1609年の国交正常化で釜山の倭館に陶器工場設立され釜山窯となった。
日本で人気の茶器を生産し、デザインと監督は日本人、材料は朝鮮政府が無償提供、生産は朝鮮陶工が行い、製品は全量日本に輸出された。
しかし、この釜山窯は1717年を最後に閉鎖された。朝鮮政府のこれ以上の燃料と土の無償供給を拒否したからだ。「丙子胡乱後、朝鮮に平和時代がきた。迷惑を押し切って無償供給の理由がなかくなった。」 更に日本側には別の理由があった。これ以上朝鮮器を輸入する理由が消えたのだ。「朝鮮民謡(民窯)品質が非常に低下した。厚く重い物になってマグに送るに困難だった。」(アサがとノリタカ)何よりも、朝鮮で陶器を生産する理由がなくなった。日本の自己製造技術が朝鮮を圧倒してしまったのだ。
1678年肅宗4年、釜山に百十万坪に及ぶ日本人向けの新都市が建設された。朝鮮政府が敷地を提供して朝鮮と日本両国の技術者や建築技法が網羅された。草梁倭館という。草梁倭館は江華島条約が締結された1876年までの対馬によって運営された。条約後、日本外務省に移管された倭館は、日本人居留地に変わった。日本植民地時代にも日本人が主に住んでいた。6・25戦争の時の避難民が集まって乱開発に陥って草梁倭館跡は全部消えた。
http://news.chosun.com/site/data/html_dir/2018/03/14/2018031400401.html>>1
資材も労働力も出したの?
何それ。属国?政府の拠出を続けていれば、雇用は守られたのに。GM
朝鮮日報は何で今こんな記事を載せたの?
やっぱりGM撤退かね?って言うか贅沢品だろ?
李氏時代のエピソード聞けば国内に大した需要は無いんだからちょっと買い手が居なくなれば閉鎖になるでしょ
そのまま技術も喪われると>>4
政府が材料(金)を無償提供しないと
撤退しちゃうぞってことか虎に喰われたという漢詩等の記述=生活圏を自然界まで拡大させた時期
中国や韓国の昔の窯跡って、周辺にあったはずの森林資源(磁器を焼くための燃料)が伐採されて、荒れ地や、一面の畑になってて、森に戻ってる事は稀。土器技術の職人女性の移動痕跡。4900年前頃。
Corded Ware Culture period,戦斧文化時代 Finland, Estonia and Sweden
https://phys.org/news/2018-03-skilled-female-potters-baltic-years.html>>12
庶民が使う食器などは、主に陶器で作られていたようです。陶器は磁器よりも低温で焼くことができるので、庶民の間でも手軽に作ることができ、陶器の中でも、粉青沙器と呼ばれる白土を装飾に使ったものが特に有名みたいですね。
粉青沙器はうつわの表面に彫りを入れ、白土を埋め込んで模様を作る技法で、朝鮮半島の各地で作られたが、特に京畿道の龍仁や忠清南道の公州などが有名な産地だそうです。
粉青沙器は官製窯ではなく、民間窯で作られた陶器のようです。官製窯は王室や貴族のために磁器を作っていましたが、民間窯は庶民のために陶器を作っていたそうです。粉青沙器は、庶民の生活に密着した器として、茶碗や皿、壺など様々な形がありました。粉青沙器は、朝鮮半島の陶磁文化の中でも独自の発展を遂げたものだそうです。>>15
粉青沙器って、日本では「三島」って種類のものになります。まぁ、煮物とか入れる、厚みのあり重量がある青灰色っぽい器ですね。そりゃ、持って食べないわと思えるようなの。
また、金属の食器は,朝鮮半島において古くから存在しており、特に真鍮製の食器は,統一新羅時代から高麗時代,李氏朝鮮時代にかけて王室や貴族・両班などの上流階級が使用するものだったようです。金属の食器は高級で美しいものとして社会的なステータスの象徴だったようです。やっぱり、そりゃ持って食べないわ。
朝鮮併合時代、教育を受けたエリート層などが台頭し、これらの人々は,金属の食器を使うことで自分たちの地位や優越感を表現したのが一般的になってきた切っ掛けのようですね。金属の食器は庶民の憧れの的であり、社会的なステータスの象徴となっていたようです――おぃ、金属食器もYesJAPANNだぞっ!?、と調べて思った私です。>>13
ご投稿、ありがとうございました🙇
文禄・慶長の役では全国の戦国武将が集まっていたオールスターと言っても良かったです✨
火縄銃、石火矢、大筒、大砲などで完全武装していた日本軍は無敵だったみたいです!
正しく、元寇の仕返しを400年越しに、叶えたと言っても過言ではないと思われます❗
因みに戦国武将が被っていた変わり兜や陣羽織なども見何処満載と言っても良いです😁>>1
いつか偶然に見たのだが、「日帝強占期の日本人の墓石を再利用している釜山の建造物」として、いくつかの画像が韓国のネット上に上がっていた。どこで見たのかは実は忘れたが
そこでは、下のこういう感じの画像で、はっきりと年号が書かれており、その全部が“日帝強占期”ではなく、江戸時代の墓石だった
別に良いのだが、日本の歴史ではなく、韓国の歴史としての釜山の倭館でもあるので、歴史認識は正確にした方が良いとは思う。とりあえず無かったこと等にしてはいけないだろう
↓嘉永4年(1851年。ペリーが来る2年前)の年号が書かれている日本人の墓標
日朝の陶器の技術逆転で閉鎖された釜山窯
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