世界のかけがえのない建造物や自然を登録するユネスコの「世界遺産」。一方で、未来へ伝えるべき書籍や資料などを登録するのが、ユネスコの「世界記憶遺産」です。日本からもすでに平安時代の日記「御堂関白記」や第二次大戦後のシベリアからの引揚げに関する資料などが登録されていますが、徳島県は新たにドイツと共同で「捕虜収容所」に関する資料を申請することで合意しました。
先週末、ドイツ・ニーダーザクセン州の首相ら約30人が徳島県鳴門市を訪れました。かつてドイツ人らを収容した「板東俘虜収容所」について視察するためです。
今から100年前の出来事です。第一次世界大戦下、日本はドイツの租借地だった中国の青島を攻撃し、敗れたドイツの兵士ら約1000人がこの施設に収容されました。捕虜の生活は驚くほど自由で、その人道的な運営から「奇跡の収容所」と呼ばれました。
海岸で服を脱ぎ日光浴をするドイツ人。サッカーチームやオーケストラまでも結成され、アジアで初めてベートーベンの交響曲「第九」が演奏されたのは、この地だといいます。収容所の展示をみたドイツ人も驚きの声をあげました。
「素晴らしいですね。鳴門に来て良かった。収容所に大きな敬意が払われています」(独ニーダーザクセン州 シュテファン・ヴァイル首相)
徳島県とニーダーザクセン州などは、ユネスコの世界記憶遺産登録へ共同申請する協定書に調印。2019年中の登録を目指すということです。徳島県の飯泉嘉門知事は今の時代背景が登録の追い風になると期待します。
一方で、この世界記憶遺産。過去には政治問題化したこともありました。2015年に認定された「南京大虐殺」の資料をめぐっては、殺害された市民や兵士の数を30万人とする中国の主張に日本が猛反発。
「我が国の分担金・拠出金については支払いの停止等を含め、あらゆる可能性、見直しを検討していきたい」(菅義偉官房長官・2015年)
ユネスコに拠出している資金の凍結を示唆し、審査の公平性などについて改革を求めました。今年の分担金について、日本は拠出について検討している最中だということで、市民団体が登録を目指している旧日本軍の慰安婦に関する資料の扱いも注目されています。
歴史的に貴重な資料などを後世に伝えることが目的とされるのが「世界記憶遺産」である。余計な事するなと。
どうせいつも通り半端やって
馬鹿を見るのが落ちだろ。特亜の出先機関に成り下がったユネスコ如きに何を望むのやら。
日本を貶めるのにドイツを持ち上げるのが都合が良いと考えている某国が
何か妨害して来そうだな
さすがに、ここまで朝鮮との関連性が希薄だと困難だと思うけど
中国政府の主張を真に受け認定した南京大虐殺と違って平和裏に運営された話だから
揉める事はなさそうではある
そう言えば、まだ四国には世界遺産がゼロだったかな?世界遺産って実際行くと「おおすげえ、さすが世界遺産」ってなるよね
>>1<ヽ`∀´>ウリ達はこの収容所に入れられ強制労働させられたニダ!謝罪と賠償を要求するニダ!!
⬆これに期待>>7
ソーセージだけでなく、パン職人も有名ですね。 捕虜になって、その後日本人と結婚して、敷島パンの初代技師長やって、有限会社ジャーマンホームベーカリー(フロインドリーブ)を設立した話も、興味深い。
ハインリヒ・フロインドリーブ
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%AA%E3%83%92%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%96>>3
日本で初めて第九が演奏された場所としても有名>>6
ユーハイム創業者のカール・ユーハイム氏は、中国の青島で菓子職人をしていた。
第一次世界大戦時に日本の青島攻略戦の9ヶ月後に捕虜になり、大阪の捕虜収容所に収監(兵士ではなく、租界在住の菓子職人兼、喫茶店のオーナーだった)
その後、インフルエンザの予防接種の為に、広島県の捕虜収容所に移動。
広島でドイツ人捕虜によるドイツ人捕虜が作った作品の展示即売会が企画された時に、バームクーヘンを作り提供(材料集めに苦労したそうだ)
広島県商品陳列所(現・原爆ドーム)で行われた「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で日本初となるバウムクーヘンの製作即売も行った。日本人向けにアレンジされたバームクーヘンは、展覧会の主力商品となった。何度かテレビで見たな。ここ。
>>7
ヘルマン・ウォルシュケ氏ですね。
甲子園で、日本初のホットドッグを販売した事でも有名です(大リーグが日本に来た時)
食肉職人の徒弟修業を積んだ後、青島(ドイツの租借地)仕事をしていた。
その後兵役に就き、膠州湾海軍砲兵隊の2等歩兵として配属。
青島攻防戦で捕虜となり、大阪俘虜収容所→似島俘虜収容所で捕虜生活。
第一次世界大戦終戦後は、日本に残り、明治屋に入社。
銀座に新規開店した「カフェ・ユーロップ」に、ソーセージ製造主任として配属。
(製菓部主任のカール・ユーハイム。喫茶部支配人ヴァン・ホーテンも、元捕虜)
その後、明治屋のハム、ソーセージの製造主任者となるも、関東大震災で工場は閉鎖。カフェも閉鎖。
アウグスト・ローマイヤー(元捕虜)のソーセージ工場に勤務した後、神戸でソーセージ製造会社を起こした。
大リーガーが日本で試合をした時には、甲子園球場で日本初のホットドッグを売り出した(現在も甲子園名物のひとつ)
その後、長野県軽井沢町で「ヘルマン」を創業。第二次世界大戦時は事実上の営業休止に追い込まれ、長野県野尻湖畔で軟禁生活。
戦後は東京狛江市で食肉工場を借りてソーセージとロースハムを製造。
群馬の養護施設に毎月ハムを届ける慈善活動を死ぬまで行っていた。
「ヘルマン」は次男が継ぎ、その後日本ハムファクトリー株式会社(美ノ国やシャウエッセン等を作っている)に平成20年に営業譲渡。「ヘルマン工房」としてブランドと技術が存続しているこれはアレらと関係がどんなに希薄でも必ず邪魔しに来るよ。
日本人が捕虜を人道的に扱ったなんてことはアレらには有ってはならないことだからね。
日本人は邪悪で禽獣の様でないと困るらしいからね。
自分達の工作の信憑性まで落ちる可能性が高いから絶対に認めないよ。>>7
因みに、日本初のロースハムを作ったのが、アウグスト・ローマイヤー氏。
食肉職人見習いとして修行した後、海軍に入隊。河川用砲船『青島号』で勤務。青島攻略戦に参戦し、捕虜となった。
熊本県の捕虜収容所→久留米捕虜収容所で捕虜生活。
収容所では調理場担当となり、日本語習得に努めた。
解放後は、日本残留を希望。東京の帝国ホテルに就職。豚の飼育と加工を担当。
ハムやソーセージが評判になり、翌年帝国ホテルを退職・独立。
ローマイヤー・ソーセージ製作所を創業。しかし関東大震災で工場が倒壊。材料の肉が腐るよりわと炊き出しを行うが、これが会社(合弁会社)の出資者に咎められて、製作所は倒産。
南品川に土地を借りて再度事業を行った。
震災2年後に銀座並木通りにロースハムの直売店とレストランを開業。顧客には、皇族、文化人、企業家、ドイツ大使館の関係者、リヒャルト・ゾルゲ等が名を連ねていた。
この時の従業員が、戦後日本の食肉業界を引っ張ることになる。
第二次世界大戦中の1942年に、ローマイヤーの胃潰瘍が悪化して生産中止。一家は箱根に療養に行く。
争終結後の1949年に品川の家に戻り、事業再開。1962年死去。
ローマイヤーが手掛けた生産工場とレストランはそれぞれ息子が引継ぎ、2000年にローマイヤ株式会社として一族の手を離れている。現在は食肉商社スターゼンの子会社。
ローマイヤーのレストランや会社は、『細雪』(谷崎潤一郎)『ハチミツとクローバー』(羽海野チカ)にも出てくる。
徳島県の〝奇跡の収容所〟ドイツと共同で世界記憶遺産登録を目指す。
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