>>1
秀吉軍のおかげで唐辛子が半島に伝来大阪では「太閤さん」と呼ぶ
韓国の時と時空を超越した主張(言いがかり)によって超時空太閤HIDEYOSIが誕生した。
韓国は南北分断を超時空太閤HIDEYOSIのせいにしています。秀吉の何が凄いって言うとな、信長が本能寺で討たれた時に「寄騎(与力)を全部従えて」敵討ちをしたんだよ。
寄騎ってのは信長の部下で秀吉の部下じゃないんだ。
あの瞬間、秀吉の判断で動かせる兵はおそらく直属の部下や一門だけで1万人ぐらいだと思う、残りの2万は寄騎。
実際に柴田、滝川、丹羽、明智、信長の実子である信孝、信雄ですらも彼等の寄騎は誰も味方しなかった。
一番びっくりしたのは明智光秀だろうね。煽りスレ
釣られました>>1
朝鮮人を殲滅出来なかったので×木下さん一番の出世者。
>>9
木下さんだけど朴さんじゃないからねあと5年生きてたら明まで行けたかもね、第2次朝鮮征伐ではかなりの戦果を出していた
交通インフラの基礎(草履)を半島にもたらしたり、
上司の足裏をカプサイシンで癒したり。
記憶曖昧だが印象に残ってるのはそんなとこ。
イイやつだよ。田植えの仕方もこの時、教えてやったんだよな。太閤さん 朝鮮人民の父。
14よ。徳川家康は陰気なやつだぜ。金をため込むのが唯一の趣味だ。太閤さんみたいにパーっと使わんと。やっぱり、刀狩り !!
秀吉さんがやっていなかったら、
明治の廃刀令もなかったかも・・・。
「武器は危険なモノ、持ってはいけないモノ」
という意識が醸成されなければ、
下手をすると、日本もアメリカさんのような
恐ろしい国になっていたかも・・・。>>18
すげぇ怪電波が飛んでるな、北朝鮮の乱数放送ラジオなみw>>18 俺は徳川恨んでないぞ。
気持ち良くラリってる所になんだが、入院を勧める。>>12
しかしながら三英傑の中では一番残虐だったりする、史実のイメージに近いのは、やはり真田丸の小日向文世だろうと思う。>>12
晩年はそれなりに陰惨だよ。【秀吉がやった政策】
・武器の没収をやって、農民の反乱を抑えて治安を上げた。
・全国の農地測量をやって、旧支配体制を完全に廃止。収穫から税収を正確に把握した。
・全国の升の規格を統一させて、誤差を少なくした。
・身分を固定化させて、戦争人員と生産人員を正確に把握した。
・領主同士の戦争を禁止した。
・主要領主&領主の家族を、自分の居城の近くに住まわせて、自国領で反抗出来なくした。
・日本人を海外に奴隷売買していたキリスト教の活動を制限した。
・巨大城の構築時には、地方領主に手伝わせて財力を削ぎ、周辺湿地の水運&水路開発は、商人にやらせた(有名なのが道頓堀)。
・豊臣神社を作って神格化。
徳川家康以降の徳川政権は、この秀吉のやっていた政策を、さらに強化した政策をやっていたに過ぎない。
つまり徳川政権の主要政策には独創性がなかった。
この他に徳川より優れていた政策には、
・朝鮮&フィリピンの壺等、多種多様な器に付加価値を付けて、領土報酬以上の価値にした(徳川時代になると、奇抜な形状の陶器は支配者として相応しくないと廃れる)。
・茶道を武士の教養に確立した。
・戦争は戦闘よりも、兵站と流通、工兵を重視していた。
・敵対勢力の降伏は、トップの切腹だけで解決という切腹スタイルの確立。
・領主による大規模なコスプレ大会&花見イベントの開催人柄と知恵だけで出世街道を登り詰めた男。
如何に戦国、如何に下克上と言えど、家柄の賤しい者が天下を取る等まさに夢物語。
同じ様に一介の浪人から「一国一城の主」になった有名な大名に北条早雲がいるが、秀吉の天下を決定付けた戦い「北条征伐」の相手が、早雲から数えて五代目の当主が相手だったと言うのも面白い。
新興勢力だった北条も、五代目ともなると一族郎党の固い結束を誇っていた。
あと、羽柴の名を名乗っていたのも面白い。
織田家の家臣No.1柴田の「柴」とNo.2丹羽の「羽」の字を貰い、羽柴。これ程の気遣いをしていた事実に驚きを隠せない。>>5
あれ、信長が爆死してなくて死体が残っていればまた違った展開になっていただろうね。
死体が残ってないから信長はまだ生きているんじゃないかって猜疑心が生まれて明智光秀に味方する勢力がいなくなってしまった。>>26
尼子経久は、一度城を失って没落してから再び版図を拡げた。その為に、自分の求心力の維持に強迫観念があって、家来が経久の物を褒めると、全部それを気前良く与えてた。
北条は元々京都から派遣された伊勢氏であり、後から北条を名乗った。身分の後ろめたさから、農民支配には求心力を得ようと寛大な政策をしていた。
(上杉謙信は、北条を“伊勢氏”と呼び、北条も、上杉を“長尾氏”と呼び続けた。お互い【関東の支配者として正当性がない】と意思表示)
長尾景虎(上杉謙信)も、上杉家を追い出した家系で、さらに兄を追い出したという後ろめたさがあったが、足利政権に越後守護を任じてもらって、上杉家の養子になったので、その後は足利政権の権威の確立に尽力する運命が決まった。
武田信玄は、元々父親に疎まれてたが、家来の協力でクーデターを成功させ父親を追放したので、その後の戦略方針は、常に家来との合議制になり、トップダウンの強権が取れなくなった(勝頼時代にその構造欠陥から家来との軋轢と敗戦、トップダウンに改革するも時間切れ)。
秀吉も、身分の後ろめたさから、藤原氏の養子になったり、豊臣の名を家来に与えてまくったり、養女を家来に与えて血縁関係にしたり、人心の把握に尽力している。
後ろめたさから来るその後の行動と制約は、いろんな領主が持ってる。
【羽柴】は、実は“柴田&丹羽の2人の働きが俺1人で出来る”という裏設定もある(笑)>>27
徳川家康の生き方を篤実、堅実と言うのだ。
俺は戦国三英傑の中で最も尊敬している。
まぁ見栄っ張りの朝鮮人には理解できない概念だろうな。>>29
スレには関係ない話で戸惑いがあるけど、面白い話をありがとうw
尼子さんの話は家来の方が「迂闊に誉められない」と、気を使ってるのが面白いよね。庭の木なら大丈夫だろうと枝振りの見事さを誉めたら、次の日には木が抜かれてたんだっけ?w
あと、上杉謙信は実は僕の推しメンNo.1なので、逸話が聞けて嬉しかったです。あくまでも伊勢と呼び続けた何て謙信公は意地っ張りですねw
ただ、伊勢姓の方が格式が高そうな気がしたりして、当時の感じ方はどうだったんだろうと新たな疑問もw>>13
右府様織田信長の考えを継いだのではないのか?朝鮮出兵は、信長のプラン
つーか、インドまで征服する気だったw
無謀という以前に、その発想のスケールのでかさに驚く
しかも、「信長だったらひょっとしたら」と
思わせる天才性を持ってる
やっぱり、日本史上でも図抜けた天才だったと思う
秀吉は、その偉大な師匠の夢を、受け継いで実行したんだ
弟子としては当然の行動だろう
ただし、当初の信長の計画より、時間も労力も大幅にロスしてしまった
信長軍同士で、後継者争いをしなきゃならなかったから
信長が、あと二十年生きてたら、どうなったのかな今、気づいた
日本が大陸方面に進出しようとすると、何故失敗するか
通り道に、朝鮮という、ペンペン草も生えない不毛の地があるから
兵糧の補充もできないし、あまりに不潔で貧しくて
兵士がやる気を無くしてしまう
半島に関わるのは、多大なエネルギーのロス
日本人が歴史から学ぶべきはそこだね>>29
全部一応“後ろめたさ(脅迫観念)”という動機が、その後の武将達の行動を決めたという見方ですよ。
秀吉は子供がいない分だけ、養女貰って他家に嫁がせる姻戚関係や、豊臣の名を与えまくって養子関係、等で政権基盤を固めようとした。ねねの所で親戚&小飼い武将を養成して結束作り(加藤、福島、黒田、石田、片桐…等々)。
徳川の石川、毛利の小早川、島津の伊集院、上杉の直江、伊達の片倉等の、他家のNo.2を引き入れるスカウトも欠かせない。秀吉自身が基盤に乏しい事を切実に自覚していたからでしょう。
家康が、秀吉死後に最初に破った事が蜂須賀や伊達等との姻戚関係(その後も加藤等)だから、家康のやってた基盤作りは、秀吉の姻戚政策を踏襲していたとも言える。家康の場合は、子沢山だったので、秀吉ほど小飼の武将の養成しないといけない切迫感はないけど。
真田信之の処遇は大変で、第一次上田合戦後に、本多忠勝の娘を家康の養女にしてから信之と姻戚関係を結んでたので(真田信之と徳川家の結婚という形式)、第二次上田合戦の戦後処理で、真田家を完全に潰せなかった。大恥かいた秀忠も不満タラタラ。
そして生き延びた幸村が家康を苦しめるという。サナダムシという寄生虫の由来は、真田紐(九度山時に昌幸・幸村が紐を作ってたという逸話)に似てるから名付けられたのと、家康&秀忠が寄生虫に苦しんでた&真田家に苦しめられた事もかけてるのが命名の理由でしょうね。
北条と言えば、かつての鎌倉幕府時代の執権家だから。その末裔の養子になって北条を名乗ったんだから、関東武者からしてみれば、“得体の知れないインチキ北条”が出てきたと思ったでしょうね。だからこそ、北条も他家より善政を敷いていた。>>8
戦国のもののふを「浪費」するのが目的だったんだよ
大名に論功行賞の件や、浪人の反乱が怖ろしいしな
加藤清正や福島正則だって治世にはいらない存在- 37名無し2018/12/21(Fri) 21:45:14(1/1)
このレスは削除されています
>>38
衆道は、武士の嗜み。秀吉は農家出身だから、そういう価値観を元から持って無い。
秀吉が出世していくうちに、逆に秀吉に衆道の嗜みがない事を心配して、美少年の小姓を用意すると、
秀吉は、はじめてその美少年の小姓に興味が湧いたのかと思いきや、その小姓に近づいて、
「お前~綺麗な顔立ちだね。お前に姉妹はいないの?」と、女兄弟の有無を聞いたという。
戦国知識がマニアックな人は、秀吉の指が6本という多指症だった事は知ってるけど、
それに加えて、子供が淀しか産まれてない(不倫の可能性)という点からしても、
(※他に南殿という側室が、秀吉が若い頃に産んだらしいが夭折)
閉鎖的な農村で、血縁関係が濃い母親から産まれた事を連想させるね。
秀吉が産まれた中村郷は、昔は海べたで、洪水にもなれば、孤立しやすいような立地だったとか。
多指症は、東アジア~東南アジアの農耕民なら比較的珍しい発生ではない。
日本では、橋が無かった等の陸の孤島のような閉鎖的な村だと、奇形を胎堕する為の専用の場所があった。>>38
衆道は、合戦中に〆〆しちゃうと、生理学的に体力が低下するので、体力が低下すると戦闘に負ける恐れがあるので、“戦争期間に女性に近づけてはいけない”という経験則から来てるんだろう。でも何故か、男となら大丈夫と。
ローマ軍の最強部隊もホモ集団だったから(確かイギリスの近代軍も)、男同士の結束効果もあるにはあったのかな。
徳川最強部隊の井伊直政も小姓時代に、同僚に襲われそうになったとか。家康はお気に入り過ぎて、館の中に直政と会う為の専用家を建てたり。
西日本の大勢力の文化人の大内義隆は、その手のムフフが大好きで、まだ戦国戦乱が各地で本格化する前には、周辺国の大名の息子を小姓として呼び寄せ、何人もムフフしてる。
龍造寺隆信、毛利隆元(元就の長男)、小早川隆景(元就の三男)、等。お気に入りは『隆』の字を与えてる。ただし、毛利元就の次男、吉川元春は好みでは無かったらしく『隆』は与えていない。
毛むくじゃらの龍造寺隆信も、小太り青髭の吉川元春も肖像画から青年時代を連想すると、そうそう変わらないオッサンタイプに思えるんだが、その差が分からん。
小早川隆景は、それが忘れられられずに女性に興味が無かったとか。
秀吉は、毛利家を乗っ取ろうとして、秀吉の甥っ子を、毛利輝元の養子にしようとしたが、小早川隆景には子供が無かったので、率先して貰って、その子が、小早川秀秋(関ヶ原で西軍を裏切った奴)になる。>>33
大明国討ち入り、朝鮮出兵はスペインへの牽制だよ。コエリョが無敵艦隊を背景にして物言いをしたことで秀吉がブチ切れしている。>>41
小早川隆景にも小早川秀秋にも、実子はいないので断絶してますよ。
調べてみると、本家筋の小早川家は1879(明治12)年になってから再興させてますね。
公爵の毛利元徳の三男・三郎が小早川家を再興した後、三郎が死去して、四男の四郎が小早川家を継ぎ男爵家に。四郎も子どもがいなかったので、また毛利家から養子を取ったという経緯です。本家筋の小早川家ならば、明治以降の家だから掘られてはないでしょう。
江戸時代になると、戦争自体が無くなるので組織論としてやる必要がなく、やってた殿様も全体の1割以下。>>1
第三次朝鮮出兵行きますか?
太閤殿下を称えるスレ
44
ツイートLINEお気に入り
403