>>289
日本語による釈文4面>>291
格上か下かというよりそこが日本の勢力圏だと言う事になる話だろう。アーアー見えないニダ聞こえないニダ
広開土王碑って、
日本人が発見、現中国領域で良かったよね。
これが南北どちらかの朝鮮内だったら、
加工か破壊するだろうからね。「韓国の歴史書」って言うのが「三国史記」(1145年)って段階で、もう何を言っても無理よ(笑)
>>1
未だブツブツ言ってるよ。2対1で南朝鮮の負け。南朝鮮は民主主義先進国なんだろぅ?従わなくては。
『日中に完全論破された韓国の捏造史を韓国人学者がしつこく再主張しはじめて日本側から反論殺到』
https://you1news.com/archives/11929.html>>1
反日左翼の歴史家は否定に躍起だけど。
日本書紀と広開土王碑の記述が一致するもんで、誰にも相手にされてないねw>>23
まあ属というのは嘲りのための誇張かもね。支配してた、というのは微妙か。とにかく韓国人の言うような百済が日本を支配した、というのは嘘過ぎるわななるほど・・・
古代より、被害者を装って助けを求め、助けた恩を仇で返すのか。
ーーーーーー
第二十一代雄略天皇のときのことです。
天皇が即位されて八年目のとき、高句麗が突然、新羅に攻め込むという事件がありました。
新羅は任那(みまな)日本府に助けを求めました。
任那日本府は、援軍を送って高句麗を討ち破りました。
事態が明らかになったのは、この後のことです。
そして雄略天皇は、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)と蘇我韓子宿禰(そがのからこのすくね)を呼んで、次のように詔(みことのり)されました。
「新羅はこれまで朝貢をしていたのに、
朕が即位してからは対馬を奪おうとしたり、
高句麗のわが国への朝貢の邪魔をし、
あるいは百済の城を奪い、
わが国への朝貢さえも怠(おこた)っている。
狼の子のように人に慣れ従わず、
ともすれば危害を加える心を持っており、
飽食すれば離れ、
飢えれば寄ってくる。
よろしく攻め伐って天罰をくだせ」
こうして宿禰らは進軍し、またたく間に新羅を討ち破ったと日本書紀に書かれています。>>300
古代から、朝鮮人・韓国人の性根は変わらないですね。>>208
そもそも空振りしてゴルフボールが飛んでさえいない。韓国は歴史修正主義を止めて、正しい歴史を学べ。
韓国が過去の歴史に対して嘘と妄言を吐き続ける今この瞬間も、韓国の歴史の一部であり、韓国の歴史は刻まれてるが、その近代韓国の歴史は詐欺国家の歴史だけだ
今の韓国には嘘を吐き続ける歴史しか残っていない
過去の歴史ではなく現在の歴史が恥だと思え>>75
三国志って?ww4世紀の日本列島はあちこちに地域勢力が乱立していた。
奈良地域には、ヤマト王権勢力、布留勢力(後に物部氏が取って代わる)、葛城氏勢力。
その他にも、紀の国勢力、濃尾勢力、備の国勢力、出雲勢力、北九州勢力、南吸収勢力、等々。
それぞれの勢力は、朝鮮半島の百済、新羅、金管加羅諸国などと同等以上の軍事力を持っていた。
日本列島の各勢力はそれぞれが独自に朝鮮半島に進出していた。
朝鮮半島進出の目的は鉄器、そして倭国にはまだない中国から朝鮮半島に伝播した新たな技術を持つ朝鮮人を連れて来ることだった。
日本列島の各勢力はそれぞれが自分の勢力地に鉄器を持ち込み、渡来人を連れて来て住まわせていた。
朝鮮半島に進出した日本列島各地の勢力の倭人たちは、朝鮮半島で手を組み暴れまわっていた。
広開土王碑文に書かれている百済・新羅を臣下にした倭人というのは、そういう倭人たちであり、倭国を統一したヤマト政権による命令で行動したものではなかった。
倭国が統一国家として行動するのは6世紀以降のことだ。朝鮮半島に渡っていた日本人が
中国から半島に伝わっていた技術を習得し
日本に帰国し日本に伝えた人もいただろうな>>300
そのとおりです。
朝鮮半島というより、中国大陸側の勢力と、海洋側の勢力との朝鮮半島での戦いです。
白村江の戦いも、朝鮮戦争も同じですね。そういうなかで、朝鮮半島には大陸側に従属する勢力とそうでない勢力がいます。そして、外部勢力同士の戦いの結果や外部勢力間の勢力の伸長によって、朝鮮半島の政治は極端に正義を変えるのです。
秀吉の朝鮮征伐の時も、主力どうしの戦いは、日本軍と中国軍の戦いです。例えば、李舜臣(海でゲリラ戦をやったが、中国軍と講和して撤退中の日本軍を襲ったが簡単に撃滅される)とかもいましたが、逆に、王宮を襲ったり、朝鮮の王子達をとらえて日本軍に引き渡す側の人も多かったのです。
日清戦争も、日本と中国との戦いで、朝鮮はロシア(次の日露戦争にもつながる)をふくめて、外部勢力の間でふらふらするよです。日清戦争の講和条約の一番の眼目は、朝鮮の中国からの独立でした。
それで、例えば、現代史でも、親日になったり反日になったり、親米になったり反米になったりするわけです。今でも、中国とアメリカの間をふらふらしています。
戦前は日本は朝鮮の近代化に尽力したし、戦後はサムスンやポスコや現代や、あらゆる産業や農業や法制度やインフラに協力しました。しかし、日本は朝鮮半島には、関わらないのが、一番いいのです。縄文文化と縄文ゲノムが必ずしも一致しない
人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史が、
長期間で相互作用と混合があったことを示している。
沖縄へは農耕と琉球語を持ちながら、琉球列島へ移住した集団があり、
先島先史時代の集団が台湾またはフィリピンなどから由来した「南方説」に反する移動結果。
朝鮮半島での縄文人は6千年前までは発見されており、その後の日本列島からの移動によると思われる
痕跡が続く。
朝鮮半島には、日本列島から移動してきた縄文人と、縄文人系の一部が半島にいた可能性もある。
朝鮮半島では日本での渡来系集団と同じゲノム集団は発見されていたないが、縄文系がいれば形成可能。
Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
Nature 【Nature 599: 616-621 (2021)】
DOI:
10.1038/s41586-021-04108-8
ー歴史言語学、考古学、遺伝学の学際的研究成果―
https://www.kyushu-u.ac.jp/ja/researches/view/696/13世紀以前の朝鮮半島の歴史は
いまの韓国人には関係ないと何度言ったら理解するのか?
韓国人は、モンゴル軍の領土拡大に乗じて、軍に寄生して朝鮮半島に入り
主を失った朝鮮半島に火事場泥棒のごとく勝手に住み着いた背乗り民族。
故にそれ以前の半島の歴史など知る訳もなく、都合の良い妄想だけで歴史を語る
モンゴル内地のエベンキ族の歴史を探る事こそ韓国人が歴史を語るうえで
真っ先にやるべき事だ。5世紀頃の朝鮮半島における高句麗、新羅、百済、倭国の勢力争いを記している貴重な碑ですが、碑文に関しては、改竄・捏造説があります。それは、"旧大日本帝国陸軍が実地調査をして、拓本(墨によって紙に写しとったもの)を持ち帰ったが、その際、日本に都合のいいように、碑の文字を改竄・捏造した"というものです。そして、"元の内容は、(諸説ありますが、例えば)海を渡って攻めたのは倭国ではなく、逆に高句麗が海を渡って倭国に攻め入り破ったのだ"というものです。
改竄・捏造説が出てきた背景には、碑文の内容をそのまま認めると、"昔の日本つまり倭国が朝鮮半島まで攻め入ってきたことになり、はなはだ不愉快である。逆に倭国まで攻め入り、破ったとすれば、素晴らしい功績となる"ということだと推察されます。激しい論争が繰り広げられましたが、2006年に、中国社会科学院の徐建新氏により、1881年に作成された現存最古の拓本が、日本陸軍の持ち帰った拓本と完全に一致していることが発表され、これにより改竄・捏造説は完全に否定されました。(wikipediaより)
詳細は省きますが、いずれにしろこの碑文に書かれている内容は、朝鮮半島正史である三国史記に書かれている内容とほぼ一致していること、逆に高句麗が日本本土に攻め入ったという記事はないという事実からみても、改竄・捏造説は成り立たないことは明白であると考えられます。草
朝鮮人=アジアの黒人
朝鮮人の教科書要約「精神勝利」
広開土王碑?
あーあー見えないニダー聞こえないニダーあーあー
広開土王碑??
・・・・・・・・・・韓国への愛はないのかーーーーーー!!!>>1
ところで対馬が歴史の記録の上で一度として朝鮮半島系住民の領土でなかったは倭が半島に勢力を持っていたこと、決してその逆でないことの間接的な証拠になるでしょうかhttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14255566249
中国人とか韓国人とは異なり、日本人は縄文人と渡来人との混血民族だそうです、皆さんはどう思いますか?
. あまりいい方法ではありませんが、わかりやすく「縄文人」とは「Y染色体ハプロタイプ」で「D」という系統に属する人類集団です、それに比べて渡来人とは、中国人とか韓国人も含まれる「Y染色体ハプロタイプ」で「O」という系統に属する人類集団です。
「Y染色体ハプロタイプ」の系統分析という条件で論じるならば、「D」と「O」とは、白人と黒人との違いに匹敵するくらい離れた人類集団です、当然、顔かたちを形成する遺伝子も、その違いは大きく、顔かたち仕様も全く違います。
例えば髪、縄文人は癖毛(巻き毛)、渡来人は直毛です、あなたの髪はどうかは知りませんが、一見、直毛に見えても、日本人の70%は、何らかの癖毛です。あなたの周りの日本人を見てみましょう、癖毛(巻き毛)の人がいるはずです。>>321
どうでも良いやん?>>321
縄文人もそうですが、「Y染色体ハプロタイプ」で人類の移動経路が推測できる事が面白いですよね。泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 㠯辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
<判読>
泰始四年(268年)夏の中月なる5月、最も夏なる日の16日、火徳の盛んな丙午の日の正午の刻に、百度鍛えた鋼の七支刀を造る。これを以て百兵の兵器の害を免れるであろう。恭謹の徳ある侯王(倭王)に栄えあれ、寿命を長くし、大吉の福祥あらんことを。久しぶりに読んだら面白かった。
とてもタメになる文献があるスレッドですね
>>314
でもYoutubeのチャンネルだが日韓祖語の再建はそれなりに説得力あるけどね。だからって半島の歴史は繋がってないけど>>321
中国人とか韓国人とは異なり←ここが既に間違っている
中華古書に於ける朝鮮半島は、倭人や中国人を含む周辺地域からの流入民だらけで、国家が成立し、国号+人と言うグルーピングが為されるまで、朝鮮半島全域に(中国人から見て)共通の形質を持つ部族は存在しなかったことが判る。
つまり、倭人が一定の形質を持つ部族と認識されていた時代に朝鮮人に相当するグループは存在しない
外から見て差異がある集団同士が、お互いに共通のグループであると認識していたと考えることは難しい
現在中国人が、天皇は姫氏と言ったりするのは、魏志倭人伝で卑弥呼の使者が呉の太伯の後衛を名乗ったことに由来しているが、元々、風俗や習慣から倭人は江南や海南の部族と関係があると見られていた
黥面文身で古代の倭人と似ているとされることと、記録から読み取れる短髪に刈り上げていたことから考えれば、古代の長江以南、沿岸部の風俗は東南アジアに近い
また、五胡十六国時代以降、華北には北胡が多く侵入しており、北魏→西魏は卓抜鮮卑で、隋は西魏の十二大将軍の一つ、唐は同じく西魏の八柱国の一つで、鮮卑貴族の中でも最有力クラス
東南アジアには中華系部族が多いとされるが、現実には東南アジアの部族の類縁の部族が中国人となっていると言う方が正しく、中華王朝の冊封体制下にあったことはあっても、彼らが中華王朝の属民であったことは無い
日本人の先祖が様々な地域からやって来たと言うのは紀元前の話で、民族ではなく人種の話で、現在の規模の領域を示す中国人や朝鮮人の形成の話は紀元後の話で、既に国家から異民族として認識されていた部族を取り込んで行く話で、日本で言えば蝦夷とかの話広開土王碑。
見に行きたいけど行けない場所なんだろうなー。>>334
関連する記録が失われていたからでは?
例えば倭の五王についても好太王碑についても書紀は伝えていない。別に不思議なことでもない☺️>>333
なんか国内の韓国系の大学がそのレプリカを建ててたらしいけど撤去されたともブログで読んだわ>>330
画像(赤線)は...
天宝十二載(753)における、新唐書と三国史記(新羅本紀)の記事です。
新唐書では、新羅が海路を封鎖し、日本は航路を変更して唐への朝貢を行った様子が記され、新羅本紀には、日本からの使者を高慢で無礼だと判断し、新羅王は接見を断ったと書かれています。
続日本記では...
新羅からの使者へ(752)、新羅王に来朝(日本へ)し、天皇に直接奏上するように託していますし、新羅と敵対する渤海との交流も頻繁に行われていますから、席次争いは「あった」と考えても、何ら違和感はないと感じます。
新唐書の青線は...
日本が献上した紙を(和紙と思われる)、蚕の繭に似た艶があり、唐人は初めて眼にしたと記されています。
全く席次争いには関係ありませんが、折角ですからマーキングしました(笑)>>338
天武天皇が684年に定められた八色の姓の第一位が「真人」ですね。
残念ながら...
「興能」と記される真人が誰かは、判明していません。
「建中元年 使者眞人興能獻方物 眞人 蓋因官而氏者也 興能善書 其紙似繭而澤 人莫識」
【建中元年、(日本の)使者の真人興能が方物を獻ず。真人とは蓋しい官に因りて氏とせし者也。興能は書を善くし、其の紙は繭に似て澤(つややか)なり。(唐の)人は識るもの莫し。】
広開土王碑 「倭が新羅や百済を臣従させた」
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