1919年1月21日午前1時、韓日併合以来、どうせ(李王)に降格された大韓帝国の最後の皇帝従順が住みた昌徳宮の電話が細く鳴った。受話器を持った従順は顔色がメモ帳のように変わった。「副王(父王)が危篤だ」というニュースだった。慌てて徳寿宮に走って行った従順が咸寧殿に入った時、すでに高宗は白い布を使って横になっていた。享年68歳、1863年から1907年まで、朝鮮の26代の王であり、大韓帝国初代皇帝であった高宗は亡国(亡國)9年後、突然この世を去った。
崩御直後「皇帝陛下が毒殺された」といううわさが全国に急速に広がった。毒殺説を少ない張り紙も私ついた。李王職江西省局長ハンチャンス、終始管ハンサンハク、自作尹徳栄などが容疑者に挙げられた。毒殺説を具体的に記録したのは、開化派ユン・チホの日記だ。高宗の遺体を直接見た明成皇后の従弟民営月が中枢院参議ハンジンチャンに伝えた言葉を記録したはずなのに、▲健康だった高宗皇帝が甘酒を飲んだか、30分ダメ激しい痙攣を起こし、息を収め▲体の手足1〜2日後に大きくむくみ皇帝のズボンを除去するために服を引き裂かなければならし▲体のあるすべて抜けていて、舌は磨耗なくなり▲30㎝程度の黒い線が首から腹部まで長くやていた▲崩御直後宮女2人疑問したという内容である。
「高宗が独立を図る途中毒された」といううわさは3・1万歳運動の大きな起爆剤となった。高宗が毒殺されたと信じた全国の民が3月3日、高宗の国商に参加するためにソウルに集まり、これらのまま3・1運動のデモ隊のメンバーがされており、各地方に下り万歳運動を主導した。
学界では、高宗の毒殺を定説に受け入れられたが、高宗の突然の死が触発した民衆の鬱憤が「王政復古」とは正反対の方向に進んだという点は明らかであると思う。ジャンソクフン国民大教授(前韓国独立運動史研究所長)は、「高宗が生きている限り、誰も王政ではなく、共和政に新しい国を立て寝言えるなかった、彼の死により、独立運動はすぐに「民主共和政の樹立」と同義でになった」と述べた。
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2019/01/21/2019012100177.html>>1
少なくとも、日本にはわざわざ暗殺 するいかなる利益もないが>>1
ごめんな
たぶんゴルゴ13の仕業だと思う
依頼人を探しだしたほうがイイぞ怠惰で無能の朝鮮人らしい朝鮮人なので、わざわざ暗殺をする程価値のある人物じゃないだろ。
そうするにしてもあからさまに日本の邪魔をした閔妃暗殺後のロシア事大の時かハーグ密使事件の時だろう。いや、新しくもない。
昔から毒殺説は言われていたよ。
んで、それがきっかけで独立運動に発展した話もセットで昔から言われていました。
韓国の教科書は知らないけど、おそらくそう習っていると思う。
ちなみに純宗(大韓帝国のラストエンペラー。1926年に死去)の死去もそういう噂が流れたが大きな動きにならなかったらしい。>>8
一番下、誰だよww
こんな純真で素直そうなイメージの奴が
街のならず者とつるんで飲んだくれて乞食の真似事をして、その裏でコネを取り付けたって無理あるだろw韓国人は光栄でも買収して「高宗無双」とか作ってもらったらいいんじゃないの?
>>10
それ、閔妃が高宗に跨がって、尻に鞭を打たれて走ってる構図しか思い浮かばない。
閔妃は呪術祭をやり続けないと滅ぶと思ってるので、
高宗に跨がって、呪術祭を反対する民衆や官僚を次々と蹴飛ばして、祭資金を徴収する。
敵の大ボスは、それに干渉して、叱責してくる朝鮮顧問の袁世凱。中ボスは大院君。
日本は、米取引の突然停止(朝鮮側の違反)で損害を受けたと、祭資金を時々奪っていく。
目的は、袁世凱に知られずに、フランスから資金を借りれればクリア。>>8
一番上は息子じゃない?臨時政府は、主張は様々で変化し続けたが、王家の正統性、正当性を認めない、両班への支持は大まかには統一されている。
北朝鮮は両班さへも全否定だね。
折衷案かな
新しい歴史がまた一つ、日帝から独立を目指して毒殺された高宗は韓国民主運動の原点
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