일본은 1900년대초 매우 가난한 시대였다

220

    • 1名無し2019/02/25(Mon) 22:12:37ID:E1MDc2MjU(1/2)NG報告

      <娘身売りの時代> 世界恐慌(1929年=昭和4年)のあおりで、輸出品だった東北の生糸の値が3分の1、コメも半値に暴落。重い小作料にあえぐ農村の娘身売りが急増した。「青森県農地改革史」によると、特に大凶作があった34年、農家一戸平均500円以上の借金を抱える町村が百を超え、「芸娼妓(げいしょうぎ)に売られた者は累計7083人に達した」。山形県内のある女子児童は「お母さんとお父さんは毎日夜になるとどうして暮らそうかといっております。私がとこにはいるとそのことばかり心配で眠れないのです」と書いた。


      人身売買である」とGHQ(連合国軍総司令部)は46年(昭和21年)、娼妓(しょうぎ)解放を指令したが、遊郭は12年後の売春防止法施行まで存在した。中でも仙台の遊郭は「三十三楼、娼妓300人」。東北一のにぎわいは農村の陰画だった、と古い証文は物語る。
       高齢者と兼業農家の多い、のどかな北の村。「昔、ここは水利の悪い小作村でな」と寺の住職は話す。「条件のいい田んぼはみな大地主のもの。マッカーサーの農地解放と、農業用ポンプによる開田のおかげで、ようやく自作農の村になった」。こんな話が伝わる。
       子供のいない地主から、ある小作人に「娘を“奉公”に」と話があった。「男を産んだら田んぼを1枚やる」という。娘は奉公に行き、1年後に女の子が生まれた。娘は地主の家を出されて、迎えの衆に赤ん坊を預けて夜道を帰った。が、村に着くころ、元気だったはずの赤ん坊が「死んでいるぞ」と聞かされた。娘は泣き叫んだが、死んだ赤ん坊はそれきり消え、村の話題に上ることもなかった。
       凶作続きで小作料も払えなかった昭和初めには、娘の身売りがあった。「村人はだれも口にしない」と住職。だが、記憶を捨てることができないのも人間だ。
       「○○日の仏、供養してくだされ」。こう言って、ぽつんとお参りにくるばあちゃんがいた。過去帳をめくっても見つからない仏。住職はそれが、母親だけが忘れずにいる、娘を売った「命日」とだれからともなく知り、黙って拝んできた。
       「わかれっぱ」と、昔から呼ばれる場所がある。一本杉や地蔵が残る分かれ道だ。「おんちゃんに、いい物を買ってもらえる」と聞かされた無邪気な娘が、親と一緒に「わかれっぱ」まで来て、そこからは見知らぬ“おんちゃん”と2人きりで村と別れる。遊郭への周旋人と知るよしもなく。..

レス投稿

画像をタップで並べ替え / 『×』で選択解除