>>24
戦争中だし、そりゃ辛いだろ。
日本も朝鮮も差別なく辛かったんだよ。할아버지는 일본태생이며 2차대전 당시 미성년자였으므로 당연히 전쟁에 참여하지 못했음.
한국에 귀환해서는 6.25에 참전하고 다행히도 살아서 돌아오셨다.
여기서부터가 파란만장한데, 할아버지는 戰後 미군측에 호감을 샀기 때문에 미군부대에 근무하였고,
미군은 열심히 일하는 할아버지에게 부대의 잉여물자를 가져가도록 허락해주었다.
하지만 마을의 불량한 건달들에게 폭행을 당하고 트럭째로 물자를 모조리 빼앗겼다고 한다.
온전히 팔았으면 지역에서 손꼽히는 부자가 되었을지도 모른다고 한다.>>28
すごい話だ
小説の小話に使えそう当時8歳だった祖母は近所に住むダ行が発音できない朝鮮人を馬鹿にし、石投げて遊んでたらしい。
一方でアリランを習ったと言って口ずさむこともあった。うちは祖母が朝鮮人を馬鹿にしているような言葉はついぞ聞かなかった
朝鮮から来た人が漁師をしていた、売り掛け金を集金に行ったら断られたぐらいか…
ただし年を取ってから繁華街のフィリピン女性の集団を見て、よそもんが…、と言ってたので
腹にはいろいろあったかもしれんね子供の頃は興味なかったし挺身隊で工場に通ってた大叔母くらいしか話を聞ける親戚は居ないけど、大叔母は挺身隊と慰安婦を混同する韓国の挺対協の存在を知って怒ってたな
祖母は日本軍に強制連行されて従軍慰安婦にさせられました。
今でも当時の事を話してくれますが、強制連行は紛れもない事実です。
祖母は戦中・戦後の当時のそのような性奴隷にされた過去を恥じ、そのことを理由に通常認められない本名の改名まで裁判所で認められて以前とは別の名前での生活を送っていたそうです。祖母の強制連行の詳しい内容は伏せますが、強制連行20万人などの流布されているようなことが本当にあったかは分かりませんが、当時には紛れもなく日本軍による強制連行はありました。それも日本人に対してのものです。日本はそのような過去を忘れてはいけないと思います。しっかりと後世に伝え、教訓とする事が我々戦後世代の責任だと思いますね祖父が南京で3年ほど軍医をしていた。
終戦時に逃げ遅れて国民党軍の捕虜になった。2年間中国人の治療に当たらされた後で帰国を許可された。
帰国後に父親が産まれた。
帰国出来ていなければ、俺は産まれていなかった事になる。
帰国時に国民党政府から貰った感謝状が残っている。うちの爺さん戦争に行くため九州の軍港から大陸へ
途中、船が故障して死亡者多数
なんとか救助され大陸に到着する
功績を上げてないことに焦りを感じ始める
よく見れば怪しい中国人が大量に街を歩いてることに気づく
中国人を捕縛して上官に報告する
上官からとても怒られ、飯抜きの刑になる
戦地へ移動
伝染病が流行しており、コレラと脚気を併発する
野戦病院に放り込まれ、放置される
だが、なぜか意外と元気で他の患者の面倒を見始める
喉の渇きを訴える人が多かったので、井戸まで這いつくばって水汲みを始める
奮闘のかいなく死亡者続出
なんとか救助され九州の海軍病院に入院する
入院中、戦争で死ぬかと思ったと実家へ手紙を書く
退院して、無事に故郷へ帰りました>>36
間違えた。笑
感謝はないけど、尊敬します。>>42
ここまででは、君の祖母の話が一番興味深いところだがな。
無理に語れとは言わないが。赤いキムチを見たうちのばあちゃんは、「これなんて食べ物?」って言ってた。
そんなうちのばあちゃんは京城(現ソウル)にいた人である。当時朝鮮人の家族と親しく、晩御飯のおかずの交換とか、調味料の貸し借りも頻繁で、朝鮮人が差別されたなんて、「一体なんのことなのかしら」と言ってた。もう故人だけど、韓国政府の主張を観て、なんだか別の国の出来事のように思っていたらしいよ。キムチも辛くないものが多かったらしい。
それと…引き揚げで戦渦の中、朝鮮人の家族が匿ってくれたおかげで、内地に帰国できた。韓国人の主張は、戦争の原体験としてありえない虚構で塗られている。被害者になりたがり過ぎて、主張に恣意的な解釈が入った。だから韓国人の主張する悪行は、日本人的なものでなく、朝鮮人が発想する悪行でしかない。軍規の厳しい日本軍の兵士が行なえるものではない。
実際、朝鮮人と日本軍の兵士の仲も決して悪いものではなかったと言っていた。
だがばあちゃんの弟は違う。京城生まれだが帰国して物心が付き、戦争体験者に自慢話の様に軍記自慢を聞かされ、戦争の異常性を忌み嫌ったおかげで、朝日新聞購読者のままだ。戦後の左派勢力による洗脳にすっかり染まり、日本人が悪い事をしたの一点張り。直接経験した者が黙り込んでいるのに、聞きかじった連中が日本軍を批判した。
だから戦地経験のある世代の人は、若い者に語り継ぐことをしなかったんだ。代わりに多くの手記を残した辺りは、実に日本人らしいなとは思う。個人個人の手記が資料となっているのはまさにそれ。きな臭くなる前の話
すでに経済成長を迎え
流石に建物なんかは違うが
和服、洋服入り乱れる行事にゆくと
今と昔は変わらないと聞いた
そして
戦後復興後と思っていた写真が
じつは戦前の写真で
事実だと認識したときの驚きはなんとも
戦前、大きかった経済
戦後灰になり、また成長し大きくなった経済
なんか
日本人に生まれた幸福と感謝を強く覚えた記憶がある>>27
아버지는 57세이다. 할아버지의 나이는 정확히 알지 못하지만, 생각해보니 어렸을적 80대였단 소리를 들었으니 지금은 90이 넘으셨을지도..父は学徒出陣の世代だが、
工学部の学生だったので徴兵されなかった。
戦争が続いていたら、
風立ちぬの主人公のように戦闘機をつくっていたかもしれない。
そういう勉強をしていた。
大学の図書館で好きな本を好きなだけ読むことができたから、
ヨーロッパ文学に夢中になった。
食べ物がないから 腹がすくだけで、大学生活に戦争なんて関係ない。
ヨーロッパに死ぬほど憧れて 行きたくて行きたくてしょうがなかったと言ってたよ。満州生まれの祖父から聞いた話。身バレ防止有り。
祖父も幼くて詳細は覚えておらず、曽祖母も思い出したくなかったようなので詳しくは聞いていない。
満州の生活は戦時中はみんな優しかったそうだが、終戦後はひどい目に合わされたらしい。
兄が4人、姉が3人いたそうだが、引き上げの時に祖父以外全員亡くなっている。
3人は病死や餓死で、4人は朝鮮人か中国人に襲われて殺されたそうだ。
襲われないように姉や母は男装していたらしい。
が、襲われた次女の治療の時に「男は近づくな!」みたいなことを言われたそうなので多分…。
その姉はそのまま亡くなったようだ。
曽祖母は当時は珍しい資格持ちだったのもあり、なんとか殺されずに済んだそうだ。
死んでいく我が子になにもできなかったのを後悔していた。友人の祖父の話。
当時、朝鮮半島で医者をしていたらしいです。
日本人、韓国人分け隔てなく、同様に患者を診ていたそうです。
夜中に韓国人が幼児を連れて駆け込んでくることもよくあったそうです。
韓国人の家庭に診療に行ったりもしていたそうです。
お金が払えないと言われると、無料で治療をし
韓国人から感謝されていたそうです。>>15
そんなわけないだろ!
後進国の韓国とは違う。
日本は、韓国よりずっと精神的に上なのよ。
後進国韓国は余所者は差別するのが当たり前。
同じ民族でも敵だと思ったら投石、唾吐きは当たり前。日本は違います。母方の祖父から、
実家が大地主だったので、終戦直後に、食料を求めて東京方面から買い出し来た人がいたとか、
GHQの命令で行われた農地解放(小作人に農地を分ける)が原因で、
実家の農地をかなり取られて大変だったと聞いた。
(その結果、土地が細分化され非効率的となり、祖父の代で農業やめた。)父が幼少の頃終戦をむかえました。
映画『蛍の墓』を見せて感想を聞くと
あの当時
大きな駅で
のたれ死ぬ少年は沢山いた。
それであの映画がどうしたの?位で
全く反応なし。
逆に不気味に感じ、戦争は異常な日常が当たり前で
恐怖に感じました。明治38年生まれの祖母は講道館の段位持ちの祖父と結婚して警察官夫人として赴任先の朝鮮で暮らした時が人生の幸福の絶頂だったようだ。
新義州辺り極寒で洗い髪が凍りつく程であり、匪賊が出没するので極寒の中強い酒を呷りながら治安出動を繰り返した祖父が脳溢血で廃人同様になって帰国したと言っていた。
両藩が威張っていて鼻持ちならかったとか、行商人が日本人に威張られて、優しかった祖母によく泣き付いたとか、金持ちの鮮人宅で振舞われる朝鮮漬けは色々な具と共に海苔巻きの様に巻いて美味であったと言う。
それでも他家の板塀を剥がして燃料にする様な所であったと驚いていたよ。
両親ともに昭和4年生まれだが、父は大阪の逓信講習所を出て神戸に赴任した
その日が火垂るの墓の神戸昼間大空襲の日だった様で、危うく死ぬ処であったようだ。
母の地元に画家の伯父一家が疎開してきて、歯科医であった伯母が開業したので優雅な疎開生活であったとか、その伯父が戦後朝鮮人と組んで闇屋をしていたが、世の中が落ち着いた時に会社組織にすると言うので、調布市に家を構えて貰って画家に戻った。
その会社と言うのがロッテであったと言う。54訂正。
両藩→両班母方の祖父は中国戦線へ派兵。
国民党軍が展開してきたという情報で5人で斥候に出た時。
丘陵地を歩いていたら祖父の前(先頭)の兵が谷側に倒れこむ様に転がっていった。
その後、銃声が鳴った(つまり銃の玉は音速を超えてるんだ)仲間と岩陰に隠れて応射したけど頭を出して照準合わせて射撃できる状態じゃなかったらしい。
この時ばかりは死を覚悟したそうだ。
銃声が鳴り止んで先頭を歩いていた兵の下に行ったけど頭を撃ち抜かれて即死だった。
父は中学生。終戦前に学校に海軍が志願兵を募りに来た。
クラスメートは皆躊躇した。(敗戦濃厚だったしね)海軍士官さんは意気地なしと罵ったらしい。
それで級長だった父は志願した。
訓練は毎日カッター(手漕ぎの小型ボート)を漕いで厳しかったそうだ。
父は潜望鏡で目標物の方位と距離を測る事と水深を読み上げる訓練もしたそうだ。
今の様にデジタルじゃないから水深計は潜水艦の動きに合わせて見越して読み上げる事が必要だったみたい。
父は招集令状より先に大竹行きの切符が届いた。だけど間もなく終戦。
4週間前に大和ミュージアムに行った。そして2人乗りの特攻潜水艦があった事を知った。
小型潜水艦の操縦は飛行機に似ている。操縦士は予科練卒業生。そして後ろは潜望鏡と潜航した後の水深担当。
もし終戦が数ヶ月先だったら私はこの世に生まれていなかったのかもしれない。전부 다 읽었다.
우리 할머니,
어릴 때 집앞에서 어떤 남자들이 공장에서 일하자고 포섭하려고 하자 할머니가 할머니의 아버지와 할머니에게 그대로 말했는데 "어떤 놈이 그런 소리를 하냐!"라면서 엄청 화내면서 집밖으로 못나가게 했다.
그게 20대까지 이어졌고 할머니는 밖에 놀러다니지 못했다. 심지어 여자가 감히 무슨 영화관이냐면서 영화관도 갈 수 없게 막았다고 한다.他人にとっては日常生活のほうが小説物語より面白いのに本人にとっては異なる場合はあるね、逆も。戦時は民間人として現地に行ったこともあるが最前線は無い。アジアでの戦争や太平洋での昔話は各地で聞いたし韓国老人からも聞いた。しかし、特に溢れている情報と大差ない。昔の満州や朝鮮や米国や南米での話しも聞いた。韓国も日常の延長線上の平和や争いの面白い体験を文字や映像化したら面白いだろうな。ほぼ無いのがもったいない。江戸時代の無感情な記録も衝撃的に面白い日常が読み取れる、出版したりメディアに載ることも今後も無い地元地域の出来事だが面白い。
>>60
ようするに、うちは子売りをしなかった
逆に朝鮮人の親が子売りをしたのが、妓生文化の始まりであり、また統治時代の慰安婦の供給源だった
就職(売春)ブローカーが来て、発情して家出をしたバージョンが、イ・ヨンスの売春婦婆さんだな
男親にとってこの女(自分の娘のこと)は俺の所有物だという考えと、その価値観と相克する
娘に自由にセックスさせてやりたいという親心みたいなもの同時に存在するんだろうかね母方の祖父は病気で徴集を免れた。内心、病気も悪くないものだと思ったらしい
父方の祖母の弟は沖縄戦で死亡。生きていたら当時の話を聞いてみたかった。沖縄戦ってどんなだったのかな?本当にきいてみたかった韓国人にまず考えてほしいのは、韓国の直近の戦争は朝鮮戦争であるという事。
わざわざ近年の戦争を無視して、ひとつ前の戦争の事を語るかどうかと言うのを考えて下さい。
戦争はどうでしたかと聞いて、答えるとしたら近年の戦争の事でしょう。
近年に不幸があり、それを無視して前の不幸の事を語ると考えるはおかしい。近所に住んでた元帝国海軍軍人のお爺さんの話。
1945年8月初頭に朝鮮半島北部の港で乗船していた輸送船がソビエト空軍の空襲で沈没。
お爺さん、腕を負傷
軍の病院で終戦を迎える。軍病院では怪我が回復次第ソ連軍に引き渡され何処かへ連行(シベリア?)
お爺さん、軍医に明日ソ連軍に引き渡される事を教えて貰い夜間に数名で脱走。
朝鮮半島南部へ線路伝いに南下。途中、男装した女性多数見かける。ソ連兵、朝鮮人に強姦されない様に
偽装しているのだが、歩き方ですぐに見分けがついたと言っていた。
ソ連兵・朝鮮人に強姦後、殺害された女性・日本人難民の遺体を多数目撃。
半島南部の港で、避難してきた海軍軍人他、何名かの軍人で
朝鮮人から時計やカメラ等の貴重品と引き換えに中型の漁船と交換
半島脱出、島根県東部の漁村に辿りつく。>>68
公務員は一般人。
一般のコリアンが裕福に暮らした。
一部の両班は華族として爵位をもらい、日本の一般人より身分が高かった。もう亡くなられたが、通信兵だった、近所のおじいさんの話。
南支戦線、間諜と思われる中国兵を捕える。中国軍の状況を吐けと脅しすかし繰り返すが、吐かず。吐かなければこの場で処刑だと伝えると、中国兵はその前に歌を歌わせろと。怯える様子もなく大声で中国の軍歌を歌った。
歌え終えて、尋問していた古参兵が「いい度胸だ!!]と言って斬首したと。敵ながらあっぱれな兵だったと。以前、ある集まり会った東京商大(当時東京産業大学)から学徒出陣したおじいさん。学徒士官が一室に集められ、「この中で特攻隊に志願する者はいないか」散々脅され怒鳴られたが、皆、押し黙って誰も手を挙げず。やっと解放されようとしたとき、上官が「貴様らの度胸を試しただけで特攻させようとは思わん、士官たるものその位の度胸がなければ兵は付いてこない」とのたまわったと。
実は、特攻した学徒は非常に多い。戦争末期は単に員数集めで誰彼構わず特攻志願させられていた。母の話
寄宿舎で115の軍靴の足音を蒲団の中で震えながら聞いていた。
朝鮮から引き揚げる時、使用人から朝鮮は地獄になるか
ら、是非とも日本に連れて行ってくれ。と懇願されたが
命からがらの引き揚げだったので涙ながら断った事を悔や
んでいた。
軍属として家を留守にしていた父の帰りを待っていたため、
最終引き揚げ船には間に合わず、軍用引き揚げ船だった
ために舞鶴ではなく博多か佐世保だったために、引き揚げ
者証明が無く後に苦労したとのこと。
引き揚げてから食糧を求めて農村地に疎開。そこで私が産
まれる。当時5歳だったという俺の爺さんは、翼が上下に曲がった飛行機に機銃掃射されたことを覚えてるそうな。
…コルセアか…。当たってたら俺は居ないな。つーか、幼児を撃つのか、アメ公は…。
自分が直接聞いた戦時又は戦前の話しを書こう。
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