「韓国人の身長って本当に低いんですか?
女友達が韓国に行ったら背が低くてみすぼらしく見
える人が多かったそうです…」>>1チマチョゴリは、600年ぐらい前の朝鮮王朝からだろう。高麗までは、唐風装束だろう
昔は糞尿にまみれたの着てたやん
>>1
いつになったらテコンドーは韓服の道着を使うの?>>63
獣皮?皮革文化弱くない?日本と同じで>>18
朝鮮の衣服は元々が染めていない麻の色。白くするには、結構な手間がかかったから、白い布地の服を着ていたのは、時代がかなり下ってから。
そして、王室は、明や琉球から染料で着色された衣服を購入していた。だから、韓服のデザインというものは、朝鮮で生まれたものではなくて、外国の衣服の文化がそのまま持ち込まれたものとして始まった。
時代が進むと布地を購入して、朝鮮で誂えるようになった。そこからローカライズした韓服のデザインの変遷が始まる。それでも仕立ての技術が未発達だったから、外国から購入する衣服は無くならない。デザインは外国からの影響を受け続けることになる。
両班たちのうちで豊かになる者たちがごく一部に生まれ始めると、朝鮮王族と同じような服を着るものが出てくる。中には王族の衣服よりも手の込んだ刺繍を入れる者も現れる。これは、朝鮮王と王族の権威を損ねるものとして絶対に排除して行かねばならない。そこで、朝鮮王は、王族以外のものは、着色された衣服を着てはいけない、という御触れを出し、豪華な衣服を排除させる。
こうなると、無地の衣服しか着ることのできない両班たちは、その服を白くすることを競うようになり、漂白処理を施された白い衣服が両班層に普及し始める。それが長い間をかけて、奴隷層以外の常人の衣服にまで広がっていく。
韓服というのは、あくまでも、朝鮮王族という狭い範囲内で着られた衣服なのであって、着ていた人数もごくごく僅かであったから、様々なバリエーションというものは生まれにくい。文化としての広がりは、限定されてしまっていた。
これが、李氏朝鮮時代末期においても、同じような白い服を着た両班の写真しか残っていなかった理由だ。
だから、日本が朝鮮を併合して、日本人の庶民が大勢移住してきた時に、誰しもが模様の施された着物を着ているのを見て、度肝を抜かされてしまった、というわけだ。
代々、着色されて柄の入った衣服を着ている者は、王族のとても高貴なお方だ、という認識が染みついていたので、朝鮮の両班は、日本人の庶民の小さな子供たちにまで、深々とお辞儀をしてしまう習慣が、中々抜けなかったと言う。>>72
そんな歴史があるなら、総督府の色服推奨をなんで反対したんだろうね?>>72
こうして考えてみると、韓服のデザインというのは、明朝及び清朝の東北部(主に満州地域)と琉球王国の衣服文化の影響を大きく受けたもの、と捉えることができる。
九州の方が琉球よりも遥かに朝鮮半島に近いのであるから、日本の着物の影響を受けていても良さそうなものだが、九州地域の経済は、朝鮮半島に依存することなく発展しており、朝鮮との交易には熱心では無かった。交易に熱心だった対馬においては、日本の衣服文化が浸透しており、これは朝鮮王室が求める中華衣服とは大きく異なっていたため、対馬からの影響はさほど感じられない。交易に直接関与していた宗氏において、相互の影響が残っていたくらいではないか。
一方、琉球では琉球王朝の財源として、中国や朝鮮との交易がとても重要なものであったため、朝鮮王室が崇める中華文化に合わせた衣服を作ることで大きな収入を得ていた。
このため、衣服文化においては、日本本土よりも、中華文化の影響を強く受けることとなった。
この時代、日本では全国で普及していた天然染色(草染め)が朝鮮半島で全くと言っていいほど浸透しなかったことを考えると、人の行き来自体が、交易を除いては殆ど無かったことが伺われる。
既に、朝鮮通信使を通して、朝鮮は文明の発展していない野蛮な国との認識が日本国内で広く知られていたことで、西日本の大名が朝鮮との交易にあまり関心の無かったことが、交易権を対馬領主が握ることができた大きな要因であったろう。
韓服の源流は、満州族の中華衣服であり、韓服の起源は満族衣装へのローカルアレンジに始まるというのは、実質的に見て正しい、と言える。そして満州族の衣装もまた、明代の漢民族の衣装から影響を受けた。
日本では、大陸の衣服文化の影響を受けていたのは、ほぼ飛鳥時代~奈良時代の初めまでで、平安時代以降は独自の発展を遂げた、と見なせるのではないか。例えば、日本では、十二単(じゅうにひとえ)という衣装が平安時代の後期に生まれた。
しかしこれは、あくまでも公家(宮廷に仕える貴族)の間での正装として広まったものであって、一般の庶民の衣服文化ではない。
韓国における韓服に関する説明というのは、この十二単のような貴族の間に広まっただけのごく限定された衣服文化をあたかも両班並びに常人の衣服文化であったかのように説明しているものが多い。
一方、和服、着物という衣装文化は、江戸時代を通じて庶民の間にまで広まった衣服文化なのであり、朝鮮における韓服とは、全く意味合いが異なる。
拡大解釈をして歪めてしまわないと、日本の衣服文化に匹敵するようなものが無かった、というのが朝鮮の衣服文化だと言える。>>56
韓国人の「こうだったらいいのに」という願望を読んだところで、韓国の時代考証など糞食らえ、の歴史ドラマを観るのと何ら変わらない。
残念ながら、ハングルで韓服の全体像を把握することは、不可能に近い。
むしろ、調べるなら、中国の資料を探した方が良い。>>71
何言ってるか分からんな。中共国旗。漢服なるものは無理やり復帰させようとしても復権してないだろ。着物も廃れたまんまだけど>>66
証拠は?
朝鮮がそうであったことは、大韓帝国時代に朝鮮に行ったヨーロッパ人たちが全員書いている。
特に、日本と朝鮮の両方に行って、旅行記を残している英国人のイザベラ・バードは、克明に描いている。
日本人が入浴の習慣を持ち、清潔であったことも書かれている。
それに比べ、朝鮮はどこに行っても道は糞尿まみれで臭かったと書かれている。
日本に統治されるまで朝鮮には、トイレなど無かったことも知らないのではないか?>>75
お辞儀っていうか土下座に近いお辞儀が日常だよ。
それに伝統というより奴隷服として白丁と差別してたようだけど、ただ「日帝に逆らう俺偉い」っていう感覚かな?>>76まぁ、そのとおりかなぁ、中世日本の、束帯、十二単は、公家、上級武士しか着ない。近世に、小袖が発達して、今の着物になった。朝鮮の装束も、中世日本の装束と同じようなものかなぁ
>>83朝鮮装束が正式名称です
- 85名無し2023/10/19(Thu) 12:36:44(1/3)
>>83
語尾が違うのはなぜかね。
韓(ハン)グルも北では朝鮮グルらしいが>>85
日本人が〜と言うが事実では無かったとは言わないのね。日本の庶民もこのころは裸だったわけで別に下等もヘチマもないよ。むしろ下等なのは朝鮮人全体>>85
ちゃんと後継ぎを生んだ朝鮮女として朝鮮人は誇りにしてた風俗なのにね。www>>85
〉この写真はフィッシャーではなく、1900年代初期に日本人が演出した写真である可能性が高い。1907年、京城写真館・日韓書房が出した『韓国風俗風景写真帖』にこの写真が含まれているだけでなく、この写真の「モデル」と推定される女性が、その写真帖に胸を出したまま両班や庶民の服装などをして何回も登場する
その真偽はともかく、乳出しチョゴリ自体が嘘だとも言わず、とにかく日本の陰謀に仕立てて押し切るつもりだろうね。慰安婦詐欺と同じやり口だな歴史を隠蔽するチョン
乳出とるやんけw
今の韓国人にとって、「乳出しチョゴリ」は未開の象徴の様に感じるんだろうな。
大丈夫。気にするな。
今でも未開だから(笑)- 94名無し2023/10/19(Thu) 14:16:42(1/1)
このレスは削除されています
>>85
えーっと。
じゃあ、あの乞食のような当時のチチ出しチョゴリの写真ならいいのか?>>85
ドイツの博物館が乳出しチョゴリの写真を展示…韓国人「それは日本が韓国のイメージを下げるために演出したもの」
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=2LFvkWwamV0>>96
ほかの残っている写真と比較すると上等な服を着ているように見えるけど気のせいか?
風景写真に残っているチョゴリってぼろ布みたいなのばかりだろ>>100
朝鮮半島は湿度が低めだし高温じゃないし墓に埋めてあれば普通に残る
色柄も王妃なら中華から染め物輸入してたしきわめて普通の範囲だな
当時の明の服や日本の服も貴族階級なら同じような色合いのが大量にあるから比較してみな高麗末
- 107名無し2023/12/31(Sun) 16:48:30(1/2)
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- 108名無し2023/12/31(Sun) 16:49:20(2/2)
このレスは削除されています
ここから韓国同胞の嘘が始まったのかもしれない・・・・・・・可哀そうな方々ですね。
今の韓国人は本当に白衣を恥じてるみたいね。時代劇とかでも排除されてる。その内乳出しでなく白衣も日本のせいになるのかね
古いチマチョゴリについて
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