신라 법흥왕은 원래 2글자
근데 1글자의 성씨가 되었다
모용씨 부터 김씨스시녀
バカ朝鮮人が集まってきてるなww
>>3
徳川家康は松平元康が改名しました。
キムチ族のような雑魚の家系ではありません。8世紀中頃だろ
唐の時代だ朝鮮は国が変わるごとに、前の国のものを破棄してきた。
史実なんかある訳ない。
いつも後付けでいい様に作ってるだけ。
世界史に朝鮮は出てこないw
クソ属国、朝鮮。韓国人は日本に嫉妬して
有名な偉人を韓国人だと言って精神勝利してるよね源 義光(みなもと の よしみつ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の2代目棟梁である源頼義の三男。兄に源義家(八幡太郎)や源義綱(賀茂次郎)がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺新羅善神堂)で元服したことから新羅三郎(しんらさぶろう)と称したwww
韓国人の姓が何文字と言っても、大多数が姓を持つようになったのは最近(併合以来)だろ?
姓を持ってたのは一部の特権階級だけだろう支那では司馬とか二文字姓もあるが朝鮮はホント一文字だけ
일본인의 조상은 한국인
고려시대 초기(940년 무렵)
韓国が出来たのは日中戦争で日本が勝利したからな
韓国人は日本に感謝するべきだ>>13
무슨 소리. 이미 고려시대 무렵에 양민들도 조금씩 성씨를 정하기 시작했다.
1894년에는 갑오개혁이 실시되면서 천민 출신이었던 사람들도 성씨를 정하기 시작했다. 그리고 1909년에는 모든 사람들이 성씨와 본관을 가질 수 있도록 법률로 규정되었다.>>19 余りにも朝鮮人は文字も読めずお金もない
物々交換してた土着民族だったからね
乳を出して外を歩いてた朝鮮女に服を着させ
奴隷を開放した日本帝国に韓国人は感謝しなければならない>>22 日本人に朝鮮人は恐怖してたからね
西暦797年に完成した日本の歴史書「続日本紀(しょくにほんぎ)」に我が国に朝貢して来た新羅の使者の名前が記述されている
新羅人の名前は既に中国人風の名前となっていた
743年、新羅使の金序貞(きん・じょてい)らが朝貢して来た
しかし、新羅使の調(みつぎ)が従来の例に比べて、大いに礼を失していることを告げ、速やかに退去させた
752年3月、新羅王子の金泰廉(きん・たいれん)、貢調使で大使の金喧(きん・けん)、王子を送る使いの金弼言(きん・ひつげん)ら7百余人が7艘の船で来朝した
752年4月9日に予定されていた奈良の東大寺の大仏開眼供養に参加したかったようだが、我が国の朝廷は九州に留め置いて参加を許さなかった
753年には渤海国が我が国に朝貢して来た事が記述されている
その渤海使は輔国大将軍・慕施蒙(ぼしもう)という名前で記述されていて、中国人風の名前ではない>>1
一字姓>>
源 義経=チンギス・ハン説(よしつね=チンギス・ハンせつ)は、モンゴル帝国の創始者で、イェスゲイの長男といわれているチンギス・ハーン(成吉思汗)(1155年以降1162年までの間 - 1227年8月12日[1])と、衣川の戦いで自害したという源義経(1159年 - 1189年6月15日)が同一人物であるという仮説、伝説である。信用に足らない俗説・文献が多く、源義経=チンギス・ハン説は否定されているが、関連する文献には信用・信頼できるものとできないものがあり、整理と注意を要する。
源義経という人物は日本史上極めて人気が高く、その人気ゆえに数々の事実と確認されない逸話伝説が生まれた。
江戸時代中期の史学界では林羅山や新井白石らによって真剣に歴史問題として議論され徳川光圀が蝦夷に探検隊を派遣するなど、重大な関心を持たれていた。寛文7年(1667年)江戸幕府の巡見使一行が蝦夷地を視察しアイヌのオキクルミの祭祀を目撃し、中根宇衛門(幕府小姓組番)は帰府後何度もアイヌ社会ではオキクルミが「判官殿」と呼ばれ、その屋敷が残っていたと証言した。更に奥の地(シベリア、樺太)へ向かったとの伝承もあったと報告する。これが義経北行説の初出である[2]。寛文10年(1670年)の林羅山・鵞峰親子が幕命で編纂した「本朝通鑑」で「俗伝」扱いではあるが、「衣川で義経は死なず脱出して蝦夷へ渡り子孫を残している」と明記し、その後徳川将軍家宣に仕えた儒学者の新井白石が『読史余論』で論じ、更に『蝦夷志』でも論じた。徳川光圀の『大日本史』でも注釈の扱いながら泰衡が送った義経の首は偽物で、義経は逃れて蝦夷で神の存在として崇められている、と生存説として記録された。
沢田源内の『金史別本』の虚偽が一部の識者には知られていたが、江戸中期、幕末でもその説への関心は高く、幕吏の近藤重蔵や、間宮林蔵、吉雄忠次郎[3]など、かなりのインテリ層に信じられていた。一般庶民には『金史別本』の内容が広まり、幕末まで源義経が金の将軍になったり、義経の子孫が清を作ったなどという話が流行した。明治時代初期のアメリカ人教師グリフィスが影響を受けてその書『皇國(ミカド 日本の内なる力)』でこの説を論じるなど、現代人が想像する以上に深く信じられていた。>>28 現代の韓国人が言ってる「日本人は韓国人」と一緒じゃね?w
韓国人は1000年以上遅れてるねw義経は兄の頼朝に追われ、愛人の静御前と吉野山で別れた
義経は静御前に、「私は必ずそなたを迎えに来る」と約束して、雪の積もった吉野山に分け入って行った
その時に静御前が詠んだ詩
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
ジンギスカンは自分の名前を漢字で「成吉思汗」と書いた
この名前は吉野山で静御前と交わした約束のことを示している
「成吉思汗」の「汗」の漢字は「サンズイ辺」と「干」に分けられる
「サンズイ辺」は「水」を表すから「汗」とは「水干(すいかん)」という意味だ
「水干(すいかん)」とは当時の女性が着ていた着物のことであり、静御前を表している
つまり「成吉思汗」という名前は、
「吉」野山の約束が「成」って、「水干(つまり静御前)」を「思」う
という意味なのだ少なくとも歴史上の人名などを見る限り
新羅末~高麗初の頃には支那風に名付ける文化が定着したように思える>>31
失敬
1636年に意義を唱えなかったが従わなかったようだ
1643年まで明の元号を使って1655年から干支に変えているようだ
1636年は三田度の盟約の年だからと言うこともあろうがウンコの化石ぐらいしか出土しない
半島の民が歴史を語るな。
多様な文化を学び取り入れる事も出来ずに劣化させる始末
ウリジナルな歴史や文化に陶酔してろ>>3
しつこいんだよ樹違いそもそもエベンキ族って元の言語ってどうだったの
文字もなかったんじゃね>>12
新羅の初代と三代目の王は倭人だよね~。
三国史記見てみ?
ちゃんと原文の漢字のやつ。朝鮮人が、長い名前から、中国風の短い名前に変えた時はいつか。
それは、日本や中国の文献から推測するしかないだろうね。>>40
梁普通二年,王姓募名泰,始使使隨百濟奉獻方物
520年
新羅の法興王が中央アジアの姓を
律令頒布して中国式苗字に変えて
金さんになった
前の苗字は募泰さんだ>>33
「慕」ってのは鮮卑系の名前
前燕(王朝)は中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の大人慕容皝によって建てられた国
ちなみに百済の王族は「扶余」
>>35
朝鮮ってのは「朝貢が少ない国」って意味、
中国王朝の外側で、勢力範囲下であるけど、完全な勢力下では無い。
もっと外側は蛮族が住んでる地域(東夷、北狄、西戎、南蛮)
なので、
「朝鮮」≠朝鮮半島では無い、時代によって違う。
唐時代より前にあった、箕子朝鮮、衛氏朝鮮は今の満州にあった王朝で、殷王朝の王族、漢王朝の王族だった。 この時代の朝鮮半島には名前は無い(中国王朝には「朝鮮半島」の名前が無い)
その後、高麗を倒した始祖の高麗の武将李成桂太祖が明王朝に「国号」を下賜された時に与えられたのが「朝鮮」
渤海国(日本海側)が「渤海湾」の北側の国を治めてたいた訳では無いってのも同様な理由>>「慕」ってのは鮮卑系の名前
前燕(王朝)は
>>26
>> >渤海使は輔国大将軍・慕施蒙(ぼしもう)という名前
慕施蒙(ぼしもう)= 金施蒙
慕容氏→ 慕氏(=募泰) → 金氏になった
白人の慕容氏の王族の子孫は慕氏が
なった-wiki朝鮮人は【背のり】が得意でいつの間にか入れ替わっているから一字姓の時期を調べても意味ないかな。
>>1
確認出来る一番古い姓は満という名前の燕人が作った「衛 」氏朝鮮ぐらいだろう 「史記」
朝鮮人が一字姓に改名した時期は不明なのか?
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