鎖国時代の日本の貿易相手は出島のオランダと唐人屋敷の中国。
朝鮮人のはお土産程度でしょ。
お決まりの朝鮮人参。>>1
江戸時代の日本は貿易を制限していたみたいで、完全に国を閉ざしていませんでした。
長崎貿易は江戸幕府が出島や唐人屋敷などでオランダ東インド会社と清国商人と取り引きをしていて輸入品は生糸、絹織物、砂糖、胡椒、ガラス細工で輸出品は金、銀、銅、鉄、硫黄、海産物などが取り引きされていたみたいです。
朝鮮貿易は対馬の宗氏を介して李氏朝鮮と貿易が行われていたみたいで輸入品は生糸、絹織物、朝鮮木綿、高麗人参、皮類、朝鮮本、仏具、経典などで輸出品は金、銀、銅、鉄、硫黄、刀剣、扇子などが主な貿易品でした。
琉球貿易は薩摩の島津氏を介して琉球王国と取り引きをしていて輸入品は生糸、絹織物、皮類、香木、胡椒、陶磁器などで輸出品は金、銀、銅、鉄、硫黄、刀剣、扇子などが取り引きされていた事が確認されているみたいです。
アイヌ交易はアイヌ民族と松前藩との間で交易が行われていたみたいで、アイヌ民族から松前藩には皮類、昆布、干し鱈などが取り引きされていて、松前藩からアイヌ民族には反物、着物、古着、針、小刀、お米、お酒などが取り引きされていた事が確認されているみたいです。【対明貿易】
李氏朝鮮は、明が主導する朝貢貿易体制に編入され、使行にともなう貿易だけ許容されてた。
明の海禁で中国との海上貿易は途絶、明が海禁を緩めた後も朝鮮は海禁を維持。
【対日貿易】
朝鮮に到着した日本船舶を相手に貿易、朝鮮側から商船の来日はない。
18世紀前半までは、朝鮮が清の生糸&絹織物を日本に輸出、日本から獲得した銀で清の交易品の決済をする中継貿易が中心。
17世紀後半と18世紀前半には人蔘を盛んに日本に輸出してる。
【対清貿易】
日本は、17世紀半ばから清と直接貿易を開始、徳川吉宗が銀の海外流出を規制、絹織物&生糸の代替策を取り始める。人蔘は安価な中国産の輸入や国内生産に切替えると、1750年代から日本と朝鮮の貿易は激減。18世紀半ば以後、日朝貿易は全般的に衰退していく。
日朝貿易の衰退で、朝鮮の対清貿易は万年赤字になり、
日本からの銀が激減すると、対清貿易の決済手段が不足するようになる。
朝鮮は打開策に家蔘(栽培物の朝鮮人蔘)の輸出。家蔘は薬効が弱く、長距離輸送に傷みやすかったので、それを加工した紅蔘の製造法が開発された。1797年から家蔘の輸出がはじまり、しだいに拡大する。
18世紀末からは砂金採掘と密輸出が急増。
朝鮮前期には、日本に綿布を輸出しながら、それを産業発展の契機に増産拡大しなかった。
朝鮮後期には日本との絹織物&生糸の取引が減少しても、別の交易品を日本に提示出来なかった。
儒教の為に、貿易による国富という発想が皆無。中国の養蚕の質が良かったので
中間貿易として朝鮮半島から輸入していたそうだ。
韓国の質は歴史的にいいとは全く書いていない。- 13
名無し2023/08/04(Fri) 00:28:33(1/1)
韓国に学者がいるとは、初めて聞いたようだ
- 15
名無し2023/08/04(Fri) 00:40:32(1/3)
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>>13
家康「朝鮮、国交回復してやるから使節おくれ」
朝鮮「日本怖い、無視したい」
対馬「無視した朝鮮半島に再度攻めこむって言っている✨」
朝鮮「アイゴ!」>>13
名前も挙げられないアホの与太話だね。朝鮮人らしい。滅んだ明を崇め続けた下らない国と一緒にされても困る>>9
生糸貿易最大の相手国は清じゃなかったかな。江戸時代の慢性的な貿易赤字の主たる要因が生糸の輸入にあった。赤字解消が課題として意識されるにつれ国内の生糸生産は徐々に伸び、幕末明治期に入ると輸出国に転じる。1909年には清を抜いて世界最大の生糸生産国になる。しかしその後の世界恐慌で国際市場価格が低下、戦後には化繊の需要に押されて日本の生糸生産は下火になっていった。
朝鮮産生糸が日本にとって重要な貿易品だったのは、18世紀半ばくらいまだったのではないかな。色々うろ覚えで申し訳ない☺️>>13
朝鮮通信使、金仁謙(Kim In Kyeom)の著書『日東壮遊歌』
※1761年に来日
大阪 1764年1月22日
100万軒はあると思われる家の全ては「瓦の屋根」だ。
凄い。
大阪の富豪の家は「朝鮮の最大の豪邸」の10倍以上の広さで、銅の屋根で、黄金の内装である。
この贅沢さは異常だ。
都市の大きさは約40kmもあり、その全てが繁栄している。
信じられない。
中国の伝説に出てくる楽園とは、本当は大阪の事だった。
世界に、このように素晴らしい都市が他にあるとは思えない。
ソウルの繁華街の10000倍の発展だ。
北京を見た通訳が通信使にいるが、「北京の繁栄も大阪には負ける」と言っている。
穢れた愚かな血を持つ、獣のような人間が中国の周の時代に、この土地にやってきた。
そして2000年の間、平和に繁栄し、一つの姓(つまり天皇家)を存続させている。
嘆かわしく、恨めしい。>>13
朝鮮通信使の来朝に対する返礼は、対馬藩が代行していた。朝鮮側は漢城までの来訪を許可せず釜山の草梁倭館で答礼を行う。これは宗主国である清の手前、外交活動を公然と行うことを控えなければならなかったという事情がある。
さて…。徳川将軍の代替わりやその後継者誕生が朝鮮通信使の派遣契機であったことは知られているが、朝鮮王室の慶事に徳川幕府から慶賀使が派遣されたことがあっただろうか? このことを踏まえるなら、当時の日朝関係がどのような力関係であったかは言うまでもないと思うのだが?☺️朝鮮通信使の饗応(飲食の提供)って、食材の仕入れを民間業者の入札で行ってたんだよね。当然コストを抑えるのが目的なわけだけど、日本人って当時から合理的でスマートだったんだなって、これを知った時思ったものだね。当時の朝鮮なんかでは思いもよらない方法だったんじゃないかな☺️
조선은 중국으로부터 말을 수입하여 군마로서 훈련시킨 뒤 중국에 되파는 것으로 수입을 올렸다고 한다. 그리고 질 좋은 철이 많이 나왔었다.
>>22
そもそも朝鮮は貨幣経済じゃないので、入札とか思いもつかないものだったろうよ。
乙に対して「饗応しろnida!」と甲の横暴を行うだけ。日本から朝鮮は銀が60%、その他鉱物資源や東南アジアからの物産、あとは喫煙用品。
朝鮮から日本へは中国生糸・織物が80%。残り20%が朝鮮人参などの薬品と言われている。
日本は朝鮮経由で中国製品を買っていたということだ。- 27
名無し2023/08/04(Fri) 07:08:28(2/3)
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- 28
名無し2023/08/04(Fri) 07:10:02(1/1)
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- 29
名無し2023/08/04(Fri) 07:41:35(3/3)
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>>1
朝鮮人の戯言>>24
中国に近い方が無条件に優秀という考え。
親しい間柄には個人所有の概念が無い。
本当に皮肉抜きで昔も今も意識が同じ。>>32
【李氏朝鮮の商業】
朝鮮政府は1470年代には、農業人口の減少・物価の騰貴・盗賊の横行の懸念から、場市(定期市)を禁止。
しかし、場市は自然発生的に15世紀後半全羅道に出現。以後拡散し秀吉侵略までに、京畿道を除いたすべての道に存在するが、1876年まで、場市は増加することは無かった。
地方には常設店舗が存在せず。行商が商品流通の主要な担当者、市の日に合わせて場市を巡回。
貨幣の普及も限定的、金融も未発達。
1445年ごろにはすべての取引の価格は木綿で計算。銅銭は、1695~97年にかけて大量鋳銭、全国的に通用、基軸通貨の地位。銀貨は17世紀後半にソウルなどで使用されたが、1730年代以降、銀流通が激減。1870年代まで高額貨幣は普及しなかった。
1608年から大同法施行、国家の需用物資を米・布に統一して収取し、それを貢人(政府指定の商人)に支給して需用物資を調達。膨大な貢価の米・木綿・銅銭が市場に放出された。しかし、朝鮮末期に至っても、市場経済の位相は脆弱。農家の自給度も高く、1876年の日朝修好条規前後の時期に、市場を経由する生産物は3割にも満たなかった。>>32
【1894年の朝鮮の記録、塩川太一郎『朝鮮通商事情』より】
(朝鮮の水運)
国内運輸の便は殊に不十分にして、船舶航海の如きは、特にその不進歩の有様を呈せり。船舶構造の甚だ脆弱に不堅牢なるは、実に吾人の思い寄らざるほどのものあり。余が仁川に在留中、少しく風波あるとき、毎に前面に繋留する船舶の多くが、最も容易に最も瞬間に破壊するを見て驚きたることあり。もとより危険にして、航海に耐ゆべくとも見えず。故に少しく重要なる貨物は、たとえ運賃の高く到着の遅きにもかかわらず、牛馬背にて陸送するを常とす。
(朝鮮の陸運)
陸運はおもに牛馬もしくは人背にして、まま牛車あれども、道路の悪きと共に、その用至って少なし。道路はまた至って険悪にして、二三国道とも云うべき大路を除くの外は、何れも崎嶇たる一条の小径にして、国道とも称せらるべきものさえ、河水放流架橋の設け至って稀に、常に旅人に困難を与うることあり。ただ道路の困難なるのみならず、驚くべきは轎輿費の格別高価なること。仁川京城間の如き、少なくも我3円以上4、5 円前後の轎夫賃、この間里数我8里。旅行馬の如きも、乗用と駄用とを問わず、総て1日我1円2、30銭以下なることなきを常とす。されば、旅行する者また随って少なし。
京城と平壌との間は、当国にて有名なる大路と称するほどにて、なお交通繁きところと称するにもかかわらず、余がかつてその間を往復せし時の如きは、途上旅人らしき者に出会せしこと至って少なかりし。かつ地方警察制度の不完全なるは、強盗火賊の白昼にさえ横行して憚らざるものあり。その他韓銭携帯の不便、為替制度の不十分等のもの、また皆交通運輸に不便を来すの一として数えざるべからず故に当国における交通運輸の不便の著しきは、何人も直ちにこれを認め得るところのものなり。かくの如くにして商業の隆盛を見んと欲するは、ほとんど水に縁りて魚を求むるの類たらざるべからず。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と、朝鮮の海運は絶望的で、日本との貿易も対馬船が朝鮮に来航して交易するという有り様。造船技術も退化してる事が判ってる。>>1朝鮮通信使は朝鮮人が日本に学びに来ていただけで、無駄な事だった。
朝鮮人参は高貴薬で銀と交換していた。
日本は栽培方法を知りたかったが、朝鮮聘礼使(朝鮮通信使)は国禁だからと教えない。
栽培法は教えられないが、種子ならいくらでも出せる。
適地ならほっといても勝手に自生する。
水戸光圀は種を買い入れて栽培に挑戦したが失敗。
徳川吉宗は人工栽培に成功して種子を全国に配布した。
日本で朝鮮人参の栽培が始まった(御種人参)。
朝鮮人は朝鮮人参の人工栽培を知らなかっただけ。>>13
日本はオランダ以外とは鎖国していた。朝鮮は隣国であるが極貧であり輸入すべき文明も特産品もなかったし強いて仲良くし交易する利得もなかった。考えられるのは幕府に詣でる後進国の使節として庶民の見世物になるかもしれないという期待だけかもしれない。>>1
江戸幕府と朝鮮は江戸幕府からの支出が多くて収入はほとんど無かった。- 43
名無し2023/08/06(Sun) 12:23:36(1/1)
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>>36
白村江の戦い=倭国大敗
元寇=元滅亡
文禄・慶長の役=明滅亡
第二次世界大戦=大日本帝国敗戦
ベトナム戦争=アメリカ敗戦
ご指摘通り、歴史が証明している。まー現在が一番重要です
韓国中国は日本の技術支援で工業が発達しました
現在の日本は韓国中国の先生です。>>45
その可能性はあるが、李氏朝鮮時代に朝鮮人参を人工栽培した証拠もない。>>49
ゴメン wikiから引用
栽培は困難で、18世紀初頭の李氏朝鮮で初めて成功したとされるが、それより100年以上前の第3代征夷大将軍徳川家光の代[12]、あるいは遅くとも8代将軍徳川吉宗の命により享保14年(1729年)までに栽培に成功している[17]。「朝鮮人参って言うなニダ!高麗人参ニダ!」
これ、戦後の実話。
「朝鮮って言うなニダ!ブランド価値が下がるニダ!」ですって。>>51
朝鮮人参は定期的な間引きが必要です。間引きながら適度な間隔をつくっておきましょう。まずは、萌芽のときに1/2ほどの量を間引きます。そして2年目の秋の時期には3/5、3年目には1/3、4年目には1/2ほどを間引きましょう。つまり、萌芽の3/60=1/20が生き残る。
(人工栽培の場合)
これが用土や肥料、日当たり、害虫や病気対策をしない蒔きっぱなしの栽培となれば、
運が良ければ収穫できるだろう。収量は予測できない。
(以下から抜粋)
https://www.bing.com/ck/a?!&&p=994fe07a0115e339JmltdHM9MTY5MTI4MDAwMCZpZ3VpZD0wMzE1NjNlNy1iMmRlLTY3MDYtMjA3NC02ZGNjYjM4MjY2N2MmaW5zaWQ9NTIxMA&ptn=3&hsh=3&fclid=031563e7-b2de-6706-2074-6dccb382667c&psq=%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e4%ba%ba%e5%8f%82+%e6%a0%bd%e5%9f%b9&u=a1aHR0cHM6Ly9ib3RhbmljYS1tZWRpYS5qcC8zNTAy&ntb=1>>54
間引きした根の天ぷら、温泉旅館の食事で食った事がある。
小指くらいの大きさだった。珍しいだけで自分で購入して再び食いたいシロモノではない。元々中国人が、「貢物が少ない国」という意味で、「朝貢鮮少」としたことから、「朝鮮」と成ったのだから推して知るべし。
幕府と李氏朝鮮の貿易でどれ位利益があったのか
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