3. 1607年端午の節句の剣戟「祭り」
「たいてい日本という国の風俗は人をよくさつすことを胆用とする。 だからこそ、殺人を多くする者はたとえ下町の卑しい者であってもその名声は高い…。 その生を軽んじて死を楽しむ風俗がこのようなものだ」(『朝鮮通信使の日本見聞録』、姜在彦著)
1607年(宣祖40年)端午の節句(5月5日)に江戸(今の東京)にいた朝鮮通信使一行は衝撃的な場面を目撃する。 いきなり、人々がどっと押し寄せてきて、刀と槍で斬り合ったり、刺し始めたのだ。 日本でさえ一般的な風習であっただけに、珍奇なこの事件は朝鮮通信使の記録により今まで記憶されている。
「遠くからでも男衆が貴賤を問わず集まってくる。 彼らは槍や刀を担いだりデモをした後、数千人が群れをなして対峙する… 各編は精鋭を出して太刀打ちをする 進んだり退いたりするが、霜柱のような刃がぶつかって火花を散らす。 互いに争ってさつし合い、死ぬ人を見ても強く進む…。 死者が多くは40人余りに達した. そのほかにも、肩を切られ、足を切って怪我をして帰ってきた者を全て記録することはできない。 この戦いはさつし屋の数で勝負が決まる」(『朝鮮通信使の日本見聞録』、姜在彦著)
記録によると、日本の全66州で戦いがあったという。 京都だけが例外だったが、喧嘩の代わりに柄棚を使った芝居をした。 当時、朝鮮通信使たちが泊まっていた宿所の近くでもけんかが起きたが、日本側の官吏たちが外国使節団にこのような光景を見せたくなかったためか、騒がしいなら禁止すると聞いてみた。 朝鮮通信使は「国の風俗なので禁止する必要はない」と答えた。 これもまた、我々にとってはかなり衝撃的な場面だった。
https://www.huffingtonpost.kr/2016/12/26/story_n_13780142.html
日本の消えた祭り、端午の節句の剣戟「祭り」
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