- 10名無し2019/03/10(Sun) 15:50:09(1/1)
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>>9
要約すればそういうことだよ。幕府(中央政権)の統治力が落ちれば地方の争乱を抑えることはできないから、地方で統治者の交代が起きるのは必然さ>>1
応仁の乱以前に有力な一族であるためには、自分自身は京都に住居を持ち、貴族社会と太いつながりを持つ必要があった。皇室も含め、貴族社会へ金銭的支援を行い、厚い信任を得て、その見返りとして複数の守護として任命される。
当然、守護を任された現地には別の人間を守護代(守護の代役)に任じて実務を頼むことになる。現地の住人は守護代を通して守護に支配をされている事にはなっているが、これが何代にも渡って行われると守護一族よりも守護代一族への信頼関係が生まれて来る。
このように地域の住人から支持を受ける守護代が名前だけの守護と決別し、自ら統治するようになる事で、守護一族には任命された土地からの収益が届かなくなり、貴族社会との結び付きも弱まって行き権力だけでなく権威も失ってしまう。
これが一般的な下剋上。>>8
具体的にどの一族に興味があるんだ? 具体例を挙げたほうが皆も答えやすいと思うぞ。
あと、応仁の乱は京都で長い時間をかけて行われた。約11年。地方から来た人は長い間地元を別の人に任せることになる。任せるのが長すぎたので、実権や地元の人の支持がその預けた人に移ってしまった。ただ、元々の人を支持する人もいたので分裂し争うようになる。その結果勢力が縮小する。そして小勢力が乱立する戦国時代が始まる。私が理解しているのはこんな感じ。物部 蘇我 藤原 平家 源氏 足利
祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。
奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風 の前の塵に同じ。
遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、
これらは皆舊主先皇の政にもしたがはず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、
天下の亂れん事を悟らずして、民間の愁ふるところを知らざつしかば、久しからずして、
亡じにし者どもなり。
韓国人には、心の底からは理解できないのかも・・・。
(中国人は理解していると思うけど・・・ 根拠はTVのドラマ)>>8
簡単に言えば、衰退した有力大名達は幕府の権威のお陰で有力大名でいられただけです。
幕府の権威が落ちると将軍が命令しても誰もその大名を助けてくれないわけです。
もともと力の無かった大名家は没落しました。
実力が有り没落しなかった名家の大名も沢山いました。
大内氏、今川氏などです。>>9
地方を支配していた守護。
守護は大抵は京都に在住していて留守を預かるのが守護代といいます。
守護は貴族化し武家としては無能になり、守護代に取って変わられる事が多かった。
守護代出身の有名な戦国大名としては、上杉氏(長尾氏)、織田氏、朝倉氏など。
守護でも京都には在住せずに戦国大名に進化した大名もあります。
守護出身の有名な戦国大名としては、武田氏、今川氏、三好氏、島津氏など。
全く土地も無く(家柄は良いが)戦国大名となった例は、斎藤氏、北条氏など。
1豪族から戦国大名となった例は、毛利氏、長曾我部氏、徳川氏など。>>9
受けたからその後戦国時代となった。
中央で戦争していて、地方では被官が戦国大名に変化した例は沢山ある。
織田信長の一族は、被官の被官の被官。
越前織田(現在の福井県越前市織田町)斯波氏の荘園を管理していた。
まさに、応仁の乱で財を蓄積して、その子孫が天下統一を目指す、大大名となった。その家臣だった秀吉が信長の死後、日本を統一して、唐入りを行なった。勉強する事は素晴らしい。先ず自分達鮮人の歴史を学んでは?金成柱
>>10
ファンタジーですな。
そんなに、黒人を差別してるんだ。
朝鮮人てやーねー。
みたいに寿司に思われるよ。>>8
弱小になったわけではない
より強い勢力が出てきただけ
経済改革や軍事改革などが行われて
弱小だったところが強くなった
大大名は保守的なので革新は行わない>>1
その国の有力一族が永遠なわけがない!
腐敗や裏切りや情勢不穏がきっかけで終わる事はある
戦国時代で勝ち残った徳川幕府は300年後に終わる
これは世界史でも同じような事はある
しかし、朝鮮半島の情勢は別物なのかもしれない!
朝鮮半島でも中国の属国という状況で不満や
朝鮮半島の中で腐敗は有ったはず
にも関わらず、国内での争いが起きない
または政権が変わらないのは
何らかの理由があるのではないかと?>>1
偉大な歴史を誇った朝鮮民族が弱小一族になったのは何故ですか?
日本に与えてやった中国の属国民族が倭人より突然に弱小一族になったのは何故ですか?>>1
日本の歴史に興味を持つな!
朝鮮の真実の歴史を勉強しろ!>>1
日本史もおもしろいでしょうが世界史、特にイスラム、オスマン、中世ヨーロッパの勉強もお勧めします>>1
平家物語より
http://www2.odn.ne.jp/~nihongodeasobo/jugemu/gion.htm
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%AE%B6%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%A5%87%E5%9C%92%E7%B2%BE%E8%88%8E
祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。将軍の権威がなくなり、自分の力で守護を維持しなければならなくなった。京都にいても、領地を守ることが出来ないので、大名は領国に帰った。また家督争いが頻繁に起こった。
将軍家はもとより管領家、四職家のみにくい後継者あらそいが現実化となり、守護代や有力被官が勢力を持った。特に関東の場合、公方と上杉方とで大きく二分され、15世紀は大変であった。
細川政元がクーデターを起こし将軍を交代させた。(明応の政変)これをもって戦国時代に入った。その1か月後、上杉謙信の父(守護代)が守護を滅亡させている。まさに下克上の世界である。>>27
何か微妙に違うなぁ。
室町幕府は幕権による支配よりも緩やかな自治と三管領四職に委任した政治形態だった。
応仁の乱で失墜したのは三管領四職を中心とした権威職であって将軍家自体は利用価値の高い最高権威として依然として権利の中枢だった。
地方を支配した勢力も幕府の役職を求め、また、朝廷の官位を将軍家を介して求めていた。
つまりは、応仁の乱以後は、幕府は権威として存続し、地方大名は幕府ありきでの地位保全を求めていた。
織田信長は、地方から地域を支配し、貨幣経済を推進し米穀経済という従来の価値観から脱却する過程で、将軍家の価値を必要としなくなったのではないかな。
いずれにしても、日本の国体としての天皇制は、武家の争いとは次元の違う侵すべからず神聖な領域との意識は中世の混乱期にもあったんですね。>>1
着眼点は鋭いが、朝鮮人の歴史観・価値観からは答えが見つかるまい。
日本も朝鮮と同じく中国を参考に律令制を採用し、中央主権国家を作った。即ち中央政府が役人を派遣し全国の土地を所有した。
そうすると各地の農民は新田を開墾したり努力しなくなり、全国の生産高は伸びなくなった。
そこで日本は平安時代中に新たに開墾した土地は自分のものにできる私有財産制に切り替えた。
こうして地方では農民・豪族が力を付け、自立できる程になっていた頃に応仁の乱が起きて中央との繋がりが切れただけ。
これが封建制になっていくのだが、日本が併合するまで中央集権奴隷制だった朝鮮との国力の開きは平安時代には有った訳。下剋上による栄枯盛衰が、外国人には珍しいのかな?
単純に、中央の権威の衰退と、実力主義や現実主義の台頭という図式だと思う
それより私は「合戦」の方が好きだなぁw>>1
天皇さえいれば、将軍は誰がやっても問題ないからです
外国は王が倒れたら国自体が変わる
日本が外国と大きく違う点韓国では戦国時代に詳しい人もいる、
しかし、人類史や世界地域情報や朝鮮史については大きく欠けている。細かいところを見過ぎなのかもね>>36
真の朝鮮の歴史を謙虚に学んだら、自らの父祖のあまりにもの愚劣さを直視しなきゃいかんから、皆鬱になるだけだろう。
自民族史を「書き換えたい」「燃やしてしまいたい」「子供に教えたくない」という願望に身を焦がす朝鮮人の気持ちはわからんものでもない。>>1
韓国人は中国語を学んだほうが良いよ
属国に戻るんだから>>9
応仁の乱の時代だと、朝廷に“守護職”(任期3年)を命じられた公家が、その国を治めに派遣されていた。
この時に任期の過ごし方は二通りあった。
①自分が赴任して、3年務める。
②親族を名代として派遣。自分は都で指示を出し、必要な物資や情報を集めて送る。
守護職の任期を終えた時、選択肢は2つ
③預かった所領を返還し都に戻る。自分で開墾した所領には、名代を置いて管理させる
④預かった所領を変換して、自分で開墾した所領に土着する。都へは帰らない。
都から近い国に赴任する場合は①-③を選ぶ人が多かった。
遠方に行く時は②-④を選ぶ人が多かった。遠方に行くと都の情報が入りにくいし、赴任しているのは都で上位官吏をしていなかった名代だからね。
③の名代達や、②-④の人達が、応仁の乱の時代には“大名”に変化していた。
応仁の乱の有力一族は、②-④の人達。その下についたのは、①-③の人達。
中央での勢力争いが戦争に発展した応仁の乱の結果、②-④や、①-③は力を失った。
金も物資も人も、戦争で使って亡くしたから。
代わりに力を付けたのが①-④の人達。そして、元々地方で力を付けていた地方豪族達。
中央の政権争いに加わらなかったので、金も物資も人もなくさなかった。
この人達が力をなくした守護職に替わり、地方を治めて“戦国大名”に変化した。>>34 俺は義稙が一番好きだ。義見の息子で、将軍時は義材。六角高頼の征伐に成功し、図に乗って畠山討伐で、細川政元のクーデターに会い、河内で奮戦するも降伏。日野富子に毒殺されかかるもかろうじて生き残り、脱出する。越中や越前で復活をもくろむも成功せず。義伊と名を改め、大内を頼って将軍に返り咲く。そこで寝込みを2人の賊に襲われるも槍で撃退。自身も8か所に傷を負う。そして最後は阿波で死ぬ。流れ公方といわれる所以である。
この波乱万丈の人生。まさに武家の棟梁にふさわしい。鎌倉9代、足利15代、徳川15代将軍がいたが、この人ほどすさましい人生を送った人はいない。>>1
鎌倉の御家人として各地の守護として認められた家は貴族化していった。
応仁の乱に限らず、各地の領地紛争や百姓一揆においても、現場に出て働くのは貴族化した領主ではなく家来である家臣たち。
結局、家来のうちでも実際の武力を握った家が下克上していった。
鎌倉以来の名家は殆どが滅んだ。・日本はトップダウンではなく、ボトムアップ式に政治が行われる。
No.1は権威だけの存在になり、No.2が実務担当者、実質権力者になる傾向。
天皇家(→藤原)、源家(→北条)、足利家(→細川)
大内(→陶)、龍造寺(→鍋島)、細川(→三好)、土岐(→斎藤)、斯波(→織田)、上杉(→太田、長尾)
・日本は、積算清算の習慣がない。
逆に、不評で倒された前政権の政策を強化する。
・蘇我家を排除して律令体制を強化した天皇
・豊臣家の政策を強化した徳川幕府
・徳川幕府の開国政策を強化した明治政府>>9
下克上
武力による権力交代だけでなく、話し合いによる権力交代も行われた。
”良い統治をしない領主”は交代させられた。- 45名無し2019/03/11(Mon) 14:34:07(1/1)
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>>1
余計なことするなクズ。>>1
そんな古い歴史じゃなく近代史を学んで下さい。歴史に興味があるのは、とても良いことです。
- 51名無し2019/03/12(Tue) 21:46:30(1/1)
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>>1
韓国人のお前には関係ない日本は小さな島国だし歴史も島国の中でほぼ完結する事が多いのでスケールが小さい
シナ大陸の歴史の方が面白いと思うぞ?>>51
黒人が白く変わった理由は、知ってるのか?
理由は知らないだろ?>>46
どこの国の歴史でも、歴史に興味を持つのは良いことだよ。
だから日本のネット社会だと、北欧部族史を真面目に議論している板があったりする。>>1
端的に言うと、社会女性の変化によって武士のあり方が変わった。と言うのが大きい。
平安時代後期に、武士。と言う階級が台頭してくる。
当時の武士は、地方で自分の開拓地(荘園)を持ち、財力と武力を手に入れた階級のこと。
出世のためには京都の朝廷での地位が必用だったから、当主は都に残り朝廷で出世。
地方の荘園は、弟や叔父などの一族の者や、家来が納めていた。
室町幕府の時代も似たような物で、幕府が京都にあったために、幕府での地位と朝廷での地位が連動していた。
応仁の乱の後、京都の朝廷が権力(日本の国土全体を治める権力)をなくした。
これは、応仁の乱の主戦場が、朝廷のあった都で行なわれたから。
地方の荘園主達は領地を守るために武力を磨き、財力を付けた。
領地を守るために、地域の有力者の家来になったり同盟を結んだ。
有力な荘園主は「戦国大名」と呼ばれるような存在になった。
だから、「領地のためにならない無能な主」は、見限って見捨てるのが当たり前になった。
これが下克上。
江戸時代になると、日本の国土全体を治める権力。は、徳川幕府が持つようになった。
徳川幕府は天皇に「日本の国王である権威」を保障する代わりに「日本を統治する権利」を認めさせた。
天皇家と朝廷は、徳川幕府の権利を保障する代わりに、役料として一定の資金を保障される。という形。
国を起業に例えると、天皇家が日本の株主で、社長が徳川将軍家。みたいな感じだね。>>1
適当に解説すると
開墾できる土地がなくなり、相続争いが起こり、武士が台頭して戦国時代になったんだね。
平安時代は、兄弟それぞれに相続をしていたんだね。(女性も含む)
天皇の皇位継承をみても兄から弟(妹)に移譲されることが多い。
それは兄弟の立場が平等だったということ
相続で分配されて目減りした分は、新たに開墾することで補ってきた。
しかし開墾できる用地がなくなると、子供の一人に単独で相続されることが当たり前となる。
相続されなかった兄弟は、家来になるか地方に行って直接土地を支配するようになる。
それが武家社会の始まり
일본역사를 공부하고 있습니다.
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