◆中国および日本との交流
韓国の古代歴史書物に登場した代表的な移住民は衛満(ウィマン)。衛満は中国の政治的変動を避けて群れを導いて燕から古朝鮮に移動して王位を奪い、準王(ジュンワン)はこれに押されて韓半島の南に逃げたとされている。
このような政治的な変動や集団移動は韓半島の至るところに遺物としてあらわれる。展示されている剣把形銅器、明刀銭、五銖銭などは中国と人的、物的交流が大規模に存在したことを示している。特に漢が古朝鮮を倒して設置した漢四郡のうち4世紀まで存続した楽浪郡は中国と韓半島の橋渡し役を果たしたという評価を受けている。楽浪郡の遺跡から出土した楽浪土器などはここが単なる中国の郡県ではなく、韓半島との接触の中で土着化する過程を示す遺物と解釈されている。
また、金官伽耶を中心に韓半島南部から出土した日本の弥生・須恵器土器や鎧などはこの地域に早くから日本人が出入りし、一部は定着していたことを示す遺物だ。慶州博物館側は「中国の中原-楽浪・帯方-韓半島-日本列島につながる交流ネットワークが常時化された」と説明した。
◆シルクロードを通した西域との交流
興味深いのは韓半島の東側新羅から西域と関連する遺物が多数出土した点だ。慶州月城(ウォルソン)から出土した土偶はターバンを巻いていて、慶州龍江洞(ヨンガンドン)から出土した埴輪や元聖王陵(ウォンソンワンルン)の武人像は高い鼻と立派なあごひげをたくわえている。国際商業舞台で活動したソグド人(中央アジアのソグディアナに住んでいたイラン系民族)をモデルにしたという説が濃厚だ。「見知らぬ4人が御前に現れて歌って踊ったが、その様子が奇怪で衣冠も違うので、人々は『山海の精霊』と言った」(『三国史記』)という処容(チョヨン)の説話もこのころペルシャから来た移住民を描写したという学説がある。この他に各種宝石が施された黄金の宝剣やガラスのコップなど新羅の交易半径が中央アジアを経て欧州まで拡大したことを示す代表的な遺物に挙げられる。
展示品を見ると、百済は中国、新羅は西域、伽耶は日本と関連ある遺物が多数出土するという特徴がある。
https://japanese.joins.com/JArticle/285854>>117
日本にもローマのガラスがありますけど、どうして新羅が持っていたガラスが、シルクロードの終着駅との結論になるのかが、全く理解出来ませんw>>117
前に別のスレで言ったよね
議論のやり方が解らないのだから、ご両親にでもみてもらってから、書き込んだ方が良いですよと
また、日本人に一時の笑いを提供して逃亡することになりますよ?>>117
出直してきなさいw
正倉院 宝物 瑠璃杯
銀の脚が付いた紺色のガラスコップで
ガラスの部分はペルシアで作られた
脚は中国風の龍が線彫りであらわされ,
ガラスの部分との取り付けには東アジア特有のうるしが使われています。
https://www.kunaicho.go.jp/kids/shosoin/houmotu.html- 121
名無し2021/12/21(Tue) 16:55:33(1/1)
>>121
君たちはいつも証拠もなく盗んだと言うんだねw>>121
朝鮮半島の小国のどれかが、跪いて大和朝廷に献上した物品じゃないの?好太王碑
【百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民 】
〈そもそも新羅・百残は(高句麗の)属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百残・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。〉日本が391年から百残・加羅・新羅を破り統治した。
>>121
菩薩国宝
第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は、本像内部の内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻はほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影のさい、内刳りの背板はアカマツ材でなく、クスノキに似た広葉樹が使用されていることが判明した。この背板は後補ではなく、造像当初のものとみられる。この点に加え、アカマツが日本でも自生することから本像は日本で制作されたとする説がある。>>115
先住民である縄文人の時代に国は無く、次いで長江文明人と混血した倭人が半島南部に広がって勢力下に収めたのだから、石器時代の古代から6世紀までは『倭半島』。
唐が起こって、それまで属国だった新羅が「倭(やまと)」に反旗を翻して、倭人勢力が百済と共に半島から引き揚げたから、7世紀~9世紀までは『新羅半島』。
中国人(高句麗の武将)王建が国を立てて後、半島を勢力下に収めた10世紀~14世紀までが『高麗半島』。
女真族の李成桂が、明の皇帝から朝鮮という国名を賜ってから、現在に至るまで、住んでいる民族は変わっていないから、そのまま「朝鮮半島」でいいんじゃないか。日本統治時代もそのまま半島の領土全体を朝鮮と呼んでいたわけだし、「朝鮮」の名前は残すべきだろう。つまり15世紀以降は「朝鮮半島」。
朝鮮民族によって汚された土地に「日本」の「日」なんて名前を混ぜるなよ。朝鮮半島最大の古代の墓、開けた直後に閉じた理由は
登録:2021-03-21 23:40
長鼓峰古墳をめぐり考古学界で騒ぎに
日本の古墳に似た構造や祭祀の跡をめぐり議論
「追加発掘後に一般公開」とし、再び埋める
墓の被葬者は百済の統制を受けた倭人?
日本の右翼が任那日本府説の根拠にすることを懸念
朝鮮半島で最大の古代の単一の墓が、新年の初めについに開かれた。考古学者らは5~6世紀の日本の古墳とそっくりな墓の構造に驚き、すぐに土で覆われ再び埋められてしまったことにがっかりした。今年1月、国土最南端の海南(ヘナム)から聞こえた墓の発掘に続く覆土のニュースは、メディアには公開されなかったが、韓国国内の考古学界を騒がせた。
この遺跡は、全羅南道海南(ヘナム)の北日面方山里(プギルミョン・パンサンリ)の長鼓峰古墳だ。6世紀前半のものと推定されるこの墓の外側の墳墓と石室内部が、昨年10月から今年2月まで、馬韓文化研究院の発掘調査により約1500年ぶりに明らかにされた。驚くべきことに、石室は日本の九州の外海岸と有明海一帯で5~6世紀に造成された倭人貴族の石室墓と、構造はもちろん墓の内部への入口をふさぐ前に行われた祭祀の跡までほとんど同じだった。
天井と壁面にも、日本の弥生時代以来の古墳の典型的な特徴である赤い朱漆が塗られた跡が残っていた。
長鼓峰古墳は墳墓の長さが82メートル(溝を含む)、高さは9メートルに達する。皇南大塚などの新羅の慶州の大型古墳より大きい韓国国内最大級の墓だ。外見は日本で古代国家が成立する当時の墓の様式である前方後円墳(長鼓形墳墓)の形だ。前方後円墳は、墳墓の前方は四角い形で後方は丸みのある円形の特徴をとり、日本の学者が名付けた名称だ。日本の墳墓の形式である前方後円墳が古代の海上路の要所である全羅南道の海岸一帯に10基存在するという事実は、1980~1990年代に相次いで確認された。日本の右派勢力は、4~6世紀に日本が朝鮮半島南部を支配したという「任那日本府説」を裏付ける物証だと主張した。韓国と日本の学界で、埋葬された人物の出身地が朝鮮半島か倭国かをめぐり大きな議論となった。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/39476.html>>3
常識的に考えれば高麗が編纂した三国史記。
ただ、韓国では頻繁に、高麗時代の僧侶が個人的に書いた三国遺事を取り上げたがる。
ちなみに、朝鮮民族の神話の檀君神話は三国遺事で初めて出て来る。
高麗以前の高句麗や百済、新羅では、それぞれ別の神話があるので檀君神話の入り込む隙間は無い。>>日本人が出入りし
列島から半島へも移動は常にあるが、無くても弥生人は半島内でも完成される。
何故なら、半島にも縄文人が列島から移動しており土器やDNAが出土している、韓国の欲知島遺跡から出土した紀元前3500―2000年頃の女性人骨のDNAが95%縄文という結果、
男だけでなく女も半島へ移動している、交易の遺跡を見れば以前から知られていたこと、他2箇所の遺跡からも6000年前の縄文人DNAが確認されている。
縄文人は列島内で生まれたものでり大陸や半島では生まれた可能性は低い。半島内で混血も進む。弥生渡来人は縄文人の遺伝子を持っている例もある。しかし、朝鮮半島に渡来系弥生人と同じ遺伝的な構成をしている集団は見つかっていない。
Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages
https://www.nature.com/articles/s41586-021-04108-8>>131
チョッパリがウリ達から略奪していった物nida!!
今すぐウリ達に返すnida。
今なら賠償と謝罪だけで許してやるnida。>>133
少し暇つぶしのレスを...
隋、更に三国時代以前、前漢の時代、特に武帝の即位後、漢と匈奴でSilk Road、つまり交易路や中継集積拠点の奪い合いだったのです。
騎馬民族である匈奴の支配領域は非常に広く、山脈側から西方において漢の力は匈奴に及びませんでした。その中でも重要な中継地であったオアシスにある国家、楼蘭(漢の統治で善鄯と国号の改称)の取り合いだったのです。
その交易における東の果てが日本なのですが...
長安からは東向き(海側向き)での交易路が多く、朝鮮半島は経由せずに黄海側から海路によって日本へ至りました。
中継したとしても、それは帯方郡(漢の領域)を経由し馬韓から日本、若しくは帯方郡から船舶で日本に来ますから、日本と朝鮮半島との交易とは別の交易品となります。
117の日本の罪さんのレスは、全くSilk Roadの概要を理解されていません。>>1
当時、半島の一部は日本だったのだから当然だよ>>135
新羅は、現在の韓国と無関係。
貴方と新羅に何も関係がない 😜>>26
処女何千人と交換で買い取ったんだろうか?YouTubehttps://www.youtube.com/watch?v=yIZscD6FQvI
長浜浩明「日本人は朝鮮半島から来た」というフェイクヒストリー
<最新の遺伝子解析から分かる事>>>140
う~ん。
個人的な考えだけど、元々半島にいた人々(半島南部の百済とか任那とか)と日本人はほぼ同じ民族なんじゃなかろうかと思うんだ。だから、百済の皇太子が人質だか留学だかで日本に居て、白村江の戦いに日本が介入する流れになったんでは?と。
ただ、今の韓国人がその辺りと同じ民族かといえば違うだろうね。新羅の攻撃で百済が滅びた後にモンゴルが南下してそのあたりの民族を駆逐してるし、高麗とかの王族も島に逃げて無政府状態が数十年続いたと言われてる。この間は殺戮三昧、レイプ三昧だったそうだ。おそらく、その混血が今の韓国人だと思う。>>142
根拠もないのに犯罪者が略奪者呼ばわりとは盗人猛々しいぞ!
分を弁えろ痴れ者が!>>142
黙れエベンキ!
シベリアに帰れ!>>146
キチガイ取り敢えずさ、百済うんちゃら以前にさ、モンゴルの支配下にはいって今の容姿になった事実って、此処に書き込む韓国人って分かってるのかな?w
>>149
別人だったかな?
昔ここには百済がどうだの、徳川家は青い眼の白人種で日本人とは関係ないだの言っていた上古史を信じるキチガイ韓国人がいたのだよ。
彼も君の言う新羅の金がどうこう言ってたもんだから、同一人物かと思っちゃったよw>>151
그것은 왕의 고분으로는 사용되지 않았는 귀족의 무덤 일본인의 귀족이 백제에 와서 활동하였겠지.
어느 의미 신라 영토에서는 없었는 고분 신라는 관계없다.>>157 미안하지만
차별 받는 전라도의(백제) 후손이라고 천명한
천황 일가 따위 아무도 부러워하지 않는다
천황은 하프 홍어다>>163
韓国らしい面白い歴史だwwwww直近だと
http://gensen2ch.com/archives/84703797.html
真っ先にコレが出てくるな。
韓国刀とやらの復活に、何故か日本の刀匠に弟子入りとか頭わいてんじゃねぇーのw>>161
融合とか言いながら、お前らモンゴル差別してるじゃん。
韓半島から西域の埴輪、黄金の宝剣、日本の土器が出土
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