日本の物部,徳川家康は瞳が青い白人だった.

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    • 1名無し2019/01/10(Thu) 21:28:34ID:U2NTMwOTA(1/4)NG報告

      日本の物部,徳川家康は瞳が青い白人だった
      しかし百済人と混血して瞳が茶色または黒になったのだ

      日本には 物部,徳川家康みたいな
      金髪の目が青い侍の絵が存在する

      Ad 1200year

    • 267先人間後知識2019/01/17(Thu) 00:56:04ID:c3OTAxMzY(29/33)NG報告

      なるほど、黒は青を含む。

    • 268先人間後知識2019/01/17(Thu) 00:59:17ID:c3OTAxMzY(30/33)NG報告

      なるほど白は金を含む。

    • 269先人間後知識2019/01/17(Thu) 01:07:00ID:c3OTAxMzY(31/33)NG報告

      >>266
      イスラエルの鹿をシンボルとする部族の遠い親戚か?

    • 270名無し2019/01/17(Thu) 06:21:21ID:EwMzE4MjY(1/1)NG報告

      >>263じゃあそんな日本に併合された糞蟲人擬きはどうなるのだ?

    • 271名無し2019/01/17(Thu) 06:30:49ID:U2MDc5NjU(26/53)NG報告

      >>徳阿弥(松平親氏)は南北朝時代 から室町時代初期の人ですので約200年近く黄色人種の中で白人の特徴を守ったことになります

      父祖の系譜は、新田源氏世良田氏の末裔という[2]。新田義重の四男義季が新田荘徳川に住して得川を称した[2]。義季の二男を頼氏といい、世良田弥四郎と称し、三河守となった[2]。その二男を次郎教氏、教氏の子が又二郎家時、家時の子が弥次郎満義である[2]。満義のあとを政義、親季、有親と継いで有親の子が親氏という[2]。

      室町時代が新羅系の白人天皇が
      存在した時代だ
      つまり徳川は金髪の瞳が青の白人だ
      1573年その時代が終わった理由が南朝の百済の後裔,織田信長時代ではないか??www
      倭人の白人系であった徳川が東洋人の勢力
      百済系の敵の間から生き延びるためには, 人種的特徴は隠さなければならなかった

    • 272名無し2019/01/17(Thu) 06:32:05ID:I2NzQ1NDM(2/2)NG報告

      思い出したが子供の頃、スーパーの二階のゲームセンターの管理人をしていた白髪頭のおじいさんがいたんだが、
      その人が青い目をしていた
      年代的に日米ハーフとかあり得ないし、親がロシア人もまずない、緑内障(青そこひ)かなあ、と思っていた

    • 273名無し2019/01/17(Thu) 06:33:49ID:U2MDc5NjU(27/53)NG報告

      >>272

      つまり徳川は金髪の瞳が青の白人だ

    • 274名無し2019/01/17(Thu) 11:17:12ID:EwMjQzMg=(1/1)NG報告

      >>263
      残飯通ってwww

    • 275名無し2019/01/17(Thu) 22:19:13(9/11)

      このレスは削除されています

    • 276先人間後知識2019/01/18(Fri) 00:06:36ID:I5Mzc3NDQ(32/33)NG報告

      >>273
      チャンケと格闘遊戯。

    • 277名無し2019/01/18(Fri) 00:09:53ID:M0ODYzMzQ(1/1)NG報告

      韓国はろくな歴史の証跡が残っていないがら妄想し放題だが、
      日本はいろいろ資料が残っているので妄想の整合性をとるのは大変だ。

    • 278名無し2019/01/18(Fri) 00:12:16ID:c0NTU4NjY(1/1)NG報告

      まだ朝鮮人続けてるのか…

    • 279先人間後知識2019/01/18(Fri) 00:28:20ID:I5Mzc3NDQ(33/33)NG報告

      もの好きな人達。

    • 280名無し2019/01/20(Sun) 11:50:55ID:YzMjc0MDA(28/53)NG報告

      『藤氏家伝』には藤原不比等の名が記載されていない。このことによって、藤原四家はそれぞれが別の氏族であり、ミス・ハーフといったところの娘たちをもった不比等の名によってかれらを統合したことが判る。従って藤原四家は金庾信の子孫と郭務悰の子孫の他、秦氏もいたし、金氏もいた。金氏といっても金海金も慶州金もいたであろう。『善隣国宝記』のなかに郭務悰を唐務悰としているところが一ヶ所だけあるが、この「唐」が「藤」に変っただけである。

       14、日本国は畿内の秦王国または日の本と、九州の倭国(邪馬壱国、安羅)を合体させて作った国家であった。それは白村江の戦いののちに、新羅人の色ぼけ帝国の命令によって唐にかくして行われた。『記紀』はこの日本建国史の真相を唐と日本人にかくすべくして程造したものである。   

       16、新羅史の「砒曇の乱」によって、日本史は東城王以下の百済王と善徳王以下の新羅王を共に天皇にしたことが判る。だから天皇家が万世一系であるというのはマッカなウソで、その時その時の王朝が、自分の王朝は万世に続くとする自分勝手な醜い欲望にすぎない。これは天皇家周辺の朝鮮人やシナ人が考え出したことで『記紀』の主たる目的の一つであった。そもそも『記紀』によって一系とされる日本の王朝は実は八つの王朝が交替していた。

    • 281名無し2019/01/20(Sun) 12:28:04ID:YzMjc0MDA(29/53)NG報告

      >>『善隣国宝記』のなかに郭務悰を唐務悰としているところが
      郭務悰は
      百済の大族( 沙宅孫登氏)孫登一緒に
      百済の大族である沙沢氏,660年(義慈王20),7月13日に新羅と唐の連合軍の攻撃を受けた結果,義慈王や王妃·恩顧,太子の隆,そして左平·千福·国変成を含む約50人の高官とともに,唐軍の捕虜となった。
      その後,彼らと共に唐に強制に送られたが,百済に還送され,唐軍が主観する熊津都督府の官下の要職に就いた。 しかし,百済の古地を区画し,官掌していた熊津都督府が新羅軍の圧力に耐え切れず,672年(文武王12)崩壊した。

      そして,唐の郭務悰が引率する約60人と,孫登( 沙宅孫登氏)自分が従った1400人を率いて47隻の船に分乗し,今の巨済島(コジェド)の西南側の非珍島(ビジマ)と推定される(比知島)に一時停泊した後,日本に亡命した。

      (沙宅孫登氏??)vs(孫登氏??)

      ここで大事なことは
      >>百済の大族( 沙宅孫登氏)孫登一緒に

      中国の三国志南朝の呉国(229~280)の建国者
      孫権は孫登氏(沙宅孫登氏)の先祖ということだ
      つまり呉国の孫権の本当のネームは
      沙宅孫権氏で百済の王族だった

      日本の伝統,着物 吳服の起源は吳國(229~280)で
      呉国(229~280)が百済の属国だったという証拠だった


      つまり百済の首都は朝鮮半島ではなく,孫権の呉国(229~280)が
      本物の大陸の百済であったという真実が明らかになったのだ。

    • 282名無し2019/01/20(Sun) 12:39:38ID:YzMjc0MDA(30/53)NG報告

      >>従って藤原四家は金庾信の子孫と郭務悰の子孫の他、秦氏もいたし、金氏もいた。

      日本の物部,藤原,徳川家康,金氏,秦氏,卑弥呼は瞳が青い白人だった

      邪馬壱国の南倭は
      北倭(後燕=北魏)のように白人王国だったという証拠だった

    • 283名無し2019/01/20(Sun) 12:42:28ID:YzMjc0MDA(31/53)NG報告

      第一王朝は孝昭以下の駕洛王朝、第二王朝はニギハヤヒ(昔氏)の多羅王朝、第三王朝は神武以下の扶余の百済王朝、第四王朝は継体以下の邪馬壱国または安羅王朝、第五王朝は皇極以下の新羅王朝、第六王朝は道鏡、光仁以下の亡命百済王朝、第七王朝は後小松以降の足利王朝、第八王朝は明治以降の自称百済系の大室王朝である。

       これをもって万世一系となしたのは帰化朝鮮人と秦人が合作した系図偽造であった。だから日本では王朝の交替には公卿たちの承認と神器の継承を必要としたのである。1乃至16は拙著『日本王朝興亡史』『国史正義』に詳しい。ざっとこんなところであろう。

    • 284名無し2019/01/20(Sun) 12:46:15ID:QzNjQzNjA(1/1)NG報告

      そうだったのか、知らなかった

    • 285名無し2019/01/20(Sun) 13:10:21ID:YzMjc0MDA(32/53)NG報告

      >>
      第一王朝は孝昭以下の駕洛王朝、
      第二王朝はニギハヤヒ(昔氏)の多羅王朝、
      第三王朝は神武以下の扶余の百済王朝(X)
      第四王朝は継体以下の邪馬壱国または安羅王朝(X)
      第五王朝は皇極以下の新羅王朝(X)
      第六王朝は道鏡、光仁以下の亡命百済王朝、
      第七王朝は後小松以降の足利王朝、
      第八王朝は明治以降の自称百済系の大室王朝である>>

      ここで日本人の筆者の錯覚があった
      >第四王朝は継体以下の邪馬壱国または安羅王朝??
      邪馬壱国は南倭の第一王朝,第二王朝,第三王朝の金髪の瞳が青い白人の王朝だった
      第四王朝は亡命百済王朝だった26代 継体天皇は百済蓋鹵王の子孫だった

      >第五王朝は皇極以下の新羅王朝?
      35代 皇極天皇は新羅王朝ではなく百済王朝だった

      >第七王朝は後小松以降の足利王朝
      物部,藤原,徳川,金氏,秦氏,卑弥呼の瞳が青い白人王朝だった

    • 286名無し2019/01/20(Sun) 13:15:26ID:YzMjc0MDA(33/53)NG報告

      (三輪氏=檀君 扶余の 高氏)
      10代 崇神天皇=三輪印恵301-308(前97-前30)から14代 仲哀天皇=三輪仲彦355-362(192-200)まで
      (阿倍氏=任那 金氏)=任那は韓半島ではなくインド人スリランカ 倭王で白人アーリア族族,
      倭はドラビダ族黒人,黒潮乱流に乗って韓半島と列島移住
      その当時インド人日本卑ケフ呼女王と 魏王朝の 曹操,新羅の 味鄒泥師今は
      親戚ぐらいのレベルだったこと, インド人スリランカの 倭は 小魏と記録!
      15代 応神天皇=阿倍誉田362-393(270-310)から
      16代 仁徳天皇=阿倍大雀393-427(313-399)
      25代 武烈天皇=阿倍若雀492-509(498-506)まで
      (巨勢氏=百済 和氏)百済大和氏(和)は武寧王の子孫で 継体天皇が白人の
      武烈天皇をとり除いて即位,
      大陸百済の 蓋鹵王が高句麗軍によって 戦死,大陸百済には白人の 慕容氏だった
      白人の文周王,三斤王,東城王が任命されたし,日本の白人の武烈天皇も同じ系列で考えられ!
      激怒した 蓋鹵王の子孫だった日本の武寧王が白人の武烈を除去!
      26代 継体天皇=巨勢男大迹509-534(507-531)から
      30代 敏逹天皇=巨勢玉敷571-585(572-585)まで
      (百済蘇我氏-大伴氏-和氏)=蘇我氏は百済 枕流王の子孫
      31代 用明天皇=蘇我豊日585-587から
      33代 推古天皇=蘇我額田592-628まで
      34代 舒明天皇=巨勢田村628-641
      35代 皇極天皇=大伴宝 641-645
      36代 孝徳天皇=阿倍倉梯645-654=金氏
      37代 斉明天皇=大伴宝654-661から
      38代 天智天皇=大伴葛城661-671まで

    • 287名無し2019/01/26(Sat) 09:34:05ID:c3NjYyNzA(34/53)NG報告

      (北倭記)
      倭人の先祖は概ね満州にいた奇子朝鮮、公孫燕、北扶余などの傘下にいた【北倭】と【南倭】です。

      【北倭】とは広義には瓦族、クメール族、ナガ族、シャキィ族などの総称ですが、

      北倭が三分して、一つは日本に渡来し、一つは、蒙瓦室韋から今の蒙古人になり、
      一つは、朝鮮の朴氏と昔氏になりました。
      新羅帝国の金氏は、九州の駕洛国の金氏から分れたもので、これを【南倭】といいます。
      朴氏と金氏は、共に現在の朝鮮の大姓になります。
      朝鮮ではこの他にもチュルク族の高句麗文化が残っていましたし、
      また中国からも朱子学が入ったので異民族の間で異文化の対立がおこりました。
      ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
      しかし日本では北倭と南倭が共同してツングースを追放し、
      ツングースは北海道に逃れてアイヌ人になったので、
      本島だけでは単一文化、単一民族の杜会になりました。
      ツングースも元々満州から日本に侵入した人々で、
      当初、満州でオロチョンと苗族が混血した人々らしい。
      日本列島にはツングースの渡来以前に縄文人であるギリヤックとオロッコ(ウェツタ、穢多)
      などが先住していました。琉球や琉鬼国(樺太)はギリヤックの地といわれました。
      奈良時代の東北地方は、アイヌと蝦夷の斑状社会でしたが、これは異系民族の別邑社会でした。
      北海道でも両者は初め別々に生活し、後に一括して【アイヌ三族】と呼ばれました。

    • 288名無し2019/01/26(Sat) 09:57:23ID:c3NjYyNzA(35/53)NG報告

      >>倭人の先祖は概ね満州にいた奇子朝鮮、公孫燕、北扶余などの傘下にいた【北倭】と【南倭】です

      ここで日本人の筆者は"北扶余"と書き間違えたが,実は南扶余だった
      伯族の扶余王仇台は百済王仇首であり、伊都国に進んでイワレヒコこと神武天皇になった。従って公孫氏の女(むすめ)とある仇台妃は卑弥呼であり、かつ神武妃ヒメタタライスズである

      公孫燕の娘が日本の卑弥呼され,南扶余の百済王と結婚して高句麗を攻撃するのだ。
      燕(北倭)の王族はバビロニアの子孫だった
      つまり,金髪の瞳が青い白人だった

    • 289名無し2019/01/26(Sat) 10:43:22ID:c3NjYyNzA(36/53)NG報告

      (南扶余王 仇台)
      >> 仇台は南扶余王 1代(解夫婁)(B.C.86)の息子が百済王の仇台→溫祚王
      結局,初期から"百済と高句麗はライバルだった"という証拠だった

      (北扶余)→高句麗

      1代(解慕漱,B.C.239):本来,古里国の人で即位8年(B.C232)に五加によって檀君へと推戴された。
      2代(慕漱離B.C·194)
      3大(高奚斯,B.C.169)
      4大(高于婁あるいは解于婁),B.C.120
      5大(高豆莫,B.C.108):(本)で即位し,自ら(東明)と言った。 B.C108即位後,夫餘を継承した。
      6代(高無胥)(B.C.59):次女<禮氏>を高朱蒙の妻とし,高朱蒙と禮氏の間で(琉璃 : 孺留)が生まれる。



      (南扶余)(=迦葉原 夫餘)→百済

      1代(解夫婁)(B.C.86):高于婁が死ぬと弟として王位に上ったが,北扶余 高豆莫に追われ,迦葉原に国を開いた。
      →息子が百済王の仇台→溫祚王
      2代(金蛙)(B.C.47)
      3代(帶素)(B.C.8):A.D22 南扶余は高句麗 大武神王によって滅亡

    • 290名無し2019/01/26(Sat) 14:18:51ID:c3NjYyNzA(37/53)NG報告

      >>日本列島にはツングースの渡来以前に縄文人であるギリヤックとオロッコ(ウェツタ、穢多)
      などが先住していました。琉球や琉鬼国(樺太)はギリヤックの地といわれました

      >ここで日本人の筆者の深刻な錯覚と誤りを犯した。
      縄文人の起源は満州のギリヤックとオロッコ族ではなく
      台湾の原住民のパイワン族だった

    • 291名無し2019/01/26(Sat) 14:25:53ID:c3NjYyNzA(38/53)NG報告

      >>奈良時代の東北地方は、アイヌと蝦夷の斑状社会でしたが、これは異系民族の別邑社会でした。
      北海道でも両者は初め別々に生活し、後に一括して【アイヌ三族】と呼ばれました

      アイヌ族は東洋人のツングース族だが
      蝦夷族は先史白人族だった

      日本の底脳の歴史学は二つの異なる人種の区別ができないので
      通常,アイヌと呼んでいる

    • 292名無し2019/01/26(Sat) 14:30:16ID:c3NjYyNzA(39/53)NG報告

      【契丹北倭記】
      第18章に、【初め五原に先住の民あり、没皮、龍革は北原で牧畜し、
      魚目・姑腹は西原に穴居し、熊耳・黄眉は中原に住み、苗族・盃憑は南原に農耕し
      菟首・狼裾(オロチョン)は海原で漁猟していた。これらの諸族は皆よく服従した。
      しかし南原の朴・金・昔は凶暴で帰服せず、神祖は討って海に追放した。
      疏に曰く。『朴昔金は三族の名であって、鳥をトーテムとするクマソ族である。
      のちに海をへて沖縄に侵入し宇豆(大隈国)を根拠として、日向を乱し、
      ついに辰国に入ったものはその一族の末という。】と記していますが、

      【五原】とは高句麗の通商圏ですが、没皮はニヴヒ、龍革はギリヤックのことで、
      彼らはもと大陸の北にいたものです。 新羅王家の朴・金・昔は、元々朝鮮半島にいましたが、
      彼らのいたという【南原】は九州から沖縄にかけてになります。
      朴氏はインドからインドシナの沿岸部にいるインドのナガ族の子孫です。
      はじめマガダのシスナガ王朝がベトナムで植民地を作って文郎国といいましたが、
      中山国から亡命したシャキィ族の蜀の安陽君に国を譲って海頭の沖縄に移りました。
      そして沖縄から北支に入り、ウラルトゥ亡命者の国を奪って大扶余国といってその王となり、
      また沖縄に残ったものは南解次々雄(ナガ族の支派シシュナガ族)と名乗り、
      日本史のナガスネヒコとなりました。
      ナガ族は沖縄では那嘉氏といい、本土では中曾根氏になりました。
      沖縄の那嘉氏は後に尚氏という王家を作りましたが、その同族は契丹の王妃族蕭氏です。
      尚も蕭もシシュナガ族を表わしたものです。
      北支で中山国を建てたシャキィ族(カルデア人)の昔氏とナガ族の朴氏を鮮虞といい、
      彼らが後の奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり、
      後に契丹の王族と王妃族になったのです。

    • 293名無し2019/01/26(Sat) 14:42:11ID:c3NjYyNzA(40/53)NG報告

      >>疏に曰く。『朴昔金は三族の名であって、鳥をトーテムとするクマソ族である。
      のちに海をへて沖縄に侵入し宇豆(大隈国)を根拠として、日向を乱し、

      熊襲(くまそ)とは、日本の記紀神話に登場する、九州南部に本拠地を構えヤマト王権に抵抗したとされる人々で、また地域名を意味するとされる語である。古事記には熊曾と表記され、日本書紀には熊襲、筑前国風土記では球磨囎唹と表記される。
      肥後国球磨郡(くまぐん。現熊本県人吉市周辺。球磨川上流域)から大隅国曽於郡(そおぐん。現鹿児島県霧島市周辺。現在の曽於市、曽於郡とは領域を異にする)に居住した部族とされる。また5世紀ごろまでに大和朝廷へ臣従し、「隼人」として仕えたという説もある(津田左右吉ら)。なお、隼人研究家の中村明蔵は、球磨地方と贈於地方の考古学的異質性から、熊襲の本拠は、都城地方や贈於地方のみであり、「クマ」は勇猛さを意味する美称であるとの説を唱えている。

      また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致するものではない。

      文献資料ではなく、土器の分布の面からは、免田式土器(弥生期から古墳初期にかけて)が熊襲の文化圏によって生み出されたものではないかと森浩一は考察している。


      >>ヤマト王権に抵抗したとされる人々

      百済の大和政権に対抗した彼らは金髪の瞳が青い白人だった
      通常,物部,藤原,徳川氏が彼らの子孫だった

    • 294名無し2019/01/26(Sat) 15:01:37ID:c2MzEwODg(1/2)NG報告

      >>260
      余談だが、ロシアでも赤ちゃんをぐるぐる巻きにするやり方はあるね
      もともとはモンゴル人の風習だったんだろうか?ゾセンジングはどうなんだろう?
      知ってる人教えて

    • 295名無し2019/01/26(Sat) 15:31:29ID:c3NjYyNzA(41/53)NG報告

      >>また、魏志倭人伝中の狗奴国をクマソの国であるとする説が、内藤湖南、津田左右吉、井上光貞らにより唱えられている。ただし、この説と邪馬台国九州説とは一致

      邪馬台国の卑弥呼女王と1代 南扶余王, 解夫婁の息子,百済(南扶余=東扶余)の仇台が結婚同盟をして高句麗を侵攻したからである。邪馬台国は日本列島ではなく,中央アジアに存在した北倭だった
      魏志倭人伝中の親魏倭王という称号は卑弥呼女王の倭と魏は金髪の瞳が青い白人の同族だったという証拠だった.倭という称号は小魏,字典の記録によればスリランカの 倭は 小魏だったと記録する
      その白人同族が百済(南扶余=東扶余)の仇台と連合して中央アジアから高句麗を侵攻したのだ

      インド人白人だった vijaya王(bc543年)はスリランカを占領して
      12王子を生んだが,彼らがスリランカで任那(伽揶)12王国を建国した。
      タミル出身の二番目王妃だった yashodharaが生んだ 12王子の名前は 12王国の名前とまったく同じだ。
      (加羅国,安羅国,古嵯国,多羅国,稔礼国,斯二岐国,卒麻国,子他国,散半下国,乞〓国,卓淳国,啄己呑国 )
      日本が 369年から 562年まで占領したと主張する任那日本府,彌摩那は
      スリランカの地名だった Mimana(=mannar), Eemna(=Demna)とまったく同じだ。
      日本の 卑弥呼女王はインド人白人だった 魏人だったし,彼らは黒人スリランカ 倭-人を統治した。
      卑弥呼が占領した任那日本府は東南アジアスリランカだったし
      黒潮暖流に乗って来て韓半島と日本に定着しただけだ。
      字典の記録によればスリランカの 倭は 小魏だったと記録する。
      その後に 卑弥呼女王の勢力は百済大和(モンゴロイド)の繼体天皇に政権を奪われた。
      ★くれはとり呉服, からかぬち韓鉄→くれはとり呉服は大陸百済が統治した中国の三国志の 呉王朝の服で
      百済の焼く土器横穴式 墓が証拠。大陸の百済だった 呉王朝はバビルロニアの白人王朝だった魏(新羅)の攻撃を受けて日本に逃げた。それが現在の日本の着物と 呉服だ。
      からかぬち韓鉄は 韓(kara)の意味, すなわち,インド人,スリランカの語源で 倭と呼ぶ。
      すなわち現在の 倭は日本列島ではなくインド人,スリランカの 倭人を意味する。

    • 296名無し2019/01/26(Sat) 15:59:11ID:kwNzU3NDY(10/11)NG報告

      考古学的研究に神話を当てはめるのは構いませんが、神話をすべて事実として扱うべきでは無いと思います。
      また、一次資料から推測した説をまた一次資料として使い推測するのを延々と繰り返すと、もはやただの妄想の域になってしまいます。
      資料に基づいてどんな説を唱えるもの自由だと思いますが、仮説を入れた時点で推測にしかならないと思っています。
      確定した歴史として書き表すのは適切では無いです。

      どこまで北倭記を引用しているのか解りませんが、書籍の作者は法学部卒の弁護士です。
      著者独自の歴史観で書かれた物で、異説と言ってもいいでしょう。
      これを基にして展開した仮説は小説の域に達していると思います。

    • 297名無し2019/01/26(Sat) 18:29:11ID:c3NjYyNzA(42/53)NG報告

      >>296
      >>また、一次資料から推測した説をまた一次資料として使い推測するのを延々と繰り返すと、もはやただの妄想の域になってしまいます。
      資料に基づいてどんな説を唱えるもの自由だと思いますが、仮説を入れた時点で推測にしかならないと思っています。
      確定した歴史として書き表すのは適切では無いです。
      どこまで北倭記を引用しているのか解りませんが、書籍の作者は法学部卒の弁護士です。
      著者独自の歴史観で書かれた物で、異説と言ってもいいでしょう。
      これを基にして展開した仮説は小説の域に達していると思います

      仮説??異説??wwwwwwww

      日本人の筆者>>155しかし世人の反論としては、日本史に朝鮮史の一部がまぎれこんだのだろうというものであり、無能な学者共に至ってはこの問題すべてを黙殺している。しかしこの事実は重大であって、『記紀』が全体的に正当な歴史書ではありえないことを示す。自白調書の一部に重大な矛盾があれば、調書全体を信ずべきでないことは当然であろう。

      この文を書いた日本人は,既存の歴史書が詐欺師だと主張する。
      日本の史書だけでなく,中国の25冊の史書も詐欺師だ。
      オレモ同感だからだ
      仮説??異説??と言うやつたちは韓国の在韓華僑奴らと日本の羊飼い,長州藩のちんぴらだ

    • 298名無し2019/01/26(Sat) 18:54:10ID:c3NjYyNzA(43/53)NG報告

      【契丹北倭記】
      >>【五原】とは高句麗の通商圏ですが、没皮はニヴヒ、龍革はギリヤックのことで、
      彼らはもと大陸の北にいたものです。 新羅王家の朴・金・昔は、元々朝鮮半島にいましたが、
      彼らのいたという【南原】は九州から沖縄にかけてになります。
      朴氏はインドからインドシナの沿岸部にいるインドのナガ族の子孫です。

      ナガ族(Naga)はインド北東部、ミャンマー国境上に沿うナガ丘陵(英語版)のナガランド一帯に暮らすモンゴロイド系の民族。人口は約200万人。チベット・ビルマ語派系の言語を話す。-Wikipedia

      >ここで日本人の筆者の深刻な錯覚と誤りを指摘したい。
      筆者は彼らがナガ族の子孫だと主張しているが
      本人はインドのアリアンの白人だと言いたい
      日本人の筆者は,卑弥呼(=朴氏スキタイ人)が瞳が青い白人,アレクサンダー大王の直系子孫,バクトリア王朝という真実を忘れてしまったのだ

      バクトリア(Bactria)は、バクトリアーナ(バクトリアナ)、トハーリスターン(トハリスタン)とも呼ばれ、ヒンドゥークシュ山脈とアム(オクサス)川の間に位置する中央アジアの歴史的な領域の古名。
      現在はイランの北東の一部、アフガニスタン、タジキスタン、ウズベキスタン、および、トルクメニスタンの一部にあたる。かつてその領域にはグレコ・バクトリア王国などが栄えた。
      ペルシア人とサカ人の共同支配
      紀元前6世紀のバクトリアの人口の主要部分、少なくともその支配階級はペルシア人とスキタイ人とによって構成されていたものと考えられるが、スキタイ系のサカ人がこの地域にペルシア人よりも早くから住んでいたことは、ヘロドトスや、その後のストラボンなどが伝えているバクトリアの習俗によっても知られる。サカ人に遅れてバクトリアに侵入し、これを征服したペルシア人は、サカ人やその他の先住民の支配者となったが、その数は多くはなかったので、険要な地を選び、城や砦を築いて住み着いた。彼らは、その軍事力と組織力によって原住民の社会秩序を維持するとともに、税を徴収していたものと思われる。ローマ時代の史料によると、バクトリアは7000人の貴族によって支配されていたという。また、ヘロドトスがしばしば「バクトリア人とサカ人」と並称させているところからみても、ペルシア人と先住のサカ人が共同して支配階級を構成していたものと思われる

    • 299名無し2019/01/26(Sat) 20:29:33ID:c3NjYyNzA(44/53)NG報告

      大賀氏
      契丹古八部
      後漢:延康元(220)年
              軻比能、魏の附義王に封じられる。〔『三国志』30〕
      >>その同族は契丹の王妃族蕭氏です。
      >>彼らが後の奇子朝鮮を作り、その朴氏がチュルク族の匈奴冒頓部と混じて鮮卑となり、
      後に契丹の王族と王妃族になったのです。

      Cathay(契丹)=Originally, this name was the name applied by Central and Western Asians.
      and Europeans to northern China->>Kitai = Wikipedia
      契丹は人種的に西アジアの白人だという証拠

    • 300名無し2019/01/26(Sat) 20:33:45ID:c3NjYyNzA(45/53)NG報告

      【契丹北倭記】

      次に昔氏はインドのシャキィ族の子孫です。

      「シャキィ族の殷が海路満州に渡来して、その地に穢国をたてた」とありますが、

      その王が中国史の穢君南呂峠(ナロン)で文郎国の子孫です。

      シヤキィ族はいにしえバビロン南部のアル・ウカイルにいてジッグラトを作りました。

      シャキィ族は、インドから渡来して新バビロニア帝国の亡命者と共に北支の中山国の支配者になり

      中山国の滅亡の後に分裂してベトナムの文郎国と満州の奇子朝鮮に分れました。

      中山国の王家は、シャキイ族(昔氏)、人民は鮮虞でした。

      文郎国の王家はシスナガ国の植民地で始めはナガ族で後の朴氏でしたが、

      シャキィ族の王に変ってから昔氏となり、これがのちに穢国の王家に続きます。

      穢君南呂峠の子孫の陜父がチュルク族が王になった高句麗から分れて南下し、

      九州の熊本に上陸して多婆羅国または多羅国を作り、陜父の名を改めてニギハヤヒといいました。

      多婆羅国の名は今もなお田原坂として残っていますし、百済の国名も旧多羅(くたら)からなったものです

    • 301名無し2019/01/26(Sat) 20:44:04ID:EyNjUyOTA(1/1)NG報告

      >>300
      はい!質問です!
      韓国人先生は何故そんなに日本の古代に詳しいのですか?
      嘘偽りなく、本心で答えてださい!
      おねがい

      あと、民俗学、民族学、とても興味があるから
      購入できそうな文献があるなら教えてもらえるとありがたやー。

    • 302名無し2019/01/26(Sat) 21:10:30ID:I4MjI5OTQ(4/4)NG報告

      >>301
      >> 韓国人先生は何故そんなに日本の古代に詳しいのですか?

      はい
      おれは韓国と日本の古代史の真実を暴くのが
      特技であり趣味だ。 
      古代史を読めば,人種の多様性と神の創造論まで面白い。
      貴下も退屈なら詐欺師のような既存の史学を捨て, 北倭記, 金髪の瞳が青色の白人の日本史を悟ることになる。
      まぁ,北倭記を検索すればたくさん出るw

    • 303名無し2019/01/26(Sat) 23:53:16ID:c3NjYyNzA(46/53)NG報告

      >>次に昔氏はインドのシャキィ族の子孫です。
      「シャキィ族の殷が海路満州に渡来して、その地に穢国をたてた」とありますが、
      その王が中国史の穢君南呂峠(ナロン)で文郎国の子孫です。
      シヤキィ族はいにしえバビロン南部のアル・ウカイルにいてジッグラトを作りました。
      シャキィ族は、インドから渡来して新バビロニア帝国の亡命者と共に北支の中山国の支配者になり

      シャキィ族(=サカ族 Saka)は、紀元前6世紀頃から中央アジアに現れるイラン系遊牧民族。サカとはペルシア側の呼び名で、古代ギリシアではサカイ(Sakai)と呼んだ。また、中国の史書では塞(そく[1])と呼ばれる種族がサカにあたるとされるが異論もある

      アケメネス朝の『ベヒストゥン碑文』ではサカ、古代ギリシアの歴史書ではサカイと記された民族は、古代ギリシア人がスキタイと呼ぶ北方草原民族のペルシア側の呼び名であると、ヘロドトスは言う。この民族はアケメネス朝の支配を受け、ペルシア戦争に参加するなど、アケメネス朝では強力な部隊として活躍した。また、ストラボン『地理誌』によると、
      サカと呼ばれる遊牧民のうち、特に有名なのがヤクサルテス川(シル川)のかなたからやって来て
      ギリシア人からバクトリアを奪ったアシイ、パシアニ、トカリ、サカラウリであると記す。

      この同じ事件を古代中国でも記しており、匈奴に撃退され、パミールを越えてアム川北に移動し、大夏国を征服した月氏の西遷、あるいは塞族の南遷がそうであるとされるが、塞族の存在については否定的な意見もあるため、慎重的な見方をしなければならない。[3]

      11世紀に作られた「シャー・ナーメ」の主人公の一人ロスタムはサカ人だったという説[4]がある

      やはり彼らは金髪の瞳が青いアレクサンダー大王の子孫であるという証拠だった

    • 304名無し2019/01/27(Sun) 00:20:30ID:EzMzk0MTU(47/53)NG報告

      シャキィ族(=サカ族 Saka)は、紀元前6世紀、アケメネス朝は古代オリエントを統一して大帝国を築くと、さらに東へ遠征し、中央アジアの草原でサカと総称される遊牧騎馬民族と接触した。このサカについてダレイオス1世(在位:前522年 - 前486年)の『ベヒストゥン碑文』では、サカ・ティグラハウダー(尖がり帽子のサカ)、サカ・ハウマヴァルガー(ハウマ[5]を飲む、あるいはハウマを作るサカ)、サカ・(ティヤイー・)パラドラヤ(海のかなたのサカ)の三種に分けていた。サカ・ティグラハウダーは中央アジアの西側、サカ・ハウマヴァルガーは中央アジアの東側に住んでおり、サカ・パラドラヤは「海のかなた」すなわちカスピ海もしくは黒海の北となり、ギリシア文献に出てくるスキタイを指すものと思われる。[6]

      アケメネス(Achaemenes、古代ギリシア アカイメネースは、アケメネス朝の王家の氏族の始祖とされる、半ば伝説中の人物。その事績は伝わっていない。

      なお、クセルクセス1世の兄弟(または息子)とされる同名の人物で、エジプトのサトラップがいる

      ベヒストゥン碑文ではアケメネスをテイスペスの父としている。

      ヘロドトスの『歴史』7.11 でクセルクセス1世の家系について述べる箇所では、混乱が見られるものの、やはりアケメネスをテイスペスの父としている。

      しかし、キュロス・シリンダーではキュロス2世は自らをテイスペスの子孫と述べているにもかかわらず、アケメネスについては何も記していない。

      一般に、アケメネス家の人を自称するようになったのはダレイオス1世からである。唯一、パサルガダエのキュロス2世の古代ペルシア語碑文には、自分がアケメネス家の人であることを述べているが、この碑文はキュロス2世ではなくダレイオス1世の時代に作られた可能性が高い[3]。

      アケメネスが実際にテイスペスの父であったとしても、彼が何をしたかはまったく不明である。

      伝プラトン『アルキビアデスI』では、アケメネスをペルセウスの子孫としている[4]。

      パサルガダエの碑文。上二行に古代ペルシア語で「私はキュロス、アケメネスの王」と記す

      北倭を立てたシャキィ族(=サカ族 Saka)は、彼らは
      金髪の瞳が青い白だったギリシャのペルセウスの子孫であり、
      エジプトを征服し、アジアで高句麗を征服して
      日本ヘ到着したのだ

    • 305名無し2019/01/27(Sun) 01:00:42ID:EzMzk0MTU(48/53)NG報告

      >>伝プラトン『アルキビアデスI』では、アケメネスをペルセウスの子孫としている[4]

      北倭を立てたシャキィ族(=サカ族 Saka)のペルセウスは誰か?

      ペルセウス(古希: Περσεύς, Perseus)は、ギリシア神話に登場する英雄である。英語読みでパーシアスとも呼称する。

      ゼウスとダナエー(アルゴス王アクリシオスの娘)の子。妻アンドロメダーとの間にペルセウス(ペルセース)、アルカイオス、ステネロス、ヘレイオス、メーストール、エーレクトリュオーン、ゴルゴポネーをもうけた[1]。

      ペルセウスはゼウスの血を引く半神であり、神々から授かった魔術的な武具を駆使してメドゥーサ殺しを成し遂げ、その後も多くの困難を乗り越えた。ミュケーナイ王家の創始者となり、死後は星座になったとも言われる。


      つまり、北倭をを立てたシャキィ族(=サカ族 Saka)はゼウスの
      子孫だったのだ

    • 306名無し2019/01/27(Sun) 01:07:08ID:EzMzk0MTU(49/53)NG報告

      【契丹北倭記】金氏は、【黄金の牛】といわれるヴァル神を奉じて、はるかアラビア海を渡って朴氏以前に
      前7世紀頃には沖縄を経て九州の宇佐に渡来しました。その国は始め東表国といい、
      次いで狗邪国または駕洛国といいました。後の金官加羅国であり、その民は、南倭でした。
      この王家が金氏でした。

      国東半島から前7世紀の青銅剣を含む青銅器と多数のトーテツ土器が出土しています。
      新羅の金姓王家は九州の金氏から分かれたもので、
      駕洛王金首露は実は新羅王統の金首留と同一人です。


      倭人とは陜義には同音の亙族のことで、日本人とともに、

      後に蒙古族となる満州の蒙瓦室韋もその子孫ですが、

      広義にはナガ族、シャキィ族、クメール人、ボド語族などを含めて、

      インドから中国の長江流域にやって来たインドのアジア系諸族の総称でした。

      檀君朝鮮と奇子朝鮮の王家は共に広義の倭人であり、

      北倭の朴氏と昔氏、南倭の金氏という新羅三姓もすべてのちに倭人になります。

      檀君朝鮮、従って大扶余、及び奇子朝鮮、新羅の王家はすべてが倭人だったのです。

    • 307名無し2019/01/27(Sun) 01:10:42ID:EzMzk0MTU(50/53)NG報告

      フルリ語の粘土板文書がチグリス川の支流域のヌジ、ユーフラテス川沿いのエマル

      シリア方面のアララクやウガリトから出土しています。

      BC15世紀頃のもので、ヒッタイト王国の3代ムルシリ1世や5代スッピルリウマ1世が

      フルリ人国家を服属させたという記録があるそうです。

      このフルリ人はナーガ族と同じ蛇信仰をもっていましたが、ヒッタイト人に征服され

      ウガリットでのフルリ人は天候神ダゴンと収穫神バールを崇拝しています。

      これはフルリ人の神が蛇神から征服者アーリア人の牛神に変わったことを表します。

      フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで

      妻のことを【妹】と言っていて、古代倭人も妻を呼ぶのに【吾妹わぎも】と言いましたので

      同習俗、同種族とされる理由になっています。フルリ人は【旧約聖書】で、ホリ人として登場します。

    • 308名無し2019/01/27(Sun) 01:17:45ID:EzMzk0MTU(51/53)NG報告

      >>フルリ語は日本語と似ているとされていますが、フルリ人はシュメール人と同族だったようで


      フルリ語(英 Hurrian)は紀元前2300年ごろから紀元前1000年ごろまでメソポタミアに暮らし、ミタンニ王国を築いたフルリ人 の言語。

      語族的にウラルトゥ語と近いと考えられるため、二つをまとめてフルリ・ウラルトゥ語族と呼ぶこともある。フルリ・ウラルトゥ語族が孤立的であるのか他の語族と系統関係を持つのかは未だに明らかではなく、例えば北東コーカサス語族(ナフ・ダゲスタン語族)との関係が議論されたがはっきりしていない。文法的な特色の中で最も興味深いのは、能格言語であること、そして文が名詞系の鎖と動詞系の鎖による連繋構造を持っている、つまりシュメール語、トルコ語や日本語などと同様な膠着語である。

      現在知られているフルリ語の資料の大半は人名や地名だが、トルコのボアズキョイから出土したヒッタイト語とのバイリンガルの粘土板によって、不完全ではあるが読解された。またエジプトのアマルナ書簡等から発見された楔形文字文書によれば、人名・神名・馬術用語や社会用語にはサンスクリットに近い単語が見られる。

      現在知られている最古の歌はウガリット遺跡から発掘されたもので、歌詞はフルリ語で書かれている。

    • 309名無し2019/01/27(Sun) 09:03:43ID:EzNDQ4ODg(1/1)NG報告

      それで、それの何が問題?

    • 310名無し2019/01/27(Sun) 10:03:40ID:Y4MDI2MTc(11/11)NG報告

      >>297
      両親共に江戸まで遡れる農民の出で、生まれ育った場所は徳川の方が縁が深いです。
      どちらかに特別思い入れがあるわけではありません。
      史書を信じてないなら所々引用しない方が良いですよ。
      説得力が無いです。

      自分の最終的な結論は>>296 です。
      後はどうぞお好きに自説を主張してください。

    • 311名無し2019/01/27(Sun) 13:03:02ID:Q3ODExNzY(2/2)NG報告

      思い出したんだが、そういや日本にネイティブの白人が住んでいるぞ
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%A7%E7%B1%B3%E7%B3%BB%E5%B3%B6%E6%B0%91
      https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E6%96%BD%E6%94%BF%E6%A8%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%B0%8F%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E8%AB%B8%E5%B3%B6
      たまに10年に1回ぐらい週刊誌とかで記事を見るね

      これはトンデモ記事っぽいなあ
      https://matome.naver.jp/odai/2147004346160978201

    • 312名無し2019/01/30(Wed) 23:34:40ID:IwNTg4NTA(52/53)NG報告

      仁徳天皇が白人だという証拠は
      天皇陵からローマのガラス杯が出土した

      鉄製の鎧もアレキサンダー大王の家臣たちが着ていた服だった
      (阿倍氏=任那 金氏)=任那は韓半島ではなくインド人スリランカ 倭王で白人アーリア族族,
      倭はドラビダ族黒人,黒潮乱流に乗って韓半島と列島移住
      その当時インド人日本卑弥呼女王と 魏王朝の 曹操,新羅の 味鄒泥師今は
      親戚, インド人スリランカの 倭は 小魏と記録!
      15代 応神天皇=阿倍誉田362-393(270-310)から
      16代 仁徳天皇=阿倍大雀393-427(313-399)
      25代 武烈天皇=阿倍若雀492-509(498-506)まで

      仁徳天皇陵古墳で発見されたもの
      1.後円部の石棺
       堺のことを書いた江戸時代の「全堺詳志」宝暦7年(1757年)刊に後円部の頂上に「石ノ唐櫃」のあることが記され、石のふたのサイズが、長さ1丈5寸(3メートル18センチ)、幅5尺5寸(1メートル67センチ)、厚さ8寸(24センチメートル)であるとされています。重さはわかりませんが、石材が凝灰岩として比重計算すると2から3トンはあると思われます。

      2.前方部の石室と石棺
       明治5年(1872年)に前方部の前面の斜面で発見された石室と石棺を、描いています。絵図には、石室の長さは東西方向におよそ1丈2から3尺(3.9メートル)、幅が南北方向におよそ8尺(2.4メートル)あまりで、20から30センチメートル程の丸石(自然石)を積上げて造られ、大石3枚で覆っていたと記されています。石室の中に納められていた石棺は蓋の大きさが幅4.8尺(1.45メートル)、長さ8から9尺(2.4から2.7メートル)、高さは3尺(0.9メートル)で、石棺の全体の高さは推定で5尺3寸(1.6メートル)程とみられ、石材が凝灰岩として比重計算すると10から15トン近くはあると思われます。石棺は、蓋石が丸く盛り上がっていて亀の甲羅のようだと記されています。また石棺を据える時に縄を掛けた縄掛け突起が径1尺4寸(42センチメートル)と大きく、前面に朱が塗られているのが特徴です。

      3.前方部の石室と石棺の間で発見されたもの
      ガラス碗と皿(復元)
       明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間には甲冑、ガラスの杯、太刀金具、鉄刀20口(本)あまりがあったと記されています。

    • 313名無し2019/01/30(Wed) 23:36:04ID:IwNTg4NTA(53/53)NG報告

      仁徳天皇が白人だという証拠は

      4.前方部の石室と石棺の間で発見された甲冑
       明治5年(1872年)に発見された石室と石棺の間にあった副葬品のうち、甲冑については詳細な絵図が残されています。それによると、細長く延ばした銅板を組み合わせて鋲で留めた横矧板鋲留短甲(よこはぎいたびょうどめたんこう)と、長方形の銅製小札を組み合わせて鋲で留め、透彫のある庇や歩揺(ほよう)を付ける小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)がセットで描かれています。大きさは横矧板鋲留短甲が背の高さ1尺5寸(45.5センチメートル)、前部が1尺1寸2分(34センチメートル)、幅が1尺6寸(49.5センチメートル)あまりで総体銅鍍金と記されています。小札鋲留眉庇付冑は前後が6寸7分(20.3センチメートル)で、同じく総体銅鍍金と記されています。銅に金メッキしたきらびやかな甲冑は、大王の持ち物にふさわしいものです。

    • 314先人間後知識2019/01/31(Thu) 22:50:48ID:A4NTE0MTQ(1/3)NG報告

      甲冑表

    • 315先人間後知識2019/01/31(Thu) 22:51:26ID:A4NTE0MTQ(2/3)NG報告

      甲冑裏

    • 316先人間後知識2019/01/31(Thu) 22:54:58ID:A4NTE0MTQ(3/3)NG報告

      2種類甲冑

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