣中日記」
https://karin.flib.u-fukui.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=v3search_view_main_init&op_param=gcattp_flag%3Dall%26srhclm1%3Dwords%26valclm1%3D%26optclm1%3DAND%26srhclm2%3Dtitle%26valclm2%3D%26optclm2%3DAND%26srhclm3%3Dauth%26valclm3%3D%26optclm3%3DAND%26srhclm4%3Dpub%26valclm4%3D%26body%3D%26cont%3D%26year_y%3D%26year_m%3D%26year_d%3D%26code_type%3D%26code%3D%26bibid%3DTD00002019%26lang%3D%26niitype%3D%26format%3D%26sortkey%3Did%252FASC%26listcnt%3D20%26startpos%3D%26fromDsp%3Dcatsrr%26searchDsp%3Dcatsrr%26initFlg%3D_RESULT_SET%26hitcnt%3D%26searchsql%3D%26searchhis%3D%26akey%3D%26sdi%3D%26fct_gcattp%3D%26fct_auth%3D%26fct_pub%3D%26fct_year%3D%26fct_cls%3D%26fct_sh%3D%26fct_lang%3D%26fct_holar%3D%26fct_tag%3D%26fct_campus%3D%26fct_range_year%3D%26words%3D%26title%3D%26auth%3D%26pub%3D%26place%3D%26sh%3D%26ncid%3D%26user1%3D%26fct_user1%3D&block_id=375&tab_num=0&search_mode=detail#catdbl-TD00002019>>101
十一月三日
略
又友軍の砲弾落ち始む。敵は十九路軍系と聞く。度々逆襲を企て、全く日本軍以上、死物狂ひの抵抗服りなり。
あ h 何時になったら飯が食へるやら、毎日干パン暮し、腹の虫も泣いて居る。蘇州河を渡って早や四日、戦争は何時まで続く事か、一日も早く平和の来るを望む。此れが本当の心の底だ。
然し、大君の為めに憎みても余りある支那軍を、撤底的にやっ〉けねばならぬ任務があるのだ〈午後三時記〉。
部落左端に出で陣地に着く、時に午後四時頃。敵ハ逆襲を度々企つ。敵弾雨霞と飛来す。腹が空ってたまらない。五時頃おむすび来るも二人に一ケ、而も腐敗して食べられない。お茶もなく、今日は全く戦ひがいやになってしまった。
(い脱) いろ/¥考へて見るとき、到底命永らへる事の出来な事を痛感する。故郷の山河、懐しい友の顔、恋しい彼女の姿、在りし日の家に居た己の姿を思ひ浮べて一人涙ぐむ。淋しい事だ。空は段々晴れて来た。友軍の飛行機は銀翼を輝かし、砲兵の集中射撃は物凄く、前の部落へ落下する。然し、何故か俺の心は朗らかになりきれない。こんな事では駄目だと思ひ乍ら。
十二月十一日
正午頃、昨日掃討せる右方の一軒家に、敗残兵ありとの事に捕へに行き、難なく八名を捕へ来り、砂原君の墓標の前に連れ来り、俺と土本君と二人で、突いて、突いて、突きまくり、瞬く聞に八ツの死体となす。又心持の良いものだ。帰ってから皆に話して笑せたのだが、人間も死線を越えればひどいもの、内地に居た頃は、蛇一匹コロすもいや/¥であったのが、同じ仲間の人問、而もピチ/¥して居る、手を合せて拝むあわれな敗残兵をば、銃剣で突き、棒でなぐり、石で頭を割って叩きコロし、その後は、あ〉戦友の敵を討ったと、胸のすくやうな思ひ、その後人コロしをした後は、却って飯がうまいのだから、まあ大した悪者になったと言ふものだ。
此んな事は、若し内地へ帰る時があっても、話しも出来ぬやうな事である。
今晩も良い月夜だ。心静かに故郷を伏し拝み、第一線に累々として打ち倒れしと聞く、哀れ戦友達の冥福を祈りつえ第三夜を聖壕に寝る。>>101
十二月二十九日曇
昨夜来の雪は約二寸積る。午前七時二十分整列にて、八時より鉄
路伝ひに、常州に向ム。大平達は舟にて行く。雪道にて極めて道
悪し。約五里前進して一小町に泊る。
午後七時頃、便衣隊員らしい者一名連れ来り、土本等と共に惨殺
す。大根のお菜おいしかった。
五月二十日
午前八時頃僅か三時間の睡眠にて出発、山を越えて東方に向ふ。
途中部落に火を放ち、敵の拠点となるを防ぐ。更に中隊長命により、良民と言へとも、女も子供も片端から突きコロす。惨酷の極みなり。一度に五十人、六十人、可愛い〉娘、無邪気な子供、泣き 叫び手を合せる。此んなに無惨なやり方は生れ℃拡)めてだ。あ〉戦争はいやだ。支那兵ならいぎ知らず、罪ない婦女子をコロす、全く見るに忍ぴず。此んな事をやり乍ら約六里前進、午後五時頃津浦線に出る。 (庄) 撒所に至り次の戦を準備す。田中伍長以下八名の斥候、敗残兵を捕へ来る。此れこそはうんと徹底的にやっ〉けるべきと、むしろ 惨酷すぎる荘一詐取し方をしてやる。川剖の牧野君も来て、火を付けて苦しめてやる。胸がすくやうだ。
晩寝ようとする頃出発準備、師団司令部の警戒のため再び逆戻り、とう/¥夜明けの午前四時まで歩き続けて、疲れ切って休む。>>59
くそみたいな陸軍が徐州作戦で大腿銃創盲騨で負傷した兵隊の叔父を
終戦まで大阪陸軍病院経由で陸軍保養地(温泉等)で看病するものかねぇ>>69
叔父が亡くなった。
立ててもらったスレ、いつかは消えるのかも知れないけれど書き込みます。
空襲で亡くした妹の分、病気で亡くした姉、父の分も、俺は100まで生きる❗と言ってましたが、あっという間に逝きました。
生家に行けたのは良かった。
こういう事実が埋もれてしまうのはダメだろう?と思い、起こしました。
書き忘れてましたが、 あの大空襲翌朝、食べ盛りの中学生だった叔父、叔母が口を揃えて言ってたのが、とにかくお腹が減ってた! 死ぬ程お腹が減ってた。 火傷で亡くなった妹の死は勿論も悲しかったけど、お腹が減ってたまらんかったた と。 当時、国から配給されたのは豆? 大豆?らしく、黒焦げのご遺体の横で、それを空襲後のくすぶるトタンの上で炒って食べたそう。
国、政府、軍、 何だったんやろう。
戦争は避けられないものか。
ウクライナも、 胸がつまる
>>1
B29の空襲の話はすごく聞いたな。
満州からの逃避行の話も聞いた。
軍部のクーデター首謀者のご家族の苦労話も聞いた。
でも共通してるのは、昔の人は逞しい。>>110
戦争はしないが一番。
にも関わらず未だに威嚇外交をする中国と北、そしてロシア。
お隣の韓国人も外交は力だとか抜かしてる。
発想が現代人とは思えない。
周りがこんな国ばかりだと日本の平和憲法を見直さざるを得ない時代が来るんだろうな。靖国神社のC56帰国に御尽力下さった元少佐で、自分からして見れば「受験写真とかでお世話になった近所のカメラ屋の優しいおじさん」が亡くなられていたそうで、ご冥福をお祈りします...
絵空事かもしれんが、世界のみんなが自分が半分損して他人が半分得をすることを許せたら争いは少なくなるだろうな。
せめて日本国内だけでもこうあってもらいたいものだ。- 115
名無し2022/06/18(Sat) 18:30:30(1/2)
このレスは削除されています
>>1 と
【第二次世界大戦後に】
【【日本に軍事侵略したり】】
【【大弾圧・虐殺・強姦・テロや暴動をした】】
【南北朝鮮人】
【日弁連・共産系・連合・立憲・しばき隊等々が】
【喚いています】ザイニチがどんな話したのか興味あるな
あ、文盲だったから
何が起こっているのかわからなかったのかw- 119
名無し2022/06/18(Sat) 19:23:21(2/2)
このレスは削除されています
うちの祖父は病弱で徴兵検査に落ちた人。
近隣住民は勿論、兄弟や親戚にも非国民扱い
されて苦しい青年期だった様だ。
あまりの居心地の悪さに辟易して福岡に単身
疎開して、本人曰く悪い事以外何でもやって
何とか終戦まで生き延びたとの事。
終戦後に地元に帰って見れば家族で生き残った
のは姉だけ。2人で必死に金を貯め、それで
養豚に手を出して一発当てた。村で村長の次に
自宅に電話を引いたのを一生の自慢にしていた。
祖父は
「どんなに偉そうな事を言っても生きた者が
最後には勝つ!俺は長生きする!」
とよく言っていた。子ども7人、孫20人、曾孫
4人に恵まれて93歳まで生きた。
亡くなる前日まで自分の足で立ち、母に介助
されながら風呂に入って髭を剃り、肺炎で入院
して数時間も経たずに1人で逝った。母方の祖母の話。祖母はあまり語らなかったので、父母と叔父叔母、親戚の話を総合すると
こんな人生だったらしい。
祖母は開戦前に結婚。開戦して夫が徴兵され、舅と姑が戦禍で亡くなる。終戦後は夫が帰って来て子ども(=父)を授かるが、妊娠中に夫が病死。祖母は乳飲み子だった父を離島の親戚に預け、米兵相手の水商売で働き始める。
父が4歳になった年に、いきなり米黒人と再婚。父を置き去りにして、サンフランシスコに渡った。息子がいる事を隠しての再婚だったが
後に夫に白状し、夫に促される形で定期的に送金し、父は中学卒業まで親戚に育ててもらえたらしい。
祖母が隠していたのは息子の事だけではない。
戦後のどさくさに紛れて戸籍の再登録をした時に年齢を15歳もサバ読みしていた。再婚相手はその嘘を亡くなるまで知らず、10代で結婚してくれた?祖母を猫可愛がりし、欲しがる物は何でも与えられたとの事。
父とは疎遠だったが、父が母と結婚し、孫(=自分)が生まれてからは母が間に入って徐々に和解。初孫Loveで孫会いたさに4年に1度は来日するようになった。
祖母は再婚相手との間に1男1女に恵まれて、
死ぬまで英語は話せず、日本語も標準語で話せず、死ぬまで方言で話していた。
夫を看取って5年後、アメリカの自宅で75歳(実年齢90歳)でこの世を去った。
父は祖母を嫌っていたが、母と自分は祖母を愛していた。美人で変人でバイタリティーに溢れ、頑固で突然押し掛けて来る、面白い婆さんだった。現場調査
Reconstructing a Second World War Sea Battle: The Underwater Site of USS Emmons and a Japanese Special Attack Airplane
https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/10572414.2021.2018870物の無かった当時、親父が(祖父)、どうやって調達してきたのか分からんが、いっとかんでハチミツもどきを買ってきた。
貴重な食材、砂糖代わりに祖母は少しずつ料理に使っていたのだけど、甘さに飢えていた父たちは歯止めがきかない。 皆が食い付き、あっという間に失くなってしまい、祖父が鬼のように怒ってたと。
戦争の話をしなかった父が話した、数少ないエピソードです。
しかし配給が大豆って、、
叔父たちの話を聞くと、人間やっぱり飢えには勝てん。
心が麻痺してたんやな、黒焦げの遺体を見ても何ともあーとしか思わんかった。 妹が亡くなったことより、食べるもんのことが最優先やった。 ○○をもっと手厚く葬ってやったらよかったと言っていた。>>124 お前このスレに何の関係もないよね??
>>1
今は亡き祖父がガダルカナルの生き残りだった。勿論捕虜だったが。祖父もあまり当時のことは話たがらなかったが、重機関銃の射手だったそうだ。重機関銃の射手と言ったら、十字砲火等を恐れ、敵は最初にターゲットにして潰しにかかるそうだが、そんな祖父が生き残った。弟がそんな祖父に、「爺ちゃん、最初に狙われる重機関銃を担当していて、ひょっとして、敵前逃亡兵?」と冗談で聞いたが、祖父は劣化の如く怒った。
そんな弟を祖父はこよなく愛し、祖父の青春時代を共に過ごしたであろう、軍隊時代の同期会に弟をつれて行った。弟の話を聞くと、「爺さん達が、涙を流しながら軍歌を歌っていた」と言っていた。
歴史好きの自分が、そんな軍隊を体験た老人達に戦争体験を聞いて、アメリカに歪曲された歴史じゃなく、実際の話、真実の出来事を知ろうとした。最初に話を聞かせて頂いたのは、自転車店を営なんでいたが、息子に家督を譲った立派な口髭を生やした中国の北支(中国北部)に進軍、駐屯していた方の話だった。一番記憶に残っているのは、彼は写真を数十枚出して見せ「北支駐屯中は、収穫時期になると武装馬賊集団が街の城郭内に侵入し、銃を突き付け脅して収穫した穀物全てと住民の保有する金品を強奪されていたとのことで、街の長が、駐屯している日本軍に「馬賊討伐」の嘆願に来て、その願いを受理した部隊が、出没して来た馬賊集団を一網打尽に逮捕した話だった。その時のセピア色の写真を次々と見せられたが、馬賊というだけあって、皆馬や驢馬に乗っており、何故か長コートに中折れ帽子を被っている者が多かった。背中に背負っていたと聞いた銃は、当然日本軍に逮捕時に押収されていた。
中国、特に日本軍には2、3発撃って逃げる「shoot & run」の共産八路軍は、日本軍の悪行の数々等と、創作話を教育を通じて自国民に世代を越えて教育しているが、日本軍は地元の中国人とは仲良くやっていたし、その願いにより治安維持もしていたとのこと。当時の中国は多数の軍閥が私設軍隊を持っている状態で、中国人住民の願いは、誰でも良い、日本人でも良いから我々の平穏な生活を守ってくれれば、それに従うという状態で、明確な愛国心は無かったとのこと。その愛国心は戦後、国共内戦の末に勝った共産党が、中国人達に植え付けたものだと推測する。関東軍の主計少尉だったという公共施設の管理をなさっていたご老人から戦争体験を聞かせて頂いたことがある。兵科が主計で、民間会社の経理のような職種だったが、蒙古と満州との間の国境紛争で、突然ソ連軍がハルハ河という国境を流れる河を越えて攻め入って来た。蒙古軍と満州国軍の争いが、一気にソ連と関東軍との戦いになったようだ。その元主計少尉は、ソ連の戦車は日本の戦車よりも巨大で、戦車の横に吸気口(渡河用シュノーケルらしい)と排気口(排気ガス用マフラーらしい)を高く上に伸ばしたもので、ハルハ河の底を走り越えて来たと言った。自分は本で読んだ内容どおりに「関東軍は負けたんでしょ?」と聞くと、元主計少尉は、「いや、負けていない。戦車の一番脅威となる相手は何だと思う?、軍用機だよ。陸軍の戦闘機は優秀でソ連機を次々と撃墜し、ノモンハン周辺の制空権は、完全に日本側が握っていた。だが、陸上では戦車の進行を阻止しようと塹壕を掘って応戦していた日本兵が戦車の砲撃で河原の砂に埋まってしまうなど、日本側が不利だった。
だが、日本兵は勇敢で、軍足(軍手の靴下版)に爆薬を入れ、軍足にグリースを塗り、突進肉薄して戦車に軍足を貼りつけて、キャタピラを飛ばして進軍を阻止し、車外に出て逃げようとするソ連兵に一斉掃射して、戦車内に手榴弾を投げ入れたりして、なんとか阻止していたそうだ。両軍引き分け状態で戦いは終わったが、後に日本側の軍事探偵(スパイ)が取って来た情報では、ソ連軍は装備の近代化をしたそうで、そのテストとして関東軍と戦ったんだそうだと判ったと言っていた。当時の関東軍将兵は皆激昂したが、軍はそんな体験をしたのに、装備を近代化しなかった。それも敗戦の一因かもしれないと、その元主計少尉は言っていた。元海軍軍人だったという人から聞いた戦争体験に、あまり悲壮感は無かったな。陸軍と違い白兵戦等が無いせいだと思った。だが、陸軍のビンタ同様の海軍の「精神注入棒」の理不尽な体験はよく聞いたな。
>>129
일본군의 탱크가 다른 국가들보다 약했는데, 중국과의 전쟁이 일찍 일어났기 때문에 탱크에 투자할 예산이 부족했기 때문은 아닌가 추측한다.- 132
名無し2022/06/19(Sun) 14:58:38(1/1)
このレスは削除されています
亡くなった叔父の奥さん、叔母は、
当時は生駒の方にいたそうで、不謹慎やけど、花火みたいに降り注いでて、ビックリするほどきれいにさえ見えたと言ってた。
遠目に花火のように見えたその下で、先で夫となる叔父や家族が死に物狂いで逃げ惑っていた。
縁とは不思議だな。。>>127
ちっさ
戦争経験者の話
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