この映画いろいろ詰め込みすぎて冗長だったけどそこそこ面白かった
中国では検索禁止用語になってるもよう>>1
映画『KANO~1931海の向こうの甲子園~』
YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=_9-ShAgD58Q
知ってるよん제암리 학살사건
1931年夏、甲子園球場で行われた第17回全国中等学校優勝野球大会の開会式に、錠者は札幌商業のエースとして参加していた。日本本土の学校だけでなく、大連や京城といった外地の学校のプラカードも見える。そこに交通事情から遅れて参加してきたのが、嘉義農林学校野球部の選手たちであった。
物語はさらに1929年に遡る。のんびりしたチームの「嘉農」野球部は当然連敗続きであったが、新任監督として迎えられた日本人の近藤兵太郎によるスパルタ式訓練により、部員たちの心には徐々に闘争心と甲子園出場への夢が芽生えていった。近藤は日本人のみを贔屓することなく、守備に長けた日本人、打撃に長けた漢人、韋駄天の如く足の速い高砂族の選手たちのバランスの良いチームを作り上げていく。また、かつて近藤が指導し、その指導に萎縮した松山商業と比べ、嘉農の選手たちが伸び伸びとプレーする姿は、近藤自身を成長させ、チームに対する愛情を深めていくのだった。
少年たちは日本語で教育を受け、日本語を話した。しかし街や仲間内では台湾語を話した。日本の統治下にある街には日本語と漢語があふれ、近代化整備が進みつつあり活気に満ちていた。一方で、農村は治水対策が不十分で、台風のたびに甚大な被害を受けていた。エースピッチャーの呉明捷は山陽堂書店の手伝いをしており、店員である静に憧れを寄せていた。しかし静はやがて台中の医師と結婚して嘉義を去る。アキラは爆竹を燃やして彼女を祝福しつつ寂しげに見送る。
当時、台湾代表として全国中等学校優勝野球大会へ出場するのは、決まって日本人のみで構成された台北一中や台北商業であった。当時は台湾全島で1校のみしか代表として甲子園に行くことが出来ず、その為に台湾大会で優勝する必要があった。「一度も勝ったことがない」チームの快進撃は止まらず、勢いに乗って全島優勝を果たす。台北から凱旋した選手たちは町中から大歓迎を受ける。しかし選手たちは、当時のアジア最大の水利事業であった嘉南大圳完成を知るや、パレードを中断して用水路へ向かう。水が満ちていることに感動すると、視察で用水路を下ってきた八田與一に会い、優勝を報告するとともに、八田から激励を受ける。迎えた甲子園大会、下馬評では弱すぎて本土のチームには相手にならないのではと危惧されていた。甲子園球場に来た嘉農の選手たちは、「甲子園の土」の質の良さに感動する。初戦の対神奈川商工戦では、3-0の完封に抑え、一躍注目チームとなる。その様子をスタンドから見ていた錠者は、激しく動揺する。マスコミからの取材を受けた嘉農の選手たちには当初「日本人の子は手を挙げて」「日本語は理解できるのか」等と偏見の眼差しが向けられる。近藤は民族を問わず「同じ球児だ」と反論し、生徒たちを守る。
準々決勝の対札幌商業戦は、19 - 7で圧勝。試合中、札商ピッチャーの錠者は茫然自失となり、自分でも理解できないうちに自らマウンドを降りてしまう。
再び、1944年。錠者大尉は、嘉義駅での大砲の積載に時間がかかることを確認すると、嘉農の練習場へ向かった。あの時の彼らの強さの原点は、何だったのか。街には第二次世界大戦中の大日本帝国領として戦意を高揚させる垂れ幕があふれていたが、かつてのような活気はなかった。錠者は、荒れ果てた練習場のピッチャーマウンドに立つ。
準決勝の対小倉工業戦も、10-2で圧勝。魂の篭もった姿勢と素晴らしい強さは本土の野球ファンをも魅了し、応援するファンも増え決勝戦では超満員の観衆が甲子園に詰め掛ける。そして決勝の相手は名門中の名門、中京商業[6]。地元の嘉義市内ではラジオ中継に熱中し狂喜乱舞する市民たち。静も出産したばかりの子供と共に嘉農を応援する。日本中だけでなく台湾でも大勢のファンが固唾を呑んで見守る中、その試合が始まる。しかし、アキラの指は限界を迎えていた。試合中に出血したアキラを近藤は降板させようとし、チームメイトとともに激しい意見が交わされる。結局、アキラは続投するがフォアボールを連発し、押し出しで得点が入ってしまう。そこに守備の選手たちが「俺たちが守るから、敵に打たせろ」と叫ぶ。ベンチの選手たちはアキラの応援歌を絶唱する。結局、中京商の吉田正男に完封に抑えられ、優勝はできなかった。しかし、嘉農の最後まで諦めない奮闘ぶりは日台それぞれの人々に強い印象を残し、スタンドにいた錠者は健闘を称えて「天下の嘉農」と絶叫する。その声はどんどんと大きくなり、やがて観客席全体から響き渡るのだった。
負けても泣くな、勝っても泣くなと指導された選手たちも、「僕たちはいつ泣いたら良いんですか?」とついに号泣する。選手たちは、準優勝盾と甲子園の土を手に、船で台湾への帰路についた。船上ではしゃぎながら野球をする選手たちの前に、やがて懐かしい台湾の地が近づいて来る。
エンドロールで、近藤や選手たちのその後が紹介される。ある者は日本の野球界で活躍し、ある者は台湾で野球の普及に貢献した。そして、ある者は第二次世界大戦(太平洋戦争)で戦死したのだった。kano おもしそうで絶対みたいって思ってたら
撮影終わった後
日本では公開しないってなってがっかりした
けどディスク化するって聴いて楽しみにしてた芝山巌事件
1895年(明治28年)5月17日、下関条約(馬関条約)により台湾が日本に割譲され、5月21日から日本による統治が始まると、当時文部省の学務部長心得だった伊沢修二は、初代台湾総督に就任した樺山資紀に「(台湾の統治政策の中で)教育こそ最優先すべき」と教育の必要性を訴え、同年6月、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、台北北部の芝山巌恵済宮という道観の一部を借りて同年7月に芝山巌学堂という小学校を設立した。
最初は生徒6人を集め、台湾総督府学務部長となった伊沢と教師7人の計8人で日本語を教えていた。次第に周辺住人に受け入れられ、同年9月20日には生徒数が21人になり甲、乙、丙の3組に分けて授業を行っていた。
その頃、能久親王が出征中の台南(後の台南神社境内)で薨去し、それに伴い伊沢と1人の教師(山田耕造)は親王の棺とともに日本本土に一時帰国した。
その伊沢の帰国中に事件は起こる。
1895年の暮れになるとふたたび台北の治安が悪化し、日本の統治に反対する勢力による暴動が頻発すると、周辺住人は教師たちに避難を勧めたが、彼らは「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と教育に命を懸けていることを示し、芝山巌を去ろうとはしなかった。1896年(明治29年)1月1日、6人の教師と用務員(小林清吉)が元旦の拝賀式に出席するために生徒を連れて船着場に行ったが、前日からのゲリラ騒ぎで船が無く、生徒達を帰して芝山巌に戻った。再び芝山巌を下山しようとした時、約100人の抗日ゲリラ(日本側で言う匪賊)に遭遇した。教師たちはゲリラたちに説諭したが聞き入れられず、用務員の小林を含む7人全員が惨殺された。ゲリラ達は、日本人の首を取ったら賞金が貰えるとの流言から襲撃を掛けたと言われており、6人の首級と用務員を襲って殺害した上に着衣や所持品を奪い、さらに芝山巌学堂の物品も略奪した。この事件は、台湾にいた日本人を震撼させたのみならず、日本政府にも重大視され、丁重に葬儀を行うとともに、台湾統治の強化が行われた。芝山巌学堂は3ヶ月間の授業停止の後に再開された。
事件のその後
六氏先生の墓
彼らの台湾の教育に賭ける犠牲精神は「芝山巌精神」と言われ、人々の間で語り継がれるようになった。
この「芝山巌精神」は当時の台湾教育者に多くの影響を与え、統治直後、総人口の0.5~0.6%だった台湾の学齢児童の就学率は1943年(昭和18年)頃には70%にもなった。また終戦時には識字率が92.5%に登り、後に台湾が経済発展をする基礎となった。
1930年(昭和5年)には「芝山巌神社」が創建され、六氏先生をはじめ、台湾教育に殉じた人々が、1933年(昭和8年)までに330人祀られた(そのうち台湾人教育者は24人)。
境内には六氏先生を合葬する墓があり、また社殿の前には六氏先生を追悼して、伊藤博文揮毫による「学務官僚遭難之碑」(1896年7月1日建立)が建てられた。
毎年2月1日には慰霊祭が執り行われ、芝山巌は「台湾教育の聖地」と称された。終戦後、蒋介石をはじめとする外省人の中国国民党の者たちが中国本土から台湾に逃げて来て、台湾は日本色を一掃する中国国民党により芝山巌神社は破壊され、本殿跡には国民党軍統局副局長だった戴笠を記念する「雨農閲覧室」が建てられた。この時、神社の隣にあった恵済宮の住職は、六氏先生の墓跡から遺骨を密かに移し、無名の墓を造って祀っていた。
雨農閲覧室では、抗日運動の成果のひとつとして芝山巌事件を紹介する展示などが行われてきた。しかし、李登輝総統の下で台湾民主化の動きが進むと、芝山巌学堂が開かれて100年経った1995年(平成7年)1月1日に芝山巌学堂の後身である台北市立士林国民小学の卒業生により、教育に命をかけた「六氏先生の墓」が再建され、2000年(平成12年)には「学務官僚遭難之碑」も復元された。
現在、周辺は芝山文化生態緑園として整備されており、自然観察をしたり、大石象、蝙蝠洞、太陽石、砲台跡、同帰所(芝山で亡くなった無縁仏の合葬施設)などを見て回ることができる。>>5
三・一独立運動の余波を受けて、1919年3月30日、発安(郷南面)の堤岩里をはじめとする近隣の住民千人余りは、市(いち)の日を利用して独立万歳運動を行った。このとき警察の発砲でデモ群衆の内3人が死亡したが、この過程で興奮したデモ群衆が日本人家屋に石を投げ、日本人小学校に火を付けたので、精米業を営んでいた佐板をはじめとする日本人43人が30里(12キロ)離れたサムグェ(三槐)地域に避難した。
また、4月3日にはデモ群衆が花樹里駐在所に放火し、川端豊太郎巡査を殺害した事件が起きている。
4月13日に陸軍79連隊に所属する有田俊夫中尉が指揮する歩兵11人が発安(郷南面)に到着した。彼らの任務は、討伐作戦が終わった発安地域の治安維持であった。しかし、他の地域のデモの首謀者たちが、2度にわたる検挙作戦で大部分逮捕された一方で、発安デモを主導した堤岩里の首謀者は逮捕されていなかった。このような不安要素が残っていることを知った有田中尉は、4月15日午後、部下11人を率いて、日本人巡査1人、堤岩里出身の巡査補趙熙彰、そして発安で精米所を営む佐坂の案内で、堤岩里に向かった。日韓で良い話0ww
>>1
仮にあったとしても、韓国でそういう人達は親日派として断罪されるかね。
口を詰むんで闇に葬るか、逆に悪い話に改竄されて終わりだろう。これテーマはいいんだけど、
風景のいいとこを俯瞰で取ってるシーンの連続でものすごく退屈だった
テンポが悪すぎる>>4 画像貼れんかった。。
>>18
日本の高校野球大会
http://www.fanxfan.jp/bb/result/48_others.html
1921年。釜山商業高校がそっちからは初出場だった。>>22
ずっと出場してたんだね
まあ史上最悪の植民地支配には似つかわしくないから教わるわけないか- 24名無し2017/08/31(Thu) 22:29:10(1/2)
このレスは削除されています
- 25名無し2017/08/31(Thu) 22:49:29(2/2)
このレスは削除されています
台湾の高校を甲子園に招待する話もある
韓国の高校も参加したら盛り上るだろうけど、韓国人は文句を言いそうw>>27
甲子園でこんなん↓あったらどうしよう??(笑)
YouTubehttps://youtu.be/OcwW9DsgM4o>>27
台湾なら高校野球の精神を共有出来るが
南朝鮮は無理、完全にスポーツに対する価値観が正反対の方を向いてる。>>28
監督の反応を見ていても韓国の価値観では、自国を貶める行為には思えないんだろうなw だって韓国人。最近の韓国では高校スポーツにおいても親が審判買収する事件とかもあるらしいね。
テコンドーか何かで、それに抗議して親が焼身自殺した事件ってなかったっけ??母校は毎年 松山商業と定期戦してるからKANOには親近感があり、遠くの映画館まで足を運んで観た。
ロードショウしていた映画館が少なかったから、知名度がイマイチなのが残念。
KANOは脚色してあるけど、試合結果は史実に合ってる。
この映画で台湾に興味が沸いて毎年、台湾旅行に行ってる。
今年は台南に旅行したから嘉義農林後(今は嘉義商業)まで行ってみた。
嘉義や台南には日本統治時代の懐かしさを感じる痕跡がイッパイある。
台南では廃墟だった林百貨店を内装をリニューアルして旅行者に大人気だよ。
韓国には、これが無いんだよね。>>31
確か今年のKBOでも、昨年に続いて八百長があったみたいだし腐敗ぶりがヤバい>>1
本当に心温まるだけ?>>34
其れなら、利息付けて返還して欲しいです。
甲子園に出たのは、台湾だけで無くて、朝鮮半島や満州からも一緒です✨
韓国は台湾や太平洋島嶼国を見習うべきです☆
台湾人は日本の甲子園に出た事がある
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