82歳で他界した祖父から聞いた話しです。
当時私はまだ10歳ぐらいで詳しい詳細までは聞いてないのですが、祖父が19歳ぐらいのときに海兵だったそうです。その軍艦には全国から兵が集められており、その中でAさんという同じ県から来た同じ歳ぐらいの方ととても仲良くなり、とても厳しい海兵でも2人で協力してこなしていたみたいです。1人が失敗して上官に怒られても2人で一緒に怒られたりとか、
それでも家に帰りたくて、敵の戦闘機が来ると足だけ出して「足の一本ぐらいで故郷に帰れるなら帰りたい」と言って2人で足を出すのですが、甲板を銃弾がバチバチバチと走って行くのですが、妙に足にだけ当たらなかったと笑って言ってました。
軍艦の様子も少し話してくれたのですが、軍艦の周りには鮫がずっとついてきていて、医療室は腕が無い人とか足が無い人など包帯でミイラみたいな人で溢れかえって地獄のようだったと言ってました。
そんなある日、もの凄い数の敵の戦闘機に狙われて祖父は何とか物陰に隠れて助かったのですが甲板のほうを見るとAさんが倒れていたそうです。敵の戦闘機がまだ飛んでいる中をAさんのもとに駆け付けて「大丈夫か!」と声をかけたのですが、Aさんはお腹を撃たれて内臓が飛び出していました。するとAさんが、「○○(祖父の苗字)、喉が乾いた、、水をくれ、、」
祖父が「わかった!すぐに持って来るからな!待ってろよ!」と言ってすぐに水を持って来たのですが、その時にはもう亡くなられていたそうです。
そして、祖父は戦争は絶対にしてはダメだと言ってそれ以上は何も語りませんでした。俺の爺さんは大正デモクラシー世代で、満州でも兵役についたそうだ。
多分金日成あたりと対峙していた地区だと思う。
でも、じいさんは帰って来たら完全に平和主義者になっていたようだ。
戦後に購入している書籍を見てみると、一般兵の悲哀を描いた本が多数あり、その中には1970年代に購入した「従軍慰安婦」の本もあったw
爺さんの友達が、これまたインパールの生き残りで通信兵やっていたようだ。通信兵だから将校あたりの事情はよく分かっており、「誰々が悪い」と明確に言っていた。>>23
俺のじいさんも「戦争は絶対に駄目だ」と言っていたな。
将校あたりと、一般兵の認識はそりゃ違うだろうね。
最近92歳の親戚の人で、学徒動員で佐世保の潜水艦に配属された人が死んだ。この人は比較的勇ましいコトを最後まで言っていた記憶がある。家の亡くなった母は昭和九年、九州生まれ。太平洋戦争中、通っていた学校、尋常小学校だったかな?に機銃掃射があったそうです。母は咄嗟に窓際下に逃げ、廊下側に逃げた子達は撃たれて亡くなったそうです。あれは忘れる事は出来なかったらしいです。登下校中も、空襲を受けて爆風で目が飛び出さないように両手を両目にあて地に伏せたと言ってました。
お爺さんは炭鉱で働いていた中国人と仲良くなり、終戦後、母を引き取りたいとせがんだそうで、ビックリしたと笑ってました。ウチの爺さんも満州だったな
無口な人(孫に対してだけかも)だったので、これといって聞いた覚えがない。
唯一覚えてるのは、テント建てるとき支柱を砂に水撒いて固めるとか言ってた。
私が成人してよそのお爺さん2人に聞いた話。
一人目は朝鮮から引き揚げ者だったが、
身内のように仲良くしていた隣人の朝鮮人に財産を預けて逃げてきたが
結局返してもらえなかった。という事。
二人目は関東軍の人で当時の関東軍だけで日本と戦えるぐらい強かったと自慢げな人だった。10年以上前に聞いた話なので時系列などは全然覚えていない話。
進駐した村の大きな屋敷で(誰も居なかった)炊飯しようとしたが
雨に濡れた薪で火が付かず、燃やせるものを物色してたら紙幣みたいな紙を丸めたものが壁一面にあり、それを薪代わりにした事や、まだ沢山ある紙幣をリュックいっぱい詰めて持っていって
途中のリンゴ園?でその紙幣でリンゴを買った事。
ある村では村人全員が遠くの山に逃げた後で一人の少女がタバコ1本を持って戻って来たので交換に紙幣を一巻きあげたら、
次の日、山から沢山の村人がタバコを持ってやって来た事。
捕虜を連れて移動していたが、食料がない為、上からの命令で日本刀で処刑した話。
(聞いてた感じだと5名程度)>>23
日本の先人たちは、戦場で同じような事を経験し、中には仲間や部下を救えなかったという十字架を背負い、戦後生きてきた方も多い。その中で身内以外に戦争の悲劇を直接伝える事はしなかった。なぜなら遺恨を語り継ぐことになるから。米国であれソ連であれ中国であれ。反対意見はあろうが、非戦を貫く事が本当の平和だって意識が強かったんだろうね。
親戚の86歳の高齢者は、断固非戦で愛国主義も嫌い、朝日新聞を読む。この世代は直接親が被害に遭った人も多く、中国人・朝鮮人の嘘は許容できるが、米国やソ連の無差別攻撃やシベリア抑留、特に玉音放送のあった8/15以降の侵攻については、露助(ロシア人)が大嫌いだと強い反発意見を持つ。
世代によって隣国への感情は異なるが、日本人は口伝で戦争の悲劇を伝えられてきている。だから左翼の理想主義的平和活動が自由に行なえたのだろう。それを上手利用した中国共産党・韓国の反日行為のおかげで、嘘偽りの悪評を散々振りまくことになったがな。
韓国人や中国人がどんなに勇ましい事を言っても、リアリティがないんだよ。その世代の方々の口を封じてしまっているから、戦争の悲劇を全く感じない。それどころか戦争していない相手(日本)からの悲劇だけは21世紀になっても湧き出てくる。韓国人は敵を間違えるから後頭部が無防備なんじゃないの?>>32
俺の場合はじいさんの1970年代からの古い慰安婦本を読んでいたから、慰安婦の待遇はかわいそうで賠償ぐらいしてやれよと思っていた。(小林よしのりは将校対象の優遇された慰安婦の事例をだしているから一般的な慰安婦像じゃないんだよ)
だが、韓国に関する本を1990年台の初頭から読んで、韓国人の性質を知るとこりゃ駄目だと思ったよ。安易に謝るのは駄目って当時は既に思っていた。ネットが流行る以前の話ね。
まあ、今の状況は仕方ない>>33 サイタサイタ サクラガサイタだったかもしれません。 記憶が曖昧で、教えていただきありがとうございました!
日本人全体が極悪非道だということになってるが、
少なくとも自分の周りの老人達が言ってたのは、戦争というのは本当に辛く
悲しみしかないと聞かされてたけどね
韓国では日本が何時攻めてくるか判らないとか、後頭部殴るのが日本人だと言うけれど
日本は今後、他国を侵略する行為は絶対にしないと思う。 それは国民の総意だと思う
少なくともお隣の国に関わるのはもうコリゴリだし、併合してくれと頼まれても断るでしょ(笑)おじでもいいよね
昭和一桁生まれで、戦時中の記憶も確かなおじ
普段は明るくて甥姪の私にもとても優しいおじだった
そんな彼が豹変した事件
おじの実家で法事があったとき、訪問客の一人を口汚く罵った
その時はなんでそんな差別をするんだと、おじに幻滅した
でもおとなになってから、その訪問客が在日韓国人で、叔父の家に散々いやがらせや迷惑をかけた男だと聞き、ああおじのことを悪く思っていて悪かったっと後悔したうちの爺ちゃんは本家の長男だったので徴兵はされずに本土決戦のための予備兵だった。訓練はしてたが、敵戦車の下に爆弾抱えて潜りこんで自爆する要員って話してた。後、訓練無い時は交代で高台に登って敵機襲来の見張り員してたみたい。
ちなみにうろ覚えだが、たった一言だけおじの言葉で忘れられない言葉がある
それは在日に向かって、「その薄暗い部落の目を見せるな!失せろ!」
多分部落=朝鮮部落のことだったんでしょう大正10年産まれの父の話をします。戦争の話はなかなか話してくれなかったのですが、一度だけ、聞かせてくれたことがありました。
父はインパール作戦の生き残りです。今のミャンマーとインドの中間地帯でインドとイギリス軍の連合部隊と戦い、片目を銃で撃ち抜かれました。ジャングルの中を夜歩いて兵舎まで、後退したようです。夜に移動したのは、とらが生息していたからだそうです。その後父の部隊は全滅しました。父には戦友がいません。父の頭の中には銃の破片が残ったまま4年前に亡くなりました。(´・ω・`)じじい「大和でかっ」
母方の爺ちゃんは戦争でロシアに行ったんだけどロシアの捕虜になった。真冬なると氷点下の中、強制労働で堤防作らさせられた。他の日本兵は真面目にコンクリートを作っていたが爺ちゃんは「すぐ決壊するようにセメントを少なくしろ」と言ったらしい。で、爺ちゃんが日本に帰って数ヶ月後、そこだけ決壊したみたい。
うちの爺さんは通信兵でフィリピンには帯同していたようですが、基本後方支援が担当だったため、直接的戦地に行く事は殆どなかったとの事。終戦間近は日本の福島あたりに配属になっておりそのまま終戦。
フィリピン通信兵時代は日本人7名、朝鮮人二名が配属になっており、生き残った日本人4名と朝鮮人1名は友人として死ぬまで交友は続いていました。
爺さんの弟は特攻で命を失い、戦争の悲惨さは常に言っていました。>>6
韓国では6.25戦争のほうが印象深いようですね。お爺さんお婆さんを大切にしてやってください。貴重なお話ありがとう!昭和4年生まれの母方祖母は五歳の時全羅南道飲まない光州に行った。曾祖父は警察官だったとの事で官舎暮らしでその後女学校で寄宿舎生活をしていたそうです。戦中に何も伝えず曾祖母と長男と次女がいきなり日本に帰ってしまったそうです。残った次男は曾祖父の同僚家族に預けられて祖母は15才で学校の先生まがいの事をしていたそうです❗食べ物は不自由しなかったかと聞いたら野菜は自分で育てて米は朝鮮の人からもらっていたと聞きました。戦後船で山口まで行き、汽車で戻ったそうです。曾祖父は戦後済州島でライ病の人がデモみたいなのをおこしたので話をつけに行ってから戻ってきたそうです。
>>13
「捕虜の方が良い物食べていた」は俺も聞いた事有る。バターン死の行進とかもそれだろうなと思った。バターンの兵隊さんガリガリだもんな。종전 후
식민지 조선에서 일본으로 돌아간 일본인의 생활은 비참했다고 들었다2、26の軍靴の音を聴きながら布団を被って震えていた。
軍属解除が遅れて引き揚げ船に間に合わず、軍人用引き揚げ船で内地に向かうさいに、米軍の船が臨検と称し乗り込んできて、金目のものは全て奪われた。上陸は舞鶴ではなく小倉だったので、軍人とは違い引き揚げ者証明がなく苦労したとか。
親兄弟が朝鮮に残した財産は、現在の金額で数十億円になると言ってた。
日韓基本条約で請求権放棄させられ、代わりに10年分割の国債を貰ったそうだ。
年1万数千円、有り難いと言ってた姿を思い出す。
そんな親父が言っていた事は「米国と蒋介石には感謝せよ」だった。>>46>>47
YouTubeでも 南京無血入城の動画が多々アップされてますけど
先行部隊が 城に入ると 誰も攻撃して来なくて 中に居た国民軍は
敗残兵が 逃げられないように 城壁に鎖で繋がれてただけだそうです
帝国陸軍は 上海から 歩いて進軍してるのですから
南京城内に居た 国民軍は 司令官以下 充分に逃げる時間がありました
民間人に化けた 便衣兵には 気をつけていたそうですよ
敗残兵を集めて 手当してやり 城内を掃除してから 本隊を迎え入れました
その後 親父達先行部隊は 逃げた国民軍を追いかけて武漢迄行きましたので
南京に残った本隊が 100人切りしたかどうかは 不明だけど
刀で 100人切りなんて 刃こぼれするし 曲がるし 脂肪が付くから絶対無理!
って 言い切ってましたね>>58>>59
入城すると 廃兵しか居なかったってのが 如何にも シナの軍隊でしょ
足手纏いになるので 捨てて行かれたのですね
その後 武漢迄追いかけた親父たちの部隊は 帰国出来ることになり
輸送船で長江を下ってたら 機雷に触れて いきなり 船底に穴空いて
浸水したそうですが、親父は 下士官ですので 兵隊と同じ船倉に居たので
セヴォル号状態の水責めで なんとか浮き上がった処に
偶然 天窓のハッチが有ったから そこから 脱出したそうです
命からがら浮いてると 川岸から 機銃掃射されて
「俺は もう終わりだね」と覚悟したら
帝国海軍の駆逐艦が 川岸の国民軍を砲撃してくれて
カッター降ろして助けてくれたそうです
部隊の戦友は 殆ど水死したみたいですが 悪運強い親父は生き残りました
ここで親父の一回目の徴兵 帝国陸軍近衛師団通信軍曹編は一応終わって
帰国し 仕事に復帰します
第二部 帝国海軍尉官待遇編に つづく>>44
当時の朝鮮人が羨んだのは、日本が朝鮮のインフラ整備や近代化を持ち込み、
その発展した場所としての京城デパートだったからでしょ。今の基準で、
日本人女性だけがその職に有り付けた…ってことだけじゃないよね。
もし日本人と朝鮮人が同等なら、現在だってサービスにこんな差はないだろうし。
>>55
私が聞いた祖母の話では、まだ親族が世話してくれたようで、皆に力が戻ってから
東京に上京して、そこでも小さな部屋に5~6人で住んで、闇市を手伝いながら
生計をたてたらしい。引き揚げは命からがらだったみたいだけど、逃げる途中、
朝鮮人のご家族が助けてくれた事もたびたびあったらしい。
韓国人の反日って…李承晩が扇動して、朴正煕が利用したおかげで、
韓国人にとって大きな損益になったと思うよ。当時を知ってる祖母は、
なんで当時を知らない人のせいで仲違いしているのかって聞かされたしね。
>>61
だとしたら、祖母がお世話になりました。笑
なんか…韓国人の歴史観を見ていると、テレビゲームの原因不明なミラクルチャンスばかり。
1つ1つ積み重ねた歴史の重みを感じない。そこに疑問を持たないのが不思議でしょうがない。母方の祖父の話。
昭和天皇と同じ年だった祖父は身長が150cm程度だったが、
兵役(徴兵?)検査に落ちて、戦争へは行かなかったそうです。
兵役検査に落ちたから、かなり肩身の狭い思いをしていたらしい。
むやみやたらに徴兵したわけでもなく、家の断続を防ぐ為に、跡取りがいない場合は
跡取りが生まれるまで徴兵されなかったらしいが、さすがに戦争末期には
養子縁組などをして戦地に向かったそうだ。
青森生まれの母は戦争末期の空襲体験を忘れられないと言っている。祖父祖母の話ではないが、
昔 俺が 鉄工所に勤務していたときの話だが、
学生の時 魚雷を 作っていた と言っていた先輩が、
魚雷の試射に 同行していて 魚雷が真直ぐに 進まないのを見て、
「これじゃぁ 戦争に負けるよな~ 素人集団で作ったから
仕方が無い」 と思ったらしい。>>18かわいいハルモニ
>>3
早く本を書きなさいPixivで異次元過ぎる祖父の話
という戦時中の時代の漫画があります。
沖縄もすごくすごく昔は差別がありましたから、朝鮮でも少しは差別はあったかもしれません。
この漫画に、朝鮮支店の銀行にいたときに息子が生まれたので、朝鮮にいるとき、二番目の子、という意味で鮮二と名付けたと書いています。中のいい朝鮮人と日本人もたくさんいたはずです。
私の曾祖父の兄弟は軍にいたので曾祖父も朝鮮に住んでいました。土地と家を買い、朝鮮人の小作人を雇いました。
しかし、朝鮮から日本へ帰ったとき、土地と家をその小作人に盗まれました!!
私の祖母はだから、朝鮮人が嫌いです。でも、ju ji hoon が好きで、毎日一日中DVDを観ています…彼は脇の毛を剃っているのは嫌だと祖母は言っています。
在日韓国人の随筆で、日本が統治してので学校に行けました。韓国の政府はとても悪かった、と書いていました。
日本な名前や日本語を厳しく教えたのも、高い給料の仕事で働けるよう考えたのかもしれません。
また、その頃は日本人の子供もも厳しく教えられていました。日本人の子もたくさん先生にしかられていましたよ。
Terauchi Junkoが少し前韓国の老人施設に着物で訪問したら、韓国人のお年寄りにとてもとても喜ばれ、日本語の歌を歌ってくれたり、着物だ、かわいい、とたくさん誉められたようです。
昔、韓国の政府は韓国人に対してとても冷たかった。今も、韓国政府は韓国人に冷たいのではないですか?
政治家になって高い給与をもらうために、反日をしているのでしょう。それが勉強するよりも簡単な方法なので。
だまされてはいけない。>>65
上海戦で散々悩まされたから 南京でも武漢でも用心してた って話ですよ>>45
最前線での生き残りのお話し聞けてよかった!>>1
朝鮮戦争ニカ? ベトナム戦争ニカ?
祖父祖母から直接聞いた戦争中の話を語りませんか?
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